ⅩⅤ 終幕
子供たちが言うところの幽霊屋敷であるこの屋敷を出る。
そして僕らは。
闇を見た。
黒い霧が周囲を覆っていた。唯一空だけは視界が空けていた。しかし、そこから注ぐはずの陽光が闇に飲み込まれているように、ここは暗かった。
「全て負素ですね」
エイナさんは鋭い視線を周囲に向ける。
「これが負素の元凶ということにゃ!?……ひははひはひは!!」
少し怯えたのか早口で話したアリスは、こんな状況にもかかわらず、盛大に舌を噛んで手をバタバタ振っていた。
やれやれ全く、
「忙しいなあ!」
呟いた僕の前方、闇を裂いて彼はゆっくりと歩いてきた。
「よう後輩」
暗黒を従えて笑う彼は邪悪にさえ見えるが、その中に僕は寂しさを感じた。気の所為なのかも知れないけど。
向かい合い、視線をぶつける僕ら。いやがおうにも緊張感が高まる。
「兄ちゃんよぉ」
気の抜けたようなおっさんの声。なんか高まっていた緊張感が抜けていくんだけど……。
脱力して僕は肩を丸める。
「おっさん。頼むから真面目に生きてくれないか?」
「俺様の生き方にまで口出された!?」
なんか異常に驚いていた。
「ったく。……お前さんな、そんな肩肘張るな」
「無理な相談ってやつだな」
実のところ僕には何の考えもなかった。
存在を消してしまった沢田さんをどうすればいいのかも分からない。
我ながらなんて馬鹿らしい。
そんな自己嫌悪を荒っぽい僕は怒りに変え、今にも飛び出そうとしていた。
それは自制できるようなものではなかった。
スッと、空気を切るような速度で僕は駆けていた。
エイナさんもミルネさんもエルもアリスも僕を止めることはできなかった。
傾斜が比較的緩いところだけを踏みつけ、沢田さんの懐に入る。
ああ、なんか僕の運動能力も上がってるな。これは。
そんなことを思いながら、体は自然と動く。
拳を握り、引く。そして、全体重を乗せて振るう。
沢田先輩はそれを避けなかった。そして、防がなかった。そのまま沢田先輩の左頬がそれを受け止めた。
バゴッ!!という鈍い打撃音が静かな緑の海を騒めかせる。
人を殴ったのはこれが初めてだ。
痛い。体と心が、痛かった。
殴った拳を原点に、殴った右腕がジンジンと痛みを訴える。
殴られた沢田先輩が顔を向ける。ひどい顔だった。
泣きはらしたように目は真っ赤に充血し、まぶたも赤く腫れていた。顔は最後に見たときより細くなっている。いつか見た彼の自信や充実感に満ちたオーラなんてものは欠片もない。
だが、彼は笑顔を浮かべていた。
それは以前見たものと同じ、幸福と希望を携えた笑顔、彼女との仲を聞いたときと何一つ変わらない笑顔だ。
だがそれは、現実に打ちのめされた人の顔だ。
以前の、改変される現実の移ろいやすさに絶望し、諦めた僕はこんな表情をしていた。
その僕にとって諦めることこそが幸福と希望だったのだ。いや、それ以外に望みはなかった。それ以外に取るものがなかった。どうしようもない欠落を抱えた悲しみが、僕の顔からは溢れていた。
彼も同じだ。現実への絶望の果てに負素による改変を選択せざるを得なかった彼の心境。自分はいなくとも恋人は笑う世界を作った男の悲しみが滲んでいる。
種類や原因は違っても、同じ世界への絶望と悲しみを持っている。それはきっと彼も感じてくれているはずだ。
「で?」
そんな壊れそうな笑みを浮かべながら。
「お前がやりたいことってのは、俺を殴るだけなのか?」
バッ!!と黒い旋風が沢田先輩の足元から火山の噴火のように溢れ出た。
為す術もなく僕は引力を上回ったその浮力に吹き飛ばされる。
二バウンドして、三度目にして僕は舗装されていない斜面に叩きつけられた。さっき立って居た所よりも後ろなのか、振り返ったエイナさんたちが呆然とした表情でこっちを見ているのが見えた。
だがその目を気にすることはできず、あまりの痛みに体中の酸素を口から吐き出して僕はもがいた。特に制服に泥を付けながら引き摺った腕がジンジンと痛む。
幸いかどうかは分からないけど、その痛みのおかげで彼を殴った痛みはほとんど感じなくなっている。
「だいじょうびゅ!!」
アリスが盛大に噛んだ声が聞こえたが、今は気にしてられない。
焼けつくような痛みを堪えながらなんとか起き上る。
目の先には黒い負素を噴出させる男が嗤っていた。
「大丈夫なんですか?」
僕の腕に手を伸ばしながら心配そうな声を掛けてくれるが、
「触るな!痛みが増す!」
鋭い言葉でその手を遠ざけてしまった。
さっきからこの荒い僕はマイナスの事しかしないね。全く困ったものだよ。
その僕は流石にシュンとしたエイナさんに悪いと思ったのか「すまん」と一言だけ掛けて立ち上がる。
まあ、なんというか。おおまけにおまけてしてギリ及第点かな。
「それより、あれをどうするかなんだけど……」
眉間に皺を寄せた険しい顔をしてミルネさんは沢田先輩を睨んだ。
「何か案があるのか?」
そもそも彼女が僕の力を借りたいとか言ってきたんだ。何かしらできることがあるはずだ。
「ええ。でも、それをするには説明する時間が……」
一歩一歩、沢田先輩は僕らに近づいてきた。
僕の中の冷静な部分がそれに疑問符を浮かべていたが、僕という人間の表層を今司るのは荒い僕なので、気にせずにミルネさんの言葉だけを考えていた。
一体何を、誰に説明するのかは知らない。しかし、それ以外に何の望みもないというなら、それにすがるしかない。
「どうにかして時間を稼がないとな」
しかし、どうする?
舌を噛んで蹲るアリスは当然の如く戦力外。唯一の男たる僕も、今の彼に対して足止めにもならないだろう。ついでに僕がその説明を受ける側なので、やはり戦力外通告。となるとミルネさんか、エイナさんがその役を買って出ないといけない。
だが、現状はその思考する時間さえ与えてくれないらしい。
黒の申し子の周囲から噴出した霧状の黒い負素が渦に吸い込まれるように、一点に集まり始めた。
それは森川さんの時に見た負素の弾丸だった。
しかし、森川さんのと比べると明らかに違う点があった。
密度、というべきなのだろうか。大きさはそれほど変わらないが、森川さんのが雨粒だとしたら、こっちはコンクリート片のように一粒の威力が高そうだ。黒光りしているそれはまさしく弾丸といった印象を受ける。
「時間さえ稼げばいいんですね?」
僕の脇にいたエイナさんは立ち上がり、もう一人の記録者を睨む。
「……ホントは、あんたにだけは頼みたくないんだけど」
「直樹さんに何かしたら『刃』で刻んであげますから、そのおつもりで」
「失敗したら記録者の恥として永久に記録してあげるから、安心しなさい」
先日と似たようなやり取りの後、一度だけ目を合わせて、各々するべき行動をとるために二人は離れる。
「緋島君。ちょっと物陰で内緒話するわよ」
口調こそはふざけているが目が切れ者のような月光に似た光を宿していた。
僕はそれに黙って従い、ふらつく体に鞭打って駆ける彼女を追う。
やはり、僕の力が決定打になるのだろう。
もっとも、ただ改変を完璧に正せるという僕の記憶が何ができるのかはわからないけど、
「直樹さん」
呼ばれたのでほとんど反射的に振り向いた。すると、
コンタクトケースが飛んできた。
鷲掴みでキャッチし、声を掛けた主を見た。
彼女は既に背を向けていた。
「エル。『破刃』、使いますからね」
「ええい!こなくそ!こうなりゃ自棄や!派手にやったれアホが!!」
エルさんの返事と共に、疾風となったエイナさんが赤い光を煌めかせながら負素の弾丸を切り裂いていく。
それを見届け、僕はミルネさんの後へ続いた。
ミルネさんに連れられて屋敷の塀に隠れることにした。
塀の向こう側で「ブンッ!シュ!!」とか刀を高速で振っているような空気のキレる音がしている。
エイナさんには悪いがそれを今気にしている暇はない。
「緋島君。あの彼の改変を修正することは可能よ」
やけに自信たっぷりと言い切るミルネさん。
言いながら彼女は時々エイナさんの様子を塀から顔を出して確認していた。
それを見ていると仲がいいのか悪いのか、判断がつかない。さっきまでのやり取りを聞いていた僕としては彼女の本意が見えない。
「お前さん、なんであの男はここまで来たと思う?ミルネの話を加えても、奴がお前さんを探していたことは間違いないし、何か目的があるはずだよな」
どこからか聞こえるエルの声。それはどこか親や教師のように答へ僕を導くような優しさを感じるものだった。それに僕は。
「おっさん。なんであんた俺らの会話に参加できるんだよ」
……。
何故か一瞬空気が死んだ。
「緋島君って、細かいことを気にする男だね」
「お前さん、こんな状況でもそんなこと気にすんのな」
え?今の発言そこまで言われないといけないことかな?
地味に傷ついた僕に、「俺様は今コンタクトなんで、片方だけエイナの目に付いてて、もう片方がそのケースの中にあるんだよ。だから会話できるんだよ」とエルさんはゆっくりと説明してくれた。解説ありがとうございます。
「それで、沢田さんがどうして俺を狙っているかって話だったよな」
ミルネさんが(こいつ強引に話を戻した)みたいな顔で絶句していたけど無視します。
「改めて考えるとおかしいと思わねぇか?奴は存在を消している。本当なら今見えているのも奇跡に近けぇ話だ」
そんな状態で記録固定をすることはできない。
記録固定は改変者の目を見て、行うものだという。だから、幽霊にも近い今の沢田先輩には通用しない。目を見るも何もない。本来ならそこに存在しないモノの目をどうやって見ればいいのだ。
「だけど、彼は緋島君を探してきた。それはどうしてだと思う?」
そこで何かピースが繋がったのだろう。
僕の中の記憶が噴流となって次々と溢れてきた。そしてそこから僕は二つの事象と、それによって導き出された一つの結果を掴み取った。
改変に影響を受けずに記憶を保持する僕。そして、改変者。両者に共通するものは何か。
二つの出来事。それは僕の記憶と初めて対面した改変者のことだ。
僕はどんな改変にも、自身の記憶が変化することはなかった。それは自分のことや周囲の人間も果ては全くの他人に関する改変にも絶対不変だった僕の記憶。
そして森川さんの記憶。彼女は僕の周囲の情報や、クラスメイト達の記憶も改変した。だが、森川さん本人は、僕と同じ正しい記憶、改変前と変わらないを持っていた。
「記録者は、記録固定をする時に改変者の記憶を使ってるんだよな?なら、その改変者の記憶を俺が肩代わりすればいい。ってことか」
僕は導き出した推論を自信ありげに語る。
これが正しければ沢田さんを消滅から救うことはこれでできるはずだ。
僕の記憶を使って改変を正す。そうすれば全てが元に戻る。沢田さんは世界に戻る。彼の恋人は再び病を抱え、命の灯を消えそうなまでに揺らぐ。
それともう一つわかることがある。
「あの人が俺を狙うのは、自分の改変を完全なものにするためか」
自分を消すという自殺にも近い行動をとった彼なら、それぐらい辞さないかもしれない。僕を殺してまでもその改変を修正されたくないのだろう。
彼は僕を、殺す気でここに来たんだ。
「全て正解だ。
付け足しておくと俺たち番号は歪みを見つけることしかできない。だから、もっとも正しい形に修正するために改変者の記憶を記録し、それを元に改変を正す」
正しい形を記録するが故の記録者だとエルは語った。
「だからこそお前さんに記録者の力を備えさせたんだよ。もちろんエイナ達がお前さんの記憶を覗いてもいいんだがな、それだといろいろと困るだろう?これからの関係上、な」
気遣わしげなおっさんの声は誰に向かれたものなのか。気にはなるがそれを言えばまた細かいとか言われそうだね。まあ、それこそこれから考えていくさ。
少し僕が黙ったためかエルの解説の間エイナさんの勇姿を窺っていたミルネさんがようやくこちらを向いて、
「話を理解したなら早く全部元に戻して終わらせよ」
終わらせる?
何を終わらせるんだ?
僕は再び記憶の噴流の中に手を伸ばす。そして、そこからその記憶を掴み取った。
夕暮れの生徒会室、どこか陰を宿した表情で沢田さんは語っていた。
『俺の彼女は小説かってやつを目指しててさ。それでこの間、新人小説家賞に応募したんだってさ、それでいい結果になりそうだって話してたよ』
『すごいじゃないですか。それはおめでとうございます』
『ああ、俺も喜んだよ。でもさ、彼女の病気も悪化した』
『え?』
『医者はもって、あと数カ月だってさ。夏まで、もつかわからない』
『……』
『終わっちまうのかな。あいつの夢も、人生も』
茜色の空を見上げる沢田先輩の瞳が、それと同じ色の輝きを湛えていたことを僕は覚えている。
僕はいつしか呼吸を止めて空を仰いでいた。
青かった真昼の空も、今は塵状の負素がそれを埋めるように停滞している。
それは世界の終末を連想してしまうような光景だった。
僕は迷っていた。
終わらしていいのだろうか。彼の願いを。恋人の命を。
改変は正しいことじゃない。間違いない。知らない内に現実を変えられるなんて、その喪失に気付かない事は何よりもひどいことじゃないか。
でも、その中心の思いまで否定していいとは思えない。
「どうしても、元に戻さないといけないのか?」
僕はそう呟いていた。
「兄ちゃん。お前さんはそう言うと思ってたよ」
僕の言葉に反応したのはエルだった。
ミルネさんはどんな感情もない仮面のような無表情で僕を見つめていた。
「結論から言うと元に戻すべきだ。誰がどんなことをどういう風に変えたとしても元ある様にする。それが世界にもっとも影響のないケリのつけ方だ」
分かってるんだ。
いろんな人がいたんだろう。改変に関して、いろんな悲劇や喜びがあったことだろう。
だから、この人は特別だと、エルもエイナさんもできない。
僕だって沢田先輩を特別視していいわけじゃないんだ。
僕は顔を伏せた。そうだよ。分かってるんだよ。みんなが幸せになることが、世界にとっては不都合なんだ。
「……ふざけんなよ」
僕の心中に激情が渦巻く。それに従うように体中の血液が僕の意思とは関係なく、この身を動かした。
「ふざけんなよ!!」
それに僕は今、その激情に従うよう改変されていたのだ。
立ち上がり、僕は心情を叫びあげ吐露する。
「世界にとって不都合だろさ!!でも、俺たちは人間だ。そんな正しいか間違いかで行動できる存在じゃない。それでも改変しろって言うなら、俺が最も望ましい形に変えてやる!!」
僕は塀から飛び出した。
開けた視界、負素カーテンの向こう側にエイナさんの朱色の柄に白銀の刃の太刀と、黒い刀をぶつけ合う沢田先輩がいた。
沢田さんはエイナさんを突き放すように刀を押し込んだ。それに反応したエイナさんはバックステップで距離を取った。
立ち位置的に沢田さんが僕に背を向けることになった。その向こう側に右目を赤く輝かせたエイナさんが太刀を構え直していた。
どちらかが動き出す前に、僕は走り出していた。
僕に気付いたエイナさんが驚いたように口をポカンと開けてこっちを見ていた。
何か抜けているようで可愛い。そんな感想を抱きながらも、僕は数十メートルの距離を詰める。
エイナさんの表情を見て察したのだろうか、沢田さんが獰猛な笑みを浮かべながら振り返ってきた。
そして彼は刀を振る。
すると先程と同じ、負素の弾丸が周囲に量産され、僕目掛けて一直線に駆け抜けてきた。
それを確認した瞬間、僕は普段からは考えられないような速さでジグザグに移動した。
全ての弾丸が僕の体の紙一重の間で外れる。
そうしている間にも僕は彼に近づく。
思いっきり力を込めた脚で大地を蹴り、僕はまるで獲物を襲う野獣のように沢田さんに飛びかかる。
咄嗟に胸倉を掴み、頭を打たないように彼の体を引っ張った。
沢田さんは何か空想でも見ているような、呆然とした表情で僕を見ていた。
「……どうした?今なら記憶固定できるぞ」
「ああ、してやるよ。……でもな」
僕は口に出す。最小限の改変で全てを丸く収めることができるハッピーエンドの方法を。
「俺はあんたが自分を消した改変しか修正しない!
あんたは生きて恋人と一緒に生きろっ!!」
目を丸くして沢田さんは僕の瞳を見つめていた。僕はそれをしっかりと見返す。……というか今チャンスだよね?どうやったら記憶固定ってできるのかな?あのおっさんやり方を教えてないんだよね。みんな変なところで抜けてるよ。
僕は何とかしようとポーズをとってみたけど、何も起きない。どうしたらいいんだよ?
「……ふっ」
下から漏れた息が僕の意識を思考から引き戻した。
「お前、馬鹿だろう?」
なんか酷いこと言われた!!
「何だよ?そのガキみたいな理想は?」
沢田先輩は僕を突き飛ばした。
僕は信じられない運動神経を用いてバク宙を決め、見事に着地した。
ゆらりと立ち上がった彼は掌で顔を隠しながら肩を震わせていた。
笑っていた。
「くっくっくっく!馬鹿かお前!」
手を退けた彼の瞳は、どこか強風にさらされている。ロウソクの火みたいな危うさを連想させる。
「俺はお前を消そうとしてたんだぞ!それを分かってんのかよ?」
「分かってますよ」
僕はどこかイラついたように吐き捨てた。
「その上に言ってるんですよ。分かってくださいよ!
俺がそうするって言ってんだから、さっさと生き返ってもらいますよ」
驚いたように先輩は目を開き、顔を伏せた。
その時、白い影がゆっくりと僕らの間を横切った。
それは折鶴だった。
本物の鶴のように、どこか優雅にそれは僕と沢田さんの丁度中間点辺りに着地する。
沢田さんは何かを察したのか、顔を上げ、すぐさまそこから飛び退いた。
すると、
無数の紙飛行機が沢田さん目掛け突貫していった。
紙飛行機とは思えない速度でそれは次々に突撃する。左右に軽快なステップを繰り返し、徐々に後退し、僕らの距離は離れていく。
あれはどこから来るのだろうと見ると、
野球のピッチャーのように振り被りビュンと空気を切る。その音は離れた僕にまで聞こえる。
一陣の疾風のように紙飛行機は飛ぶ。
その名投手(?)は金色の髪を揺らす、碧眼の少女。
ミルネさんだった。
「ってなにやってんだ!?」
というかその投げ方は正しいの?
「……」
何だかとても怖い顔で睨まれているのですが、どうすればいいのでしょう?
「……私だってこうしたいわけじゃないの!ただ、時間を稼ぐ必要があるからこうしてるだけ!」
何故か知らないがご機嫌斜め。僕は何か粗相でもしたのでしょうか?
と悩んでいると、
「ミルネが戦っている間、ちょっといいですか?」
そんな言葉と共に、いつの間にか後ろに回り込んでいたエイナさんが僕の肩を叩いた。
「あの?さっきの言ったことは本気ですか?」
エイナさんは申し訳なさそうに、僕から目を逸らしながらも、ちらちらと僕の様子を窺うように視線を向けてくる。
「当然だろう?」
「兄ちゃん。…………そらぁ、俺らにしたらそれは許されへんことや。
俺は……改変を許されへん。お前さん、それやるゆうんやったら、俺様は止めんで?」
「……それでもだよ」
「そないか。せやったら、エイナ」
ビックと肩を大きく揺らし、エイナさんは黒と赤の左右色の異なる瞳で僕をじっと見つめた。
「エイナ。命令する。緋島直樹に与えた記録者の力を奪え!」
「……」
僕はエイナさんを真っ直ぐ見た。
もし、彼女がエルの指示通り動くなら、きっとこの方が手早い。彼女たちは人の目を見て力を使うのだから。
ははっ。
僕は知らずに笑っていた。
僕はなんだかんだで最後にエイナさんに決断を任せてしまっていた。
抵抗もせず、逃げもせず、なんだか悟ったように他人に放り投げていた。
カッコ悪いな。僕が決めて突っ走ってただけの話なのに、今こうして、考えずにエルさんたちに全部投げ出していたんだ。
エイナさんは視線を泳がせているだけだった。
「……やです」
微かに首を左右に振り、子供のように舌足らずに彼女はそう答えた。
「エイナ!!」
「嫌です。わたしは直樹さんの願い、否定できません。あの人の願いは悪じゃないでしょう?なのに、改変だからと言ってそれを否定していいのですか?」
どこか無感情の反論。でもそれは子供の我が儘のように聞こえた。
多分、僕の言葉もそう聞こえるのだろう。
「願いは願いや。悪でも善でもない。人の願いなんてもんは善悪で判断できるもんやない!エイナ、お前は緋島の願いを叶えたいだけや。そんなん世界の歪みの前で振りかざすような理由ちゃうわ!
兄ちゃんも、顔見知りの願いやからって改変を許容していいわけない!
いいか?改変ゆうんは、悲劇が嫌やからゆうて無理やり劇の内容を変えるようなもんや。受けるべきメッセージを捨てて、空想に逃げるもんなんや。
人の思いを踏みにじるんや!緋島!お前さんなら一番ようわかるやろ!?」
悲痛なまでのおっさんの声に僕は心中で頷いた。
そう。分かる。
僕はそれで現実を否定してしまったのだから。
容易に、頻繁に変わる現実や過去になど、人は生きてはいけない。泥の上に人は家を建てて住むことはできない。雨で緩くならない確固たる土の上にこそ人は家を作る。
変わらない過去があって、目の前の現実があるからこその世界だ。
それは道を歩くことに似ている。後ろを見れば過去という名の今まで歩いた道が見えて、自分の足が現実という名の大地に足を下ろしている。
改変のあった僕の世界は、後ろの道が違う道に変わる。大地が波のように揺れる。
そんな道を歩いていきたいだろうか。
僕は、そんなことを望めなかった。
僕は流れに身を任せ、ただ、道を眺めていた。
道は変わらない方がいい。大地は揺れない方がいい。
そんなの分かってる。
「でも!それでも!」
先の道が、崖だったら?
そしたら、道を変えるだろう。
「人が死ぬ未来を変えることは許されないのかよぉっ!!」
僕は宙に向かって叫んだ。
僕の中に熱が生まれた。
それは不満であり、悲壮感であった。そんな負の熱を吐き出すように僕は息をした。
「兄ちゃん。いい加減理解せぇ!」
僕は目の前に壮年の男性がいるような錯覚を覚えた。声とイメージの異なる彼は、息を吸い込む動作をし、
「悲劇なんてありふれてるんや!自分らは特別やない!!」
ああ、それは。
僕は叫んだ時に感じた熱が薄れていくのが分かった。
だってそれは。
僕も認めたことだったから。
『なんというか、理不尽だ』
『それ以外に言える言葉などない。その話こそが何かの小説にでもなりそうな不幸話。ありふれた不幸だ』
その時の思考が僕の中でフラッシュバックした。
僕は視線を迷わせ、茶色に焦げた大地を見た。
「人は不幸を乗り越えるもんや!悲劇を受け止めるもんや!それが当然なんや!」
エルの言葉が僕の中に染み込んでゆく。
認めてしまった彼の言葉は、熱を持っていた。
揺るがない信念と、どこか暗い感情。それは一体何なのだろう?
しかし、それを考える暇はなかった。
僕は元に戻すしかないのだろうか。彼がしたように、理不尽に元に変えるしかないのだろうか。
エルの言葉は、みんなにも聞こえたのだろうか、動きを止めてそれぞれ僕を見ていた。
エルが沈黙し、エイナさんが悲しげな瞳で僕を見て、ミルネさんは僕らの様子を窺いながら、紙飛行機を投げる体勢を維持して、アリスはしゃがみ込んだまま涙目でこっちを見て、
沢田さんはどこか諦めたように笑って僕と目を合わせた。
そして、
最後に空を覆う黒い負素が、深淵から漏れたような掠れた女性の声を発した。
『聞くに堪えないわね』
ソレは徐々に形を成していく。
負素は砂の粒子のように流れ、僕らの前に姿を作る。
頭から顔、首を経て、胴体と腕を作り、最後に足の先の形を取り、一気に変貌する。
髪は漆のような艶のある黒に、瞳は宵闇のように黒く、肌は薄白く変化し、体には黒いワンピースのようなものを身に纏わした。
ソレは十代の少女の姿を現す。誰もが愛おしさを感じるであろう外見とは相反するように、体から漆黒の負素が噴出している。
「負素の……元凶」
ミルネさんの声が遠い。僕は目線を彼女たちに集中させていた。
彼女は沢田先輩をかばうように前に立った。
『サワダ。あなたは目的を果たしなさい。その機械を消して、自分の望みを叶えなさい』
ミルネさんは引っ提げたバックから新たにケースを取り出した。
エイナさんはまたしてもどこからか朱色の柄の日本刀を取り出し、負素の元凶と呼ばれた少女に向けて構える。
いつの間にか復活したアリスは、碧の瞳を少女に向けた。
黒い少女は負素を発し、そこから無数の黒い槍を生み出した。そして、その槍はこの場にいる人物全てに矛先を向けていた。
まさに一触即発という状況。緊張で足が震えそうだった。
エイナさんが飛び出すために足に力を入れ、ミルネさんがケースの蓋を外し、アリスがその瞳を細めた。対した黒い少女は槍を発射するサインだろうか、両の手を振り上げていた。
「もう止めてくれ!!」
突然の声に、少女たちはその動きを止めた。
僕らはその声の主に否応なく視線を集めさせられる。
最後に黒い少女が振り返った。
その声は沢田さんのものだった。
「もう、……いいんだ」
彼はむしろ清々しく笑っていた。
『……』
黒い少女は怪訝そうに沢田さんを見た。
『いいの?』
「ああ。……俺はもう、緋島を消せない。俺には全部わかってて、それでも俺を救いたいっていうヤツを消せないさ」
黒い少女はしばらく沢田さんの真意を確かめるように沈黙し、そして鷹揚に頷いた。
『そう。ではこれは蛇足だったのね』
「いいえ、俺が願ったことは変わりません。あなたは気になさらないでください」
ふっと、最後に沢田さんへ向けて、消えそうな微笑みを残し、彼女は風に吹かれ、崩れる砂礫の絵ように、自身が生み出した槍と共に負素の粒子となって消えた。
後に残ったのは、さっきまでと比べ僅かな量しかない負素と、憑きものが落ちたように笑う沢田さんだけだった。
少女たちはそれぞれ僕に目を向ける。彼女たちの役目はきっとここまでなんだ。
ここからが、僕の出番なんだ
「沢田先輩」
僕は彼にゆっくりと歩み寄った。
彼は僕を見てすぐに。
「なあ、もう全部元に戻してくれ」
彼の生気はどこへ行ったのか。そこにいたのはただ夢破れた後の若者だった。
「さっきの『人は不幸を乗り越えるもの』って言葉、誰だか知らないが、少し胸に来たんだよ。そうだよな。俺だって時間を掛ければ、乗り越えられたのかもしれない。でも俺は、そんな不幸が許せなかったんだよ。乗り越える時間も、受け止める時間すら、あいつには与えられないことが許せなかった」
分かってくれと彼は僕を覇気のない瞳で見つめる。
僕はただ、無心で首をゆっくりと縦に振る。
不幸を享受できる人間などいないだろう。誰だって抗う。抗って幸せを求めるはずだ。
「沢田先輩はきっと方法を間違えただけだ。それ以外はきっと何も悪いことなんてないはずだ」」
ありがとうと彼は声もなく呟いた。
「エイナ」
呼ばれた彼女は面食らったように瞼を大きく開いて驚いていた。
どことなく顔が赤いのだがどうかしたのだろうか?
「はい?」
でも返事は普通だったから僕はそのまま無視することにした。
「俺に記憶固定の仕方を教えてくれないか」
漸く聞けたよ。本当に長かった。
そういう苦労を知ってか知らずか彼女はあっさりと返してくれた。
「同調すればいいんですよ」
「どうちょう?」
なんだかだいぶ難しそうだけど大丈夫なのかな。
「彼の眼を見て、彼の記憶のことを考えてください。そうすれば、今のあなたならすぐに見えてくるはずです」
何が見えるのか、と思いながらも言われた通り僕は彼の眼を見た。
そうして意識を彼の記憶に集中させる。
彼の記憶。
そう、それは。
全く意味のない行為だった。
『いや、だから彼《俺》存在消えてるんだけど?』
エル、エイナさん、ミルネさん、エス、アリス、沢田さんの総員によるツッコミに僕はちょっと心の中だけで泣きそうになった。
「べ、別に勘違いしたわけじゃねーからな!!ただちょっと忘れてただけなんだからな!!」
『なお悪いじゃない(ですか)!!』
ミルネさんとアリスが驚いて声を上げた。
「べ、別にみんなの空気が重かったから、ボケた訳じゃねーからな!!」
『それ素ってことじゃん!!』
「べ、別にみんなのことなんか好きじゃねーからな!!」
『なぜツンデレに!!』
「……私のドストライクです」
『そういうこと!?』
エイナさんが何かボソッと呟いたような気がしたが、ミルネさんたちがうるさくて聞こえなかったということをお知らせしたい。
「と、とにかくまずは俺の存在を戻さないと駄目だろう?な?」
何故か最後には沢田先輩がみんなをまとめるように提案する状況に陥ってしまった。
「と言われても、そうなると私は何のアドバイスもできませんよ?」
確かに。エイナさんも改変者の記憶が使えないという状況は初めてらしいし、どうすればいいんだろうね?
「お前さんの記憶を使えって言っただろう?」
おっさんの言葉にはっとした。そういえば何回かそんなこと言われたね。
え~とつまり、僕の中の彼の記憶を思い浮かべて、ここからどうしたらいいんだろう?
「終わったようだぞ」
記憶を思い浮かべることおよそゼロコンマ23秒。エルさんはそう言ってしまった。
「早いな!!」
そもそもどうやってそれを察知したの?
「記録固定は記憶と同調したらすぐに終わる。疑うなら、そのあんちゃんに記録固定してみればいいだろう」
おっさんのけだるそうな声が、一気に肩の力を抜いた。
そんなに難しいことじゃないのだろう。なら、後は彼の改変を戻すだけだ。
僕は沢田さんと向かい合う。
僕は瞳を逸らして最後に尋ねる。
「本当に、全部戻していいんですか?」
彼は一つ溜息を漏らした。
でもそれは陰鬱なものじゃない。清々しい、晴れやかともいえるものだ。
「いいんだよ。俺はきっとあいつに向かい合わなきゃならなかった。
弱ってくあいつの傍で手を握ってなきゃならなかった。
けど、俺はそれが耐えられなかったんだ。俺が辛いからあいつを救いたかった。
俺は自分のために全部変えたんだ。傍から温もりが消えていく苦しみから逃れるためなら、俺が消えたって良かったんだ」
彼はその時僕の瞳を見て、青空のように透き通った笑みを浮かべた。
「俺はもう、あいつから逃げない。そのために、戻してほしいんだ」
存在を取り戻した彼の言葉は、何よりも確かな心が込められている気がした。
僕はそれを確かめ、彼の瞳と視線を合わせた。
そして、彼の、真実を。
ある青年の改変に至るまでの経緯を。
僕は見る。
そこは彼の記憶の中だった。そこでは僕は沢田さんで、彼の視界、彼の思考、彼の感情が僕に流れ込んでいた。
僕に悩みを話した数か月後、時期としては森川さんの改変が起きる前日、彼は黒い少女と出会った。
彼の中には未だに僕の言葉が耳に残っていた。
(あれから、あいつはますます弱ってる。でも、俺はそんな姿を見れなくて、あいつの元へ行くのが辛くなってる。こんな状況で、俺はあいつに向かい合ってるって言えるのか?)
彼の疑問が僕へと流れ込む。僕の一言が彼にこれだけの悩みを抱えさせたのだろうかと少し申し訳なく思う。
だが、そんなことは記憶の中の彼には伝わらない。そうして邂逅の時を迎えるのだ。
またしても夕下がりの学校。帰ろうとする彼の前に、
負素の粒子から形を成した少女に彼は腰を抜かしそうになっていたが、それを意にせず、黒い少女は聖母のような笑みを浮かべて、沢田さんに言った。
『あなたは現実を変えたいと思う?』
それはいつか聞いた少女の言葉と同じだった。
変えられるものならと、彼は答え、少女はなら変えたいと本気で願いなさいとすかさず返した。
『そうすれば、あなたの負素は答えるわ』
少女はそのまま消えた。
半信半疑ながら、沢田さんは願った。
それはきっと彼が疲れていたからだ。
そして、突然現れた不可思議な黒い少女に少しでも期待してしまったからだと思う。
(あいつを元気にしたい。あいつが病気で夢を追いかけられなくなるのは嫌だ。隣で笑っていて欲しいんだ)
その思考の後、彼は。
体から負素を流出さしていた。
湧き出る地下水の如く、負素は彼のからだのあちこちから溢れ、そして空間を覆う。そして、全ての光を黒の霧が飲み込んだ時。
僕の隣に朗らかに笑う少女が立っていた。
僕は呆気にとられ、これが沢田拓斗の記憶の中だということを一瞬忘れていた。
これは記憶だと自分に言い聞かせると同時に、彼の思考が流れてきた。
(まさか?本当なのか?こいつは今、病院のベットの中で眠っているはずなのに。体ももっと細くなって、車椅子無しだと歩けないくらい筋力も落ちているはずなのに)
彼の視線に移る彼女は、地に足を着け、スキップでもしそうな程元気だった。
そして彼女は彼の腕にその腕を絡める。改めて沢田先輩はその腕に驚く。
自分が知っている今の彼女ではない。
病気になる前の、元気なころの少女、そのままだった。
どうしたの?と先ほどから微動だにしない沢田先輩を不審に思ったのか、彼の瞳を覗き込む彼女を。
沢田先輩は抱きしめた。
折れないように、優しく。離さないように強く。
「ナオっ!!」
戸惑う彼女を彼はただその腕の中に感じていた。
でも、その人を僕はまた病気に戻してしまう。
それは、わかってるんだ。
でも、この手にある温もりを、
輝いてる命を、
消したくないと思うんだ。
場面は変わる。
黒い少女と対面する彼は驚愕しているようだった。
「な、なんでだ!?なんで元に戻るんだよ!?」
狂乱といった様子で彼は少女に胸倉を掴んでいた。
『世界の自浄効果よ。本来ある姿から、別の姿に変化させれば、元に戻そうとする力が働く。それが記録者と呼ばれる者たち。それは弾力に似てる。形を変化させよう負荷をかければ、反発してしまう。それが真理よ。そして、一定以上の負荷がかかれば壊れるだけ』
一体何が壊れるのか、そんな事を沢田さんが分からないわけない。壊れるのは時間。歴史、過去、そんな概念が消失してしまうのだろう。そうなれば時間は一定には流れず、荒い風のように読めないものになってしまうのだろう。
もっともそれが正しいのかは誰にも理解できないし、証明できないだろう。
怖いほど冷静に語る少女にも、彼は圧倒されていた。
「……そんな」
(もしも、そんなことを知っていたら、俺はどうしていた?)
彼の言葉と同時に思考が流れ込む。
もしかしたら、彼はこの時点で改変したことを後悔していたのかもしれない。
僕の胸に注がれる彼の感情は間違いなく悔いだったから。
『例えサワダがこのことを知っていても』
しかし、先輩の思考を否定するかのように、黒い少女は無慈悲に宣告する。
『あなたは彼女を再生したはず。そうでなければ、負素は扱えない。
サワダはあの時、例え何を犠牲にしてもあの娘を助けたいと思考して、それでここにいるのよ』
負素を使えたことこそが、改変できたことこそが証明だと負素は語った。
彼は青ざめて自分の体を抱いた。
「いやだ。俺はもうあいつの弱った姿を見たくない!」
彼は思い出していた。日に日に弱っていき、ついには自力で立てなくなってしまった想い人の姿を。
またそこへ戻ることは、彼には耐えられないことだったのだろう。
負素の少女は体を粒子状の負素に変化させながら笑う。
『なら、記録者に打ち勝ちなさい。そのために己の存在を改変するの』
ついてらっしゃいと負素は彼を呼び寄せる。
それについて歩く沢田さん。
彼らはいつの間にか高校の校舎に来ていた。
見覚えのあるような夕陽が空を茜に染めていた。
負素に導かれ、彼がやってきたのは。
ああ、そっか。
この日に繋がるのか。
そこは僕が勉学に励む学校の教室。僕のクラスの教室だった。
そしてそこには、一人掃除を今も続ける少年が一人いる。
それは、僕だった。
「お~い、そこの君」
どうやら先輩は気付いていないのか、そう普通に呼びかけた。
「もう下校時間近いんだが、何をやっているんだ?」
それは義務感からの行動だったのだ。
思考を共有しているからこそ分かることだ。彼にとって、数日前に出会った僕という存在は、負素の元凶と改変という強烈な出来事に押し潰されていた。悲しいことに、僕はそれが分かってしまう。
何だかそれを寂しく思う僕がいる。
彼にとって僕など大した存在ではなかった。そういうことだから。
僕は彼をぼうっと見ていた。多分彼について思っているんだろう。
今更ながら思い出す。そうか、彼は森川さんの改変で僕のことを忘れているんだった。
「なんでまだ掃除?」
「先輩、日本語は正しく使いましょうよ」
「伝わりゃいいんだよ、言葉ってのは」
そんな真実を言い彼は善意から僕の掃除を手伝う。
そうしてものの十五分で掃除は終る。
そうして僕らはコーヒー牛乳を飲む。
黄金と同じ価値を持つそれは、彼の味覚では普通のコーヒー牛乳だった。
「君はこのクラスの子か?」
コクリと頷く僕に彼は疑問を覚えた。
(だったら何で一人で掃除を、……ってのは聞かない方がいいのかな)
ありがたい心遣いだ。それは僕らの間に花の良い香りのような沈黙を齎す。
この時のこの沈黙は本当に心地よかった。
僕らはコーヒー牛乳を飲み終える。僕は先に教室から去ろうと、彼に背を向けた。
(ちょっと、気になるけどあいつも待ってるし)
彼はどうやら彼女と約束をしているらしい。しかし、そのままで見送るのもどうかと彼は考えた。
「君」
そうして彼は僕を呼び止める。
「これでも俺は生徒会の人間なんだ。もし何かあったらいつでも相談すればいい」
「ありがとうございます」
淡白な僕の返しに彼は苦笑いをして流す。
「それだけだから」
どこか間抜けな顔をした僕を彼は追い抜く。
そして、去ろうとして僕の言葉に止められる。
「彼女とは上手くいっていますか?」
驚いた表情で彼は僕を見ていた。
(どうして知ってる?あいつはつい最近病気から戻ってきたってのに)
彼の思考が表に出る前に、その時の僕はどこか呆れたように、「もう全校生徒の噂ですよ」と先んじる。
人の噂って速いのな、と彼は僕の説明に納得してくれたようだ。
そうして今度は恥ずかしさが現れたのかマジか~とちょっと赤くなり、彼は照れていた。
「上々だよ」
爽やかにそう言い放ち、僕と彼は分かれた。
廊下を早歩きで進む沢田先輩の心境は恥ずかしいやら、嬉しいやらといろいろとごちゃごちゃになっていた。
鼻歌を歌いそう中の目の前に、
『サワダ、覚えておきなさい』
負素の女王は唐突に姿を現す。
悲壮なまでの微笑みを浮かべ。
『あれが、最後の鍵よ』
「鍵?」
ええと少女は頷く。
『あれがわたし達の敵に回れば、あなたは最後の手段にでるしかないわ』
「最後の手段?」
『あなたが自分で自分を消すことよ』
「俺が俺を」
『そう、そうすれば最悪、彼女だけは元気になったままよ』
「……」
(つまり、自殺のようなものか)
その言葉を彼は冷静に受け止めていた。
つまり、元に戻す存在である記録者から、彼女を守るために死ぬのだ。そうすれば、彼女は助かる。
『それは、頭の隅に置いてて。それともう一つ、あなた、あの鍵のことを忘れてるみたいだから。それを思い出させてあげる』
黒い粒子が彼の周囲を竜巻のように多い囲んだ。
そうして、それは彼の体に吸収されていく。
彼の中に、生徒会選挙の直後の僕との出会いの記憶が流れてきた。
「あれが、緋島君なのか?俺はなぜ忘れていたんだ?」
もしかしたら最後の手段を聞かされた時よりも、彼は動揺していた。
『彼は存在を改変されて、周囲の人物の記憶から欠落したのよ。だから、あなたを含めて、改変した本人以外は、だれも覚えてないの』
これが改変。人の存在を変えるという事なのだと、改めて彼は痛感していた。もし、さっき言われた最後の手段を行えばどうなるか。それを想像し、彼は薄ら寒い思いを押し殺した。
『その改変を嗅ぎ付けて、記録者がすぐ近くまで来ているわ』
彼の浮かれた様子はそこまでだった。
汗が、彼の体中から湧き出た。
(う、失うのか?俺はあいつが残る日常を)
恐怖で体が震える。その震えは彼の汗を地面に落とした。
「どうする?あなた、いい加減自分を消す覚悟位したら?」
自分を消す?
そうか、彼はまだ自分の存在を改変していなかったんだ。改変したのは、僕がエイナさんたちに会う前ではなかった。
僕があの時あった彼はまだ、恋人を思う先輩だったんだ。
それが分かっただけでも、僕は収穫だと思える。
やがて彼は僕の不思議な力を知る。改変前の記憶を保持し続けるという、孤独を齎すこの力を。
そして、僕は確かに鍵となった。
シンジツを知り、そして、沢田さんと敵対した。
そうして、僕と沢田さんはエイナさんの邸宅の前で二人対面する。
誰もいないことから考えて、ここはまだ彼の記憶か何かの場所だ。
彼は覇気のない笑みを浮かべ、肩を竦めた。
「緋島、俺は結局なんもできなかったんだな。お前が言った通り、向かい合うことも、何を犠牲にしてもこの現実を変えることもな」
彼は笑っていた。負素の消えた青一色の空を見上げて、涙をたたえている。それはまるで、ロウの翼を失ったイカロスのようだった。
「何もできなかったわけじゃないでしょう?」
僕はそう返す。
「あなたは自分を消してまだ、彼女を救おうとしたじゃないですか。俺を消してまで、その変えた現実を守ろうとしたじゃないですか」
だから僕は、あなたが何もできなかったとは思わないんだ。
結果や手段がどうであれ、沢田さんは彼女のために行動できた。行動した。それはきっとだれも否定できるものじゃない。
「でもそれは結局消える。元に戻ることで、俺のしてきたことはなかったことになる。俺の記憶も消える。だったら、一体これまでしたことに何の意味があったんだろう?」
すがるように彼は僕に問いかける。
それは僕が改変に絶望したのと同じだ。
変わる現実で、その事実がなかったことになるのなら、思い出も何もかもないのと変わらない。
でも僕は知っている。
「あなたのやってきたことは無意味なんかじゃない」
彼は疑うようにキッと僕を睨む。
「だって、
あなたのやってきたことを俺は忘れない。死ぬまで覚え続けてやるよ」
間抜けな、意表を突かれたような顔。
そんな顔だって僕は覚えている。改変にだって消せない。
そうだ。
きっと僕がこんな記憶を保持しているのはそういう意味があるんだ。
忘れない。人の願いを。想いを。
全てを忘れない。元の世界も、変わってしまった世界も、僕は全てを完全に記憶する。
それが、そのために僕は生きていけるんだ。
「お前には、救われてばかりだ」
子供のように無邪気に笑う。沢田先輩は、今から消えてしまう、改変の記憶を失う彼は笑っていた。
「それは違いますよ。俺は、あなたが自分で見つけた救いを否定した」
「いや、俺はもしかしたら、間違ってるって知ってたんだ。でも知らない振りをしていたんだよ」
本当にそうだろうか?そんなことを思っていたのなら、彼はきっと自分を消すことはなかったと思う。
僕が信じられないと彼の本意を知ろうと、彼の笑顔の奥底を見るために視線を彼とぶつける。
「信じられないかもしれないが本当だ。じゃなかったら……」
「俺は今、こんなに笑えてないよ」
はっとした。
彼はさっきと同じ、いやむしろもっと輝いた笑顔を浮かべていた。それは、彼女の事を僕が聞いた時に浮かべた笑みよりも、もっと強く、明るい笑顔だった。
そうして、笑顔を浮かべたまま、彼は空間と共に徐々に消えてゆく。
青い、エイナさんの左の瞳の色と同じ光に包まれ、消えてゆく。
僕は彼の笑顔を記憶に刻みこむと同時に言う。
「救われたのはむしろ俺の方です!!
ありがとうございましたっ!!!!!」
そうして。
その初夏の、僕の欠けた世界の出来事は幕を下ろした。
目を覚ますとそこはつい数日前に見たベッドの上だった。
いつかと同じように夜だった。星明かりしか照らすものがないその寝室は、どこか神秘的に光り、さっきの夢の続きかと思えるようだ。
「起きましたか?」
隣には眠そうに目を細めながら微笑む少女がいた。
黒いワンピースのような寝巻を着たエイナさんだった。
となるとここは彼女の邸宅なのだろう。ご丁寧にも数日前に使った部屋に僕は寝かされていたのだ。
「僕は一体?」
あれ?そういえば口調が戻ってるよ。いつの間に。
「眠っちまったんだよ」
答えたのはバタバタと跳ねるベッドの上で本。どMとしか思えないベルトをぐるぐる巻きにしたその本はエルなんだろう。僕は上半身を起き上がらせ、僕の足元あたりで跳ねるエルを一瞥する。そうしてエイナさんに向き合う。
「終わったの?」
彼女はゆっくりと頷く。
「全て、戻りました。沢田拓斗の改変は記録固定でこの本に記録されました」
彼女はエルを指差す。
「本に記録する。文字として、正しい世界を記録するんだったね。君たちは」
「はい。ですがそれだけではありません。私たちは改変者が実現しようとした世界も記録して残します。そうしてただ全ての記録を世界に還元する。それこそが私たち記録者です」
「そう」
僕はまた上半身を倒れさせ、仰向けに戻る。
なんというか、全身の力が抜けたような気がする。
ははは。
自然と笑みが零れる。それを彼女はただ不思議そうに欠伸をこらえながら見ていた。
僕だけじゃない。彼の努力を、覚悟を、願いを、その本は記録している。エイナさんもきっと知ってくれている。
それだけで、とても楽な気分になれた。
「ありがとう」
僕はスッキリとした気分でそう言った。
「きっと君が僕を改変者かもしれないって疑ってくれたおかげだよ。僕は改変で変わる世界が、もう嫌になってたんだ。あのままだったら、僕はいつか自分で死を選んでたかもしれない」
それはとても素直な僕の心情の吐露だった。
「でも君に会ったから、君が真実を教えてくれたから、僕はきっとこの世界で生きていけると思う。だから……」
心の底から僕は笑う。それはいつ以来だったのだろうか。
そう、それは多分。
あの時、あの夏。
初めて経験した改変で、幼馴染の少女が消えた時以来なのかもしれない。
「ありがとう。エイナさん。君に会えてよかった」
………………。
そうしてしばらく沈黙が続く。
って、いくらなんでもノーリアクション過ぎない?
と僕は疑い、天井から視線を隣の彼女へ向けると、
「……すぅ」
静かな呼吸音を発し、椅子に掛けたままエイナさんは眠っていた。
「……………………」
マジっすか?
こんなに素直に何か言うの久々なのに、全部終わった解放感から、ハイになって恥ずかしいことを言ったのに眠りますか?
脱力して、呆れを通り越した笑みを浮かべた。
「兄ちゃん。許してやってくれ。こいつ、自分が記録者の力を与えたせいで眠ったままなんじゃないかって心配してさ。すぐに力を回収したんだが、お前さんも起きないし、俺様も流石に参っちまったぜ」
なるほど、だから僕の口調が戻っているのか。と全く気にする必要がないであろう細かいことを納得した。これ、ばれたら多分怒られるね。
バタバタと地に落ちた蝉のように彼は僕の元まで張ってきた。
「今、物凄く失礼な描写しなかったか?」
人の状況描写まで読まないでください。
「ホンマすまんかったな。お前さんには迷惑かけてばっかりだ」
「何がです?」
「普通に考えて、知り合いの改変者とぶつけるってのは流石にマズかったわ。俺様としたことが、馬鹿な事をしたもんだ」
「でも、僕が彼を止めないと歪みが酷くなるかも知れないんでしょう?」
それでもだ、とエルはやけに真剣な声色で言う。
「それでも、きつかったろ?」
「……そりゃ、ちょっとは」
だから、僕は、最も都合がいいように改変しようとも考えた。でも、沢田さんはそれを否定した。僕が板挟みになるのを見ていられなかったのだろうか?今更ながら、彼にそれを尋ねたほうが良かったかもしれない。
しかし、そう思ったのはほんのちょっとの間だった。
彼は戻ることを望んだ。元に戻してくれと僕に頼んだ。
きっとそれが、大事なことなんだ。
「僕は結局何もできなかったんじゃないかって思います」
「……」
彼は無言で続けろと示したような気がした。
僕はそのまま伝える。
「多分沢田さんを動かしたのはエルの言葉です。『人は不幸を乗り越えるもの。悲劇を受け止めるもの。それが当然』ってやつ。彼はそれで、受け入れる決心をしたんだと思います」
僕もそれに共感した。沢田さんも僕も結局どこかで自分は特別だと思っていたのだろう。そうして、どうして自分がと悩んでいた。
愛する人の死は少なくない。
人の記憶から忘れられることも少なくない。まあ、僕の場合は本当に特殊なことだけど。
「でもよ。最後にはお前さんの行動がものを言ったんじゃねーのか?」
「そうですか?」
「ああ、お前さん、あいつに消されそうだって知っても、それでもあいつを救いたいって願った。それがあいつの心を動かしたんじゃねーの」
どうなのだろう?僕はその辺り自信がない。
「わかりません」
「ひゃひゃひゃ。それでいーんじゃね?人間なんて思い込みと誤解で理解し合ってんだ。お前さんがわからないのも当然だろうよ」
認めたくないけど、彼の言葉にはどこか説得力があった。
「そうかも知れませんね」
僕はエイナさんを部屋に送ってから眠ることにした。
とりあえず椅子に掛ける彼女を背負っていこうと、彼女を椅子から背に移した。
その体の軽さや柔らかさに一々驚いたけど、エルの手前何か不審な行動をして、後で報告されたくもない。なるべく心を無心にして彼女を運ぶ。
廊下を過ぎて、大きな書架の向かいの彼女の部屋の前に立ち尽くす。
「兄ちゃん?何してんだよ」
おっさんがバタバタと跳ねながら後を追ってきた。どうでもいいけど、あんたのその体(本)、沢田さんの記録があるんだろう?雑に扱っていいものじゃないだろう。
そんな僕の怨念を籠めた視線をものともせず、彼は僕の隣でバタバタ運動を停止した。
「なんで部屋に入らないんだよ?」
「いや~、勝手に入ってもいいのかな?」
「いいだろう?」
おっさんは何のためらいもなくそう言い切り、飛び跳ねてノブに取りつく。そして巻きつかれた革ベルトを器用に使い、扉を開いってしまった。
「ほれ、入んな」
あんたの部屋じゃないでしょう。とツッコミながらも、疲労感が強く、早く彼女をベッドに下ろしたかったので、バタバタと跳ねるおっさんの後に続いて、エイナさんの部屋に侵入してしまった。
彼女の部屋はとてもシンプルだった。
月光が差し込むベッドに、衣装ダンスが端に整然と並べられていた。女の子がよく置いておくであろうぬいぐるみやクッションといった小物は全くなかった。カーテンも壁紙も、果ては絨毯まで白の系統で纏められ、どこか病院を思わせる。しかし、どこからかする甘い香りが、そのイメージを払拭し、どこか王宮の寝所を思わせる神々しさを醸し出していた。
「ここが、エイナさんの」
否応なく背中に感じる少女の温度を意識してしまうが、頭を振り、彼女のベッドを隣まで近づいた。
そして背を向け彼女をゆっくりと下ろす。
そのままだと、座ったまま倒れたように、足がベッドから出てしまうので、意識しないようにしながら彼女を俗に言うお姫様だっこで少し位置を調整する。
そうして掛け布団を彼女に被せた。腕が酷く疲れていた。
やっぱり背負ってよかった。お姫様だっこでここまで来ていたら、絶対途中で疲れて休んでいただろう。
そうすると、ふと彼女の顔が目の前にあった。
掛け布団を被せて、シーツの皺を伸ばすと、自然とこの大勢になってしまっていた。
ちなみにどんな姿勢かというと。
僕が彼女を襲おうとしているように彼女の上に四つん這いで、しかも顔を近付けている。他人が見たら間違いなく通報ものだ。
早く戻って寝よと、熱い顔を左右に振り、足をベッドから下ろして彼女から離れていく。
しかし、最後に右腕をベッドの上で突いていたのが悪かった。
ガシッと何かに右腕を掴まれた。
何かといわずともエイナさんであることは知れている。問題はなぜ彼女が僕の腕を掴んだかだ。
恐る恐る彼女の顔を窺うと、すうすうと穏やかな寝息を立てて、眠っていた。
ということは無意識で僕の腕を掴んだの?そんなことあるの?
ゆっくりと彼女の左手を放そうともう片方の手で彼女の指を放していく。
「……ううん」
え?起こしっちゃた?
僕が身構える中、その少女は口をもごもごさせ。
「もう、食べられません」
完璧な寝言を発した。
いや、確かに寝言の定番だよ?でもさすがに本当に聞く時が来るとは思ってなかったよ。うん。
僕は苦笑いを浮かべながら彼女の手から逃れることに成功した。
肩をすくめながら僕は背を向けた。
「……さよならじゃ、ないですよね」
驚いて振り返ったが、そこにはさっきと変らないまま、穏やかな寝息を漏らすエイナさん。
今のはわざとか、それとも寝言なのか。
どっちでもいいけど、問われた以上答えたい。
僕は彼女の枕元に近づいて、顔を耳元に、そして、
「これからもよろしくね」
そう言った。
彼女の寝顔は動かなかったが、幸せそうに微笑んだように見えた。
きっと気のせいだろうけど。
「お休み」
扉を閉めるときおっさんがそう言った。
「お休みなさい。また明日」
そう僕も挨拶を返した。
僕に宛がわれたその部屋の扉を開くと。
白いキャミソールを着た金髪碧眼の少女が僕のベッドに腰かけていた。
「ミルネさん?」
「こんばんわ。来たらいないんだもん。びっくりしたわ」
彼女は悪戯っぽく笑う。どうせどこに行ってたかも見通されているんだろうなと僕は何だか達観した気分になった。
「どうしたんですか?こんな時間に」
「うん。ちょっと恨み事と別れの挨拶を言いに来たの」
別れと聞いて僕は少し固まる。さっきはさよならじゃないかと聞かれて、今度は別れてきましたか。
「ま、突っ立てないで座れば?」
「一応僕が眠る部屋なんですけどね」
「男がそんな細かいこと、気にしないの」
茶化しあいながら僕はミルネさんの隣に座った。
「まずは恨み事ね」
彼女は宣言して、急に怒ったような、それでいてホッとしたような奇妙な表情で僕を睨んできた。
「よくも負素の元凶を逃がしてくれたわね」
そう言えば彼女は負素の元凶を探している人だった。僕がもたもたしていなければ負素の元凶を捕まえることができたのかもしれない。
そりゃ、恨み事の一つや二つ、言いたくなるよね。
「ごめん」
「別に怒ってるわけじゃないの」
ミルネさんはからからと笑った。
「ありがとうって言いたかったの」
「え?」
意外なセリフに僕は彼女を凝視する。
月光に照らされた彼女はどこまでも自然体で、嘘を言っている様子はない。彼女は一体何が言いたいのだろう?
「もちろん悔しいよ。逃げられたこと。絶対捕まえて、それでみんなに私たちの考えが正しいことを知らしめてやるの。でも、今回みたいなことは無理にしても後味悪いでしょ?」
パチッとウィンクをする。ちょっとドキッとした。
「だから、ありがとう。
今、とっても気持ちがいいの。なんていうのかな?達成感とか、そんな感じ。多分直樹君がいなかったらこんな気持ちにもなれなかったよ」
本当に明るく、太陽みたいにミルネさんは笑った。それは僕が見てきた彼女のどの姿よりも魅力的だ。雪みたいに白い肌も、サファイアみたいな蒼い瞳も、金糸のような金髪も、全ては彼女のこの笑顔を引き立たせるもののように思える。
「それと、もう一つ。お別れの話ね」
彼女は一つ咳払いをした。そうしてむしろ明るく言う。
「私は引き続き、負素の元凶のあの女を追いかけたいと思います!」
ビシッと敬礼し、おちゃらけて言う彼女だったけど、そこには誰も引き止められないような覚悟を感じた。
もちろん僕も、引き止められそうになかった。
「……そっか。折角仲良くなれたのに」
残念だと僕は肩を落とした。エイナさん、ミルネさん、アリスともこれからも過ごせるとどこかで思っていたけど、違う。
彼女は負素の元凶を追う記録者で、アリスだって、多分僕以外にも目的はあるんだろう。
いつか、終わってしまう関係なんだ。
「って、何今生の別れみたいに思ってるのよ!!別れったって一時的なものよ!!」
「え!?そうなの?」
「もちろんよ!!日本は私のお気に入りの国だしね」
まあ、ゲームもあるしね。と僕はアキバでの彼女のはしゃぎっぷりを思い出した。
「でも、ずっといる訳にはいかないの。アレを追いかけるのは私の使命だからね。あれが出てくるまで、また世界中を飛び回って来るわ。もう今日の飛行機でカナダに飛ぶの」
今日行ってしまうのか。あまりに急だけど、この行動力はミルネさんらしいのかもしれない。でも、そのらしさをもっとよく知りたかった。それぐらい分かるようになるくらい一緒に過ごしたかった。
「じゃあ、ちょっとの間グッバイってこと?」
「うん。でもまた来るよ。エイナにも会いたいしね。……それに、あなたにも」
「え?」
ニカッと彼女は子供っぽく笑いぐっと僕の服を引っ張り、
僕の頬と、彼女の唇が触れた。
え?これってキス、だよね。マウス・トゥ・マウスではないけれど。なんで、どうして、挨拶?それとも、
唖然とする僕から逃げるように赤く上気させた顔をした彼女は扉まで早歩きで向かい、
「欧米ではキスは挨拶だけど、私のは本気だから」
と宣言した。
…………。
彼女は指で銃の形を作り、それを僕に向けた。
「またね!私はあなたの花嫁の座を狙っているからね!」
「お元気でお過ごしください」
「あ、エス、いたんだ」
「いましたわよ!!」
そんな素のやり取りを残し、ミルネさんとエスは去って行った。
僕は呆然としながらも、彼女の唇の感触が残る頬を撫で、
「最後、ミルネさんなんて言ったのかな?」
と一人疑問に頭を悩ます、英語力には自信がない僕だった。
そうして、悶々としながらも迎えた木曜日の朝。
そう。まだ木曜日なんだよね。
ミルネさんに会ったのが確か月曜日の夕方で、森川さんとアキバで遭遇したのは火曜日、そして機能が水曜日。
しょーじき、まだ学校が二日も残ってると考えるといい加減ヤになってくる。
しかも、今日はまたしてもエイナさんの邸宅で過ごしたのだ。美能山という低い山にあるこの邸宅から自宅までは学校を挟んでちょうど反対側。遠いよ。遠すぎるよ。
文句を言っても仕方が無いので、僕は大人しくベッドから起き上がる。
僕はベッドの片づけをしてからリビングへ行くために部屋を出る。
ってリビングってどこだっけ?
この屋敷に寝泊まりしたのは二回目だけど、まだそんなに場所がどうこうと分かるほどではない。それだけこの屋敷は広いんだよ。
取り敢えず一階のまでは下りたのだけど、ここからどうしたらいいんでしょう?
というか、エピローグっぽいのに何でここまで迷走してるんだろう?
そう本気で疑問に思ってから、激しく後悔した。
「……僕もメタだし」
もうメタは止めろというツッコミはできないかもしれない。
結果から言うとリビングにはその後すぐに着いた。
アリスが僕を呼びに来たからだ。
僕の眠っていた部屋へ行く彼女と僕はホールで再会した。
話を聞くとエイナさんが朝食を作ってくれているそうで、もうすぐできるから呼んで来いと言われたらしい。
白い法衣を機嫌よく揺らす彼女を、僕は半歩下がって追う。
「ひじまサンはー、これからの事をー、考えてますかぁ~」
相も変わらずムカつく、もとい、苛立たしいゆったり口調で話すアリス。僕が提案したんだけど、もう君の舌を噛む事とかどうでもいいから止めて欲しい。
「これからって言われても。僕は別に」
何も考えていなかった。
アリスたちに改変を戻す協力をすると言った以上、僕も改変が起きる度に今回みたいに記憶固定を手伝わなきゃならないのだろう。
でもさすがに世界中の改変に対応はできないだろうなと思うと同時に一つの疑問が浮かんだ。
「ねえアリス。世界で改変っていくつ起きてるの?」
僕の身近でも一年で3・4回ほど、その中で僕自身に関する改変は少ないけど、それぐらいは見かける。
世界全体でなるとどうなるのか、想像できなかった。
「そんなの数えきれないですよ」
その言葉を言う時だけ、彼女は振り返って僕の瞳を見た。
僕はその透明過ぎるヒスイ色の瞳に、あまりにも黒い何かを見た気がして思わず足を止めた。
だが、すぐにターンしてアリスは踊るようなステップでまた進み始めた。
「改変は無数に起きています。ワタシたちが関与できないまま、世界に固定された改変も多々あることでしょう。かろうじて元に戻したものも多々あります。それだけ多くの人が今の世界に不満を持っているんでしょうね」
彼女はなんてことなくそう言ってしまう。昨日の夕食の話でもするように。きっと慣れているんだ。僕以上にこんな世界の現状に。
「そんなにあるんじゃ、僕の意味なんてあるの?例え、僕が世界に影響を出さずに改変を正すことができても、他の改変に飲み込まれてしまうんじゃないのかな?」
言いたくないけど、僕はそう言った。
僕は僕のできることしかできない。当然のことだ。僕にできるのは、改変を見つけるだけ。その改変と、変わる前の世界を記憶することだけ。すべての出来事を漏らすことなく、しかも正確に記録するような、完璧な記録装置には決してなれないのだ。
彼女はいつの間にかステップを止め、立ち止まっていた。
僕は彼女の半歩後ろで止まった。
「分かってますよ。ワタシにも貴方にも、できることなんてたかが知れたことなのでしょう。でもそれを知ってるからって、できることをしない理由にはならないじゃないですか」
早口で彼女は淡々という。それは僕が言ったことを否定したいように、僕には聞こえた。
でも、納得もできた。
見ると、彼女は肩を震わせていた。何かを堪えるかのように、真っ暗な中、出口を探す迷子のように思えた。
理性ではアリスの言葉は受け入れられない。本当に無意味なことをできるほど、人間は優しくも強くもない。それは僕も同じだった。
でも。
僕は彼女の震える両肩に手を添えた。
彼女は一瞬、ビックと必要以上に驚いたけど、その内すがるようにその背を僕の体に預けた。
小さな体は想像していたよりも軽かった。それでも、どこかこの手に収まる両肩は、とても逞しいように感じられた。
「……君の言う通りだね。僕らは僕らのできることをするだけなんだよね」
「……、はい」
彼女はそのまま体を反転させ、僕の胸に顔を押し付けた。僕はそのまま彼女を抱きしめていた。
それが、きっと一番彼女を支えるのに適していると思ったから。
「ありがとうごひゃひまひゅ」
最後に噛んだのはアリスらしい。と僕は声を押し殺して笑った。
さっきまで震えていた少女を励ますことができるくらい、僕は優しく、そして強くありたいと思う。
とてつもなく、例えば授業中、見当違いの回答を自信満々に発言したみたいな気分だった。
「ワタシはー、しばらくここにー住ませて貰うことにーなりましたー」
「へ~。それって調律者の仕事関係?」
彼女ははつらつとした外見相応の笑顔で頷いた。
「なんと言ってもー、ここは負素の量が多いですからー。エイナが記録固定した分の負素でもー結構な量ですー」
さっき噛んだこともあってか、何度目かわからないゆったり口調。どうしてあげましょう?やっぱり何か苛立つのですけど。
「とにかく―。そんなわけなので―、エイナさんともどもよろしくお願いしますー」
一体何をお願いされたのやらと思いながら、僕は曖昧に微笑んで見せた。
……日本人の十八番だしね。
時間は流れ、夏休みのとある日。
夏休みといっても今日は登校日。たいしたこともしないのに、僕らはだらだらと夏休みボケした体を引きづって登校する。
中村はそのテンションの高さも通常営業で、暑苦しいことこの上ないのだけど、久々に会ったためか僕もつられて普段以上にハイなテンションでヤツに付き合った。
森川さんは海に行ってきたと話して、記念写真を僕に押し付けてきた。「あげる」っと言われたから貰ったそれは、布地の面積が明らかに少ないだろうとツッコミを入れたくなるような、際ど過ぎるビキニ姿の森川さんが写っていた。これを渡して彼女はどうしたいのだろう?
そうして、
浮かれたまま登校日は過ぎたのだけど、
僕はその日、彼を見かけた。
大掃除を終えて、僕は保健室に配備されたモップを返却しに向かった。
クラスメイト達には先に帰っていいかと聞かれたので、僕は頷いておいた。まあ、僕がジャンケンで負けた結果なのだから、大人しく受け入れるしかない。……最初はグーの時は今度からグーをもう一回出すようにしておこう。
僕がトイレから手を洗って出た時、生徒会室に入る彼を見かけた。
あの初夏以来、沢田拓斗さんは纏まった休みを取ったらしい。
誰が言った訳でもないのだが、学校で、生徒会の行事にも彼の姿を見かけなかったのだから、それはおそらく正しいのだろう。
多分、その理由は分かる。
僕は生徒会室の前に立った。
ガラス越しに見えるその部屋には、沢田さんが一人パイプ椅子に腰かけているだけで、他には誰もいなかった。
僕は合言葉を言うかのように、
もしも神様が七日間きっちりと仕事をしていたらどうなっていたんでしょうね?
そう口に出した。
一章は完結となります。
しかし、これだけでは(作者が)消化不良なのでもう一話だけ。
終わった後の夏の話を投稿します。