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第1話 霧の中の少女

 バシャッ、バシャッ、バシャッ――


 昼間の雨でぬかるんだ道を、泥に足を取られながら必死に走る。空は厚い雲に覆われ、月も星も見えない。息をするたび、冷たい夜気が肺を刺した。


 矢がかすった右腕がズキズキと痛む。ずっと走り続けて、肺は焼けるように苦しく、喉には血の味が広がっていた。足ももうフラフラで、今にも倒れそうだ。


 だけど――

 僕を助けてくれた騎士のダンは、もっと酷い怪我をしている。


 このまま進めば、ダンの命が危ない。


「ダン! これ以上は無理だ! 一旦隠れよう!」


 僕らは道を外れ、茂みの奥へと身を滑り込ませた。夢中で走っているうちに、いつの間にか国境を越え、森の深いところまで来ていたらしい。


 だが、追っ手は振り切れなかった。遠くから、僕らを探す怒号が響いてくる。


「ダン、怪我は大丈夫?」


「はっ……こんなの、大したことないさ」


 笑ってみせるけれど、体のあちこちが切れ、血が滲んでいる。


「クソっ……どうすればいいんだ」


「……逃げろ、エリオル」


 ダンはよろよろと立ち上がった。


「ダ、ダン! 動いちゃダメだ!」


「このまま二人で逃げ切るのは無理だ。だから……俺がここで奴らを引きつける。二人とも捕まったら、俺が痛い思いして頑張った意味がなくなるだろ?」


「でも、僕は……」


「お前なら、お守りがついてなくても大丈夫だろ。なんせ、その歳で衛兵を抱き込み、脱獄を企てちまうような豪胆な王子なんてそういないぜ」


 ダンはふらつきながら道の方へ歩き出した。


「待ってよ! ダン!」


 追いかけたいのに、足が動かない。


 昨日までの生活が頭をよぎる。暗くて冷たくて、外の世界から隔絶されたあの牢。ただ死ぬために生きるような毎日。


 ……だけど、そんな日々をなんとか耐えられたのは、僕の話し相手になってくれたダンがいたからだ。


 もしここで、僕ひとり逃げたところで――

 ダンがいなかったら、外に出てもあの檻の中と同じじゃないのか。またひとりになるのか。


「いたぞ! こっちだ!」


 ダンが道に出たことで、追っ手がこちらに気づいた。


「早く行け!」


 ダンを追うことも、ひとり逃げることもできない。

 僕は――どうすれば。


 その時だった。


 深い霧が、突然あたり一面に立ちこめた。一瞬で視界が白に染まる。


「……こっち。死にたくなかったら、ついてきて」


 少女の声。今にも消えてしまいそうな、かすかな声だった。


 これはチャンスだ。今なら追っ手をまける。

 でも、もしこれが罠だったら――。


「……エリオル! 一か八かだ。行くぞ!」


 ダンの声が霧の向こうから聞こえた。僕は立ち上がり、声のする方へ走った。


* * *


 気がつくと、霧はいつの間にか晴れていた。少し開けた場所に出ていて、追っ手の声も姿もない。


「……どうやら、逃げ切れたらしいな」


 前を見ると、座り込んだダンと、その隣にひとりの少女が立っていた。


「ダン! 大丈夫?」


「ああ……お前も無事でよかった」


 ふと空を見ると、雲の隙間から朝の光が差し込んでいた。どうやら夜通し走って、朝になったらしい。


「あなたが助けてくれたの?」


 僕は少女に問いかけた。


 少女の長い白髪が、朝日に照らされてキラキラと輝いていた。透けてしまいそうな白髪とは対照的に、瞳は赤くゆらめき、じっとぼくを見つめている。その表情はまるで仮面のように、ぴくりとも動かなかった。


 その瞬間、周囲に爆音のノイズが響いた。反射的に僕は耳を押さえてうずくまる。


「エリオル! 大丈夫か?!」


 ダンには聞こえていない。

 これは――僕だけに聞こえる音。


 ノイズの奥から、微かな声が近づいてくる。


「……たすけて……」


 耳元で囁かれたその声は、さっき霧の中で聞こえた少女の声だった。


 僕は驚いて少女の顔を見た。だが、彼女の表情は変わらず無機質なままだ。


「……どうして助けたの?」


 問いかけても、少女は何も答えない。ただ、僕を見つめ続ける。


 やがて少女はくるりと背を向けた。


「……もう歩けるでしょ。こっち。ついてきて」


 そう言って歩き出す。


 この少女が何者なのか、敵なのか味方なのかもわからない。でも、僕らは、もうこの少女に頼るしかなかった。


 僕は傷だらけのダンを背負い、少女の後ろを追った。

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