神の裁きと悪魔な彼女
時刻は午後6時半過ぎ。
日は完全に西に落ちて、辺りは街灯の明かりだけが頼りの中――リリーはソフィアに連れられて、修道院に身を寄せて以来、毎日続けている”奉仕活動”に従事していた。
「今日も寒いですね……」
「えぇ……、こういう日は特に、亡くなられる方も多いですからね。しっかりと見回って行きますよ」
白い息を吐きながら、二人はランタンを片手に街を歩く。
人通りの少ない路地裏を中心に、河川沿いや橋の下、時にはレストラン裏のゴミ箱の中にも気を配りながら、二人は冷たい空気をかき分けるように歩き続けた。
特に冬の河辺はとても冷える。
「はぁー」
リリーは両手を擦り合わせながら、口元に軽く息を吐いた。
時折吹き付ける冷たい夜風はとても厳しく、空気が頬を撫でるたびに、ヤスリで擦られるような痛みさえ覚えるほどだ。
リリーの口元から漏れ出た息は、真っ白な蒸気となって空へと霧散する。
ゆっくりと空へと舞い上がる白い息を目で追うと、住宅の窓から漏れ出た光を反射させていた。
リリーはふと、視線を光のある方へ向けてみる。
そこから聞こえてきたのは、家族と思しき人たちの楽しそうな笑い声と、暖かい部屋の灯火。
家族の温もりが溢れ出ているその光景に、リリーはボーッと眺めていると、
「……家族を、思い出してしまいますか?」
ソフィアが静かに問いかけてきた。
「……そう、ですね……。なんか、懐かしいなーって、思っちゃいました」
「……申し訳ありません、野暮な事聞いてしまいました」
「いえ、お互い様なので……、っ、あ……」
「ふふっ」
ソフィアはただ短く笑って、視線を前に向けるだけだった。
リリーも彼女に倣って、視線をまっすぐと前に向ける。
大きな石畳が敷かれた、立派な河岸。
数百メートル間隔に架けられた石橋の下をいくつか潜り、リリーたちは念入りに巡回を続けた。
ただ、無言で。視線は、前に。
いつもと変わらない様子で歩くソフィアの横で、リリーはその静けさに妙な居心地の悪さを感じながら――そんな時、
「シスター・アクアから私の過去、聞きました?」
「え、えぇ……、まぁ……」
「そうですか」
リリーの肯定に、ソフィアは短く答えるだけだった。
ソフィアはこれ以上、会話を広めようとするつもりはないらしい。
「むぐ……」
「…………」
「むむぐっ………」
「…………」
「むぐぐぐっ!」
「…………なんですか?」
必死に頬を膨らませながら、何度かの唸り声をあげるリリーに、ソフィアは静かに問いかける。
あまりにも冷静なその返事に、リリーはハッと顔を赤らめながら視線を落とすと、
「……あの、聞かないんですか?」
「何をですか?」
「私たちの会話とか……」
「シスター・リリーが話したいのなら、聞きますよ?」
「いえ、別にそういう事じゃ――」
「なら、このお話はお終いですね」
強がる様子も見せず、淡々というソフィア。
完全に隙のない彼女に、リリーはただ下を向くことしかできなかった。
「……ですが」
ソフィアは軽くため息を吐くと、
「…………いつか、その時が来たら……、貴女には伝えてもいいのかもしれませんね」
ボソッと独り言のように口から溢す。
その表情には何処か迷いがあるものの、自分に言い聞かせるようだった。
ソフィアのそんな反応に、リリーは思わず目を見開く。
「……ぜったい、ですよ?」
そう言った自分の声が、思ったよりも弱く震えていることにリリーは気づいた。
だが、ソフィアは何も答えない。
ただランタンを持つ手の指先だけが、ほんのわずかに力を帯びていた。
*
二人が街の巡回を始めてから1時間後。
リリーとソフィアはこの日珍しく、行き倒れた人の姿を見つけることはなかった。
「今日は、何事もありませんでしたね」
「……えぇ、そうですね」
リリーの言葉にソフィアが返したのは、何処か心此処にあらず、と言わんばかりの返事。
ボーっと何か考え事でもしているのか、その様子はどことなく上の空だった。
隣国を源流に注ぐ川の水面には月が浮かび、シスター二人が歩く石畳にまで青い光が反射させている。
そんな硬い地面を蹴る度に、リリーから見たソフィアのその表情は、何処か硬くなっていくようにすら感じた。
そんなソフィアの様子を、しばらく見ていたリリーだったが――、
「シスター・ソフィア?」
「……え? どうかしましたか?……」
「いえ、その……、大丈夫ですか……?」
「大丈夫、とは……?」
たまらず声をかけたリリーの問いに、ソフィアはなおも呆けた様子で問い返す。
ソフィアは何かを誤魔化しているつもりはないらしい。彼女の瞳の奥には、純粋な疑問が満ちているようだった。
だからこそリリーはあえて、その違和感の正体を口にする。
「……自覚、ないのですか?」
「どういう、ことでしょう……?」
「なんか、その……」
一瞬言い淀むも、リリーはランタンを握る手を軽く揺らすと、
「シスター・ソフィアの様子が、何処か辛そうに見えたので……」
驚きに目を見開くソフィア。
それと同時に彼女は、両足の動きをピタッと止める。
石造りの橋の下。
冷たい壁に挟まれていることもあってか、妙にこの場所は湿気が上がって、空気は一段と冷たく感じる。川の流れる音の中に、わずかに異質な静寂が混じっていた。
今の頼りは、手元で揺れる小さな灯だけ。
街の喧騒が一気に薄らぎ、月の光も射さない暗い場所だった。
そんな場所で遅れるように立ち止まったリリーは、一歩後ろで立ち止まるソフィアの様子を伺う。
はっきりとその表情は見えないものの、リリーは少し不安げな視線を向けていると、
「……貴女は本当に、人の感情の機微に鋭いのですね……」
何処か諦めを含んだ笑みを浮かべながら口にした。
リリーは思いもよらない返事に、何も言葉が出てこない。
ただ、ソフィアの視線が橋脚の根元に向けられていることだけは、はっきりと分かった。
冬の冷たい水が、橋脚をかき分けて流れていく。
そんな川の流れに逆らうように、ソフィアは視線を川上の方へ向けると、悲痛さを堪えながら、言葉を探すように一瞬だけ声を止める。
やがてポツポツと語り始めた。
「……今でこそ、私はシスターの一人として、日々の祈りや奉仕に身を捧げることを許されています。今に至るまでのきっかけは、他のシスターと違ってかなり歪で、自分勝手なものです。ですが、神とシスター・アクアは、かつての愚かな私という人間を受け入れてくださったのです」
「それって……」
アクアの過去の話だろう。
リリーはただ静かに、ソフィアの言葉の続きを待つ。
初めて触れるソフィアの過去。
誰も真相を知らない、彼女の生い立ちと本当の正体。
目の前でパンドラの箱が開いていくような不安に駆られながら、リリーはふと視線を陸の方へと向けた――その時、
「えっ……」
リリーは偶然見つけてしまった人の影に、思わず短く声を上げた。
後ろに立っていたソフィアは、突然のリリーの声に視線を戻す。
しばらくしてリリーの視線の先を追うと、
「この話の続きは、後にしましょう」
そう言ってランタンを前に掲げながら、ソフィアは土手の上へと上がっていく。
リリーも急いで、彼女の後を追った。
案の定そこには、一人の中年男性が倒れている。
髭は濃く、服もかなり汚れているその人は、酷く痩せこけた様子だった。
この街には珍しくもない、放浪者の一人だろう。
そんな彼のすぐ近くまでソフィアは近づくと、
「大丈夫ですか?」
一応、確認の声をかけた。
反応を返さない男性の顔元に、リリーはランタンの灯りを近づけてみた。
空気が冷えていることもあって、臭いはあまり感じないが、顔や腕はかなり汚れている。
身に着けている衣類も綻びや破けが目立ち、明らかに浮浪者という出で立ちだった。
「亡くなられて、いますね……」
「そうですね。……教会にお迎えしましょう」
リリーの言葉に、ソフィアは頷きながらランタンを置いた。
そして優しく男性の肩を掴んで、上体を横に動かしたその時、
――ジャラ……。
金属が擦れる音が小さく鳴った。
ぼろ布の襟元が崩れ、何かが滑るように落ちる。
「これは、首飾り……、ですよね?」
リリーは言いながら、男性の横に落ちた首飾りを手に取った。
手のひら大の太陽をモチーフにした、特徴的な首飾り。
リリーはずっしりと重みのあるその首飾りを、首を傾げながら眺めてみる。
それはリリーもどこかで見覚えのある形状――でもそれを目にしたソフィアの反応は、
「えっ…………」
目を白黒とさせながら、身体をワナワナと震わせていた。
「なによ…………、それ……」
珍しく――いや、初めて取り乱しかけているソフィアの様子に、リリーは妙な胸騒ぎを感じながら、
「シスター、ソフィア……?」
おずおずと彼女の名を呼ぶしかない。
川上から一方向に水が流れる音に、小鳥たちが空へ羽ばたく羽の音。
目の前に人が2人――いや、少なくとも生きている人間が1人いるはずなのに、この場所には人の気配がどこにも感じられなかった。
「………………………………」
ソフィアは何も喋らない。
ただ俯くだけで、前髪越しに男の遺体に視線を向け続けている。
「あの……、そろそろ教会に――」
しびれを切らしたリリーが、これからの手順を確認しようと口を開いた瞬間、
「必要ありません」
「えっ?」
「この人には、もっとふさわしい場所があります」
ゾッとするほど低く、通った声で言うソフィア。
そんな彼女は徐に立ち上がると、ランタンを乱暴に手にして背を向けた。
この場を去ろうとする彼女の表情は、月明かりとランタンの灯りをもってしても、厚い髪の影に消えてよく分からない。
「し、シスター、ソフィア……?」
放心しながら、再び名を呼ぶリリー。
そして慌てて立ち上がろうとした、その時――、
「…………やはり、恨んでいたか…………」
乾いた、しかし確かに耳元で囁くような声だった。
あろうことか、死んでいるはずの死体から声が聞こえたのだ。
「えっ……」
リリーは反射的に身体が固まり、ゆっくりと視線を再び戻す。
焦点の合わないその視線が、かろうじてリリーの方を向いている。
そこには瞼を震わせながら、わずかに瞳を見せた男の顔があった。
「貴方……、生きていたのですか……?」
震える声を抑えようとしながらも、恐る恐るリリーは問いかける。
だがその男は真っ青な顔で、
「気にしないで、ほしい……。どうせもう、本当に死ぬのだから……」
表情を変えることもなく、自嘲的に乾いた笑いを漏らした。
「あぁ……、生きすぎてしまったのかも、しれないな……」
弱々しい口調で、弱々しい後悔を口から溢す中年の男。
そんな彼のその様子に、リリーは再び胸を締め付けられるような苦しみに苛まれていた。
「だけど――」
中年の男は再び静かに溢す。
そしてまるで、願いがかなったと言わんばかりに、
「生きていてくれて、よかった――」
独り言のように言いながら、その中年の浮浪者はそっと目を閉じてしまった。
「ね、ねぇ……? ちょっと……?」
リリーは何度も声をかけてみるも、結局その男は再び目を開くことはない。
首飾りを手にしたまま、リリーはただ呆然と中年男の表情を眺めることしかできなかった。




