アリスⅣ 贖罪と赦免
前回のあらすじ
僕はアリスに両親が消えた改変の事を話した。落ち込んだアリスは彼女たち調律者が改変を起こした者たちを存在だと教えてくれた。
改変者を救うことで、僕に嫌われるのではないかと心配するアリスを安心させるため、僕は僕の両親のを消した改変者を赦して見せることにした。
僕は……前に進むんだ……。
彼にはすぐに連絡がついた。
忙しいはずなのだけど二つ返事で僕の呼び出しに答えてくれた。
それはもしかしたら、あの日の罪悪感からの行動なのかもしれない。
アリスとともに来たのは小洒落れたカフェテラスだ。街路樹が並ぶ道の脇に隠されたようにここは建っている。クラスメイトの中村のがいうには、ビジネスマンがよく利用しているらしく、お洒落というよりはシンプルで渋い魅力を売りにしているという話だ。
さらにこの店は街の東側に程近く、両親が経営していた会社にも近い。
ここを指定したのは彼の職場が近いからだ。忙しさで断られる可能性もあった以上、彼には最大限ここへ来れるように配慮した。
店内の席か、店外に設置されたウッドテラスを選べるようで、入店した時に対応したウエイターが「どちらがよろしいでしょうか?」と尋ねてきた。
アリスは「どちらでも構いません」というので、僕はウッドテラスの席を選んだ。
そのままウエイターに僕はコーヒーをアメリカンで頼み、アリスは紅茶をオーダーした。
コーヒーを口に含みながら、僕はウッドテラスから見える街路樹を眺めていた。
確か銀杏の木のはずだ。そう僕は思い出す。
まだ両親がいたころ、秋に銀杏が見ごろだからと僕は銀杏の並木に連れてこられた。
空を覆い尽くす黄色のカーテンと、地面を埋め尽くす黄色の絨毯に僕ははしゃいでいた。
はしゃぎ疲れた僕を休憩させるため、両親はこの店を利用した。
そういえば仕事の日もここをよく利用しているって言ってたかな。
曖昧な記憶の中の僕はすこぶる上機嫌だった。
これから起きる欠落、改変を知らない彼のその表情を、ほんの少し前までの僕にはできない表情だった。
視線を正面の少女に移す。
アリスはふぅーと紅茶に息を吹きかけ、熱を冷まそうとしていた。
僕は自然と笑顔になった。
きっと今の僕はさっきの記憶の僕と劣らないほど上機嫌だろう。
そう信じることにした。
「アリスの御両親はどうしてるの?」
「どうしたんですか? 急に」
「うーん。なんとなくさ。僕ってアリスたちのこと全然知らないなって思ったんだ」
好み、思想、生活、家族、所属、そして過去。
人間はいくつもの面を持っている。
そのすべてを知ることはできないけど、ちょっとだけでも、アリスたちのことを深く知りたいと思った。
「ワタシの両親のことがあまり面白いとも思えませんけど、……まあお話しましょうか」
あまり乗り気でない口調とは違い、嬉しそうに微笑んでアリスは話し始めた。
アリスの話が終わる頃、ようやく彼が現れた。
「やあ、直樹君。今日はどうしたんだい? 可愛い御嬢さんを連れて」
滲んだ汗をハンカチで拭いながら、彼は現れた。
「こんにちは、麦野さん。お忙しいのにお呼び立てしてすみません」
麦野大河さんはあの日よりも大分老けていた。白髪が増えて、顔のあちこちに深い皺が刻まれている。それだけ会社経営に苦労しているのだろうか。
「今日は貴方にお聞きしたいことがあってお呼びしました」
彼は人の良さそうな笑顔を浮かべて、「その前にお水をもらってもいいかな?」と言った。
アリスが僕の隣の席に移動して、向かい側に麦野さんが座る。
そこまで近付いてきて、彼の額に前髪が濡れて張り付いていたのが見えた。急いできてくれたのだろうか。
ウェイトレスが運んできてくれた水を、彼は一気に飲み干した。
「ふぅ……。それで、一体どうしたのかな?」
「単刀直入に尋ねます。麦野さん、あなた、過去を変えましたね?」
麦野さんは笑顔を崩さずに僕をじっと見ていた。
ほんの数秒が一分以上に感じられるようだった。
やがて彼は、大きく溜息を吐いた。
「あの日、君を見たとき、君だけはそれを知っているような気がしたよ」
彼はさらに息を吐き、空を仰いだ。
「僕はそう言う体質みたいです。つい最近知りました」
「何にしても、私はようやく私の罪を君に話せるという訳だ」
正面の僕に微笑みを向ける。
やめてくれよ。そんな清々しそうな顔をするのは。
……あなたが、許せなくなるじゃないか。
「彼女も?」
「……はい。ご紹介します。アリスです。多分、僕らよりもこの現象に詳しい人です」
「ほぉ。それはそれは。よろしく。私は麦野大河、彼の両親を消した者です」
「え、ええ……」
柔和な笑みを保ったまま、麦野さんは手を組み合わせ、机に肘を置いた。
「さて、それでは何から話そうかな」
それから彼の罪の告白が始まった。
「私はあの時、ちょっとお金に困っていてね。というよりも、君の両親たちから独立して起業しようとしたんだ。まぁ若かったんだろうね。私は、自分自身の力を知らなかった。起業して活躍できる器でもないのに、社長夫妻の起業した時の話を聞いて、私もやってみたいと思ってしまったんだ。社長たちは止めたが、私は聞かなかった。
案の定、私は失敗して、借金だけが残った。再就職先を探したけど、誰も雇ってくれなかった、そんな時、私を社長夫妻は拾ってくれたんだ」
流暢に話すその表情は昔話を友人としているように、弾んだ声と表情だった。
僕は麦野さんの顔を見たくなくて、隣のアリスの様子を窺う。
アリスは眉根を寄せて、麦野さんの瞳を一身に見ていた。
「でも、私はしばらく苦しい生活をしていたんだよ。以前働いていた私はそこそこ上の役職を任されていてね。年収もそこそこよかった。でも、再就職させてもらった時は、また一から始めさせられていてね。当時は酷かったな;ぁ」
ああ、駄目だ。
気を抜くと殴りかかってしまいそうだ。
僕はどうしてこんな人を許そうと思っていたのだろうか……。
アリスの眼に明確な怒りの色が現れた。僕は机の下の彼女の手を握った。
僕の顔を窺う彼女に、僕は小さく「大丈夫だから」と言った。
アリスは泣きそうな顔をして、目を伏せた。
「そんな日々を送るうちにね。いや、全く、私も自分が馬鹿だと思うのだけどね、社長たちを恨むようになっていたんだ。自分たちだけ成功しやがって、そのくせ俺にはこんな対応しやがって、ってね? 酷い逆恨みだよ全く」
だったら、何故あなたはそれを楽しそうに話すんですか?
と寸でのところでその言葉を呑み込む。
「そんな時だ。あれが私に話しかけてきた」
「あれ、とは何ですか?」
「真っ黒な闇だよ。ふと気が付くといつも私に囁くんだ。消してしまえ、消してしまえ。ってね。私はそれが悪魔の囁きだと思ったよ。でも、その囁きは私にとって甘美な未来を提示してくるんだ。正直、耐えかねるものだったよ」
真っ黒な闇。おそらく負素だろう。あるいはその親玉。沢田さんに取り付いていた負素なのかもしれない。
「そしてあの日だ。私はついにその誘いに乗ってしまった。闇が囁くままに私の望みを話してしまった。気がついたら私は見慣れないマンションの一室で眠っていた。私は起業に失敗してからは六畳一間のアパートに住んでいたはずなのだがね。だが、その部屋はどう見ても数年以上利用したような状態だった。
頭を捻る私に会社からの呼び出しが来た。その時、若手の社員がね……ふっふっふ……なんていったと思う? 社長だよ? 社長! この私を! はっはっは、全くふざけてる」
彼はようやく顔を歪めた。ああ、その顔の方が、まだ許せる気がする。
「それで、あなたは今日まで社長として生きてきたわけですね」
「そう、君の両親の会社を乗っ取ってね」
僕は彼の声に自責の色が聞き取れたような気がした。
「直樹君。私は決して許されないことをした。私はあの日から今日までとんでもないことをしたと自分を責めた。二人を殺し、君という子供を不幸にしてしまったんだ。悔やんでも悔やみきれなかった。どんな罰でも受けるつもりだ。君の気が済むように……」
「ふざけないでください‼」
「⁉」
アリスが耳が痛くなるくらいの声で叫んだ。
アリスは立ち上がり、麦野さんを睨んだ。
「貴方は卑怯です! 貴方がしたことが直樹さん以外は分からないからって、そんなこと言って! しかもなんです! さっきまであなたは何を楽しそうに話していたんですか⁉ 聞いている直樹さんの気持ちも考えないで!」
アリスの手を引っ張るが彼女は止まらなかった。
「直樹さんは、あなたを……」
「アリス!」
僕は立ち上がって彼女の前に立った。
「直樹さん!」
「もう、いいよ。あとは僕がやるから」
アリスは目端に涙を溜め、僕の顔を見上げた。
僕は笑って見せた。
そして麦野さんに向き直る。
「麦野さん、一つ質問があります。あなたはその闇に何を願ったんですか?」
圧倒されていたのか目を見開いていた麦野さんは、水を口にしてから、
「君の……、両親がいなければよかった、と願ったよ」
麦野さんの声は震えていた。
深呼吸する。
腹立たしいが、それはきっと誰しも考えてしまうことだろう。誰かがいなければ、こいつさえいなければ。それは本当なら叶えられるはずのない願い。叶えられてはいけない願いだ。
だから落ち着け。もうこれは起きてしまった現実なんだ。もう僕は、それを受け入れているだろう?
「すまなかった。私は、長年この罪をずっと一人で背負い続けていたんだ。誰も、私の罪を知らない。だから……責められない。だから贖罪すら許してもらえない。それが、……私にとって何より、辛かった」
麦野さんは青い顔をして僕を見つめた。
……。
言葉をぐっと飲み込む。
そして、別の言葉を紡ぎだす。
「お疲れ様でした。もう……いいんですよ」
アリスが小さくしゃくりあげて泣く声が聞こえた。
「僕は、貴方を、赦します」
麦野さんの眼が見開かれる。
がたがたと振るえる唇に、渇いた瞳には水滴が滲み出る。
深い皺をさらに深くして、僕を見つめる。
「だからどうか、これからはその重荷を下ろして、生きてください」
僕はアリスの肩を抱きかかえた。
震えている。彼女は一体、今何を思っているのだろう。
僕はそのまま麦野さんに背を向けて、カフェをから出ようと外へ向かう。
「な、直樹君!」
麦野さんの呼び声が聞こえる。風邪でも引いているかのような掠れた声だった。もしかしたら声が出ないのだろうか。
なら、……。
「あ‥…とう」
掠れた声は風にさえぎられて、届かなかった。
オヒサシブリデス……。
5か月以上もお待たせして、申し訳ありませんorz