Ⅳ 赤い雫
甘いにおいを感じて僕は目覚めた。
シャンプーなんかによく使われる花の香りによく似ている。何の花だったかは忘れたけど、この香りは好きだった。
回りをよく見てみると、どこかの図書館のような部屋に僕は居るようだった。書架、というやつだろうか?
脚立を使わなければ一番上の棚まで届かないほど高い本棚と、その周りに乱雑に積まれた本の山。
どの本も何かの図鑑のような厚さだった。
なんだここは。
とりあえず立ちあがってみたが、それで何かが起きるとは思えない。しかし、動かないと何も起きないのもまた事実。
僕は邪魔にしかならない本を踏まないように慎重に一歩を踏み出した。
(それにしても、何が起こったんだろう)
青い光を目にしたところまでは覚えているのだが、それ以降の記憶が全くない。
ここがどこで、どれくらいの時間が経って、なぜ僕がここにいるのかまるで分らない。
普通に考えたら誘拐だよね。この状況。
親もいない上に、親族とも疎遠な僕を誘拐したところでメリットはないように思える。
「……お目覚めかい?緋島直樹君」
ぎょっとして、僕は本をふんずけてしまった。靴は履いていないのだけど、それでも何か申し訳ないような気分に陥る。ごめん。ごめんね。
「あのー、俺様無視して本に謝罪の言葉を一心につぶやき続けないでくださいませんか?」
バタバタと何かがどこかにぶつかるような音がする。
「はて、僕もついに末期症状が。幻聴が、よりにもよっておっさんの声が聞こえるなんて」
つい首つり用のロープを探してしまう。もちろんない。このどデカイ本で思いっ切り頭を打てば死ねるかな。
「えらいひどい扱いだな俺様!!というか幻聴じゃない!現実だ!」
バタバタ、バタバタ。
えらくバタバタ五月蝿いと思ったら、一冊の本が飛び跳ねていた。
「……」
冷静に、三分ほど時間をかけて熟考してみる。
「ポルターガイストか、そうか僕霊能力者に……」
「なってない!お前さんただの凡人だよ!!」
「でー、さっきから独り言にツッコミを入れてくるうざい、もとい、律儀なあなたは誰ですか?」
「意外と口悪いなお前さん」
口が悪いのではなく、素直なだけだと思います。
「俺様はお前さんの二つ前の本の山の一番上の本だ」
「はは、そんなアホな」
「えせ関西はやめろ」
声のトーンが二オクターブぐらい下がった。いいじゃないか、えせ関西弁使っても。
言われた本の山は人の腰の位置ぐらいの高さで、その最上にあった本がこのおっさん、そんなアホな。
本はこの部屋にある他の本と同じ図鑑クラスの大きさだけど、決定的に違ったのが高級そうな革ベルトでその表紙が括られていることだ。これじゃ本を読めない。ていうかこれさっきのポルターガイストの本じゃないか。
「……もしこの本がこの声のおっさんだとするなら」
「いや、だから仮定とかいらないでしょ。そう言ってんだから」
「ということはおっさん、どM?」
「ちゃうわ!ボケ!!」
おっさんの関西弁は本物だった。
「それでここってどこですか?」
本のおっさん(?)を抱えて僕は本が散らばる部屋の中を歩く。
「美能山って知ってるか?」
確かうちの高校から、1キロぐらい離れたとこにある山の名前だったはずだ。思い出した後に僕は頷いた。ってこのおっさんは視認能力があるのかな。
「その辺にある幽霊屋敷の中」
「幽霊屋敷?」
美能山は知っているけど、そのあたりに幽霊屋敷なんてものがあるのは知らなかった。そもそも僕の家は美能山とは真反対の方角にあるわけだし、知らなくても無理はないと思う。
「この近所のガキがこの屋敷をそう呼んでんだ。人は住んでるっていうのにな」
おっさんは嘲笑めいた笑い声を上げた。う~ん。子供のやることを皮肉るのは大人げない。絶対僕はしないようにしよう。
「ちなみにあなたは人に分類されるのですか?」
「いーんや、俺様は人間じゃない」
でしょうね。と僕は内心つぶやく。
この本には見る限り、無線機などの通信機器は見当たらない。拘束を解いたら何か出てくるかもしれないけど、多分そんな機械はないだろう。
「人間じゃなかったら何なんです?」
さして興味もなかったがほかに会話のネタもなかったので聞いてみる。
「う~ん。難しいな。俺様が何者か、なんて哲学的なことは考えたことないからなー」
「そういうもんですか?」
「俺様は日々を過ごすだけで手一杯なのだよ。ひゃひゃ」
どうでもいいかもしれないけど、下品な笑い方だ。
「ま、あえて何者かと言うなら、知的生命体だ」
驚いた。本は生命体だったらしい。
「それなら人間と変わらないんじゃないですか?」
「そう。俺様は人間と変わらない。ただ、物質的かそうでないかの違いしかない」
……。なんだかんだでこのおっさん、難しい話が好きなのではないだろうか。
「肉体がないだけで、基本は人間とおんなじってことだよ」
本ばっかりの部屋を歩いて十分ほどでようやく出口らしきドアが見つかった。なんだか槍のような変な装飾がされているドアだ。
「本の山で出口を隠すとは、これは嫌がらせですか?」
「俺様がやったんじゃないからな」
子供のような言い訳は止めてほしい。
とりあえずノブをひねって引いてみるが、動かない。ああ、これ押すのかと納得し、割と思いっ切り押し開くと、
ガコン!!と半分くらいでドアに何かがぶつかった。
すっと顔を隙間から出して外を見ると、
「……」
黒髪がドアから生えていた。
ってのはおもしろくない冗談で、ほんとは女の子がドアに頭をぴったりとひっ付けているだけなんだけど。
「お前さん、状況を冷静に見てないで、先に言うことがあんだろう」
おっさんに言われてはっとした。何僕はこの状況を楽しんでいるんだよ。まず謝らないと。
「ご、ごめん。まさか人がいるとは思わなくて」
黒いワンピースのような服を着た少女に話しかける。
すると少女は顔を付けたままグイっとこっちに顔を向ける。
「いえ、お気になさらず」
全く表情の変化がない顔を見て、大丈夫なのかなと安心したのも束の間。その鼻から一筋の赤い雫が万有引力に従い落ちていく。
「ぎゃ!は、鼻血!!」
驚きのあまり隙間から飛び出して彼女に駆け寄る。
女の子は黙って手を鼻にやり血に触れてようやく気がついたらしく、目を見開いて驚きを表現していた。
「と、とにかくこれで押さえていて!」
僕は手持ちのハンカチを彼女に渡し、
「おっさん!救急箱とかないの?」
「おっさんじゃない!エルだ!確か廊下の突き当たりの部屋にあったはず……」
おっさんことエルさんも動揺しているのか声に余裕がなかった。
そんなことにも気付かず、僕は救急箱を求めて駆け出した。
それが僕、緋島直樹と彼女、エイナ・ヴァルキュリア・ジュトム・テーゼとの二度目の出会いだった。