忘れもの
留美子は、しこたまに酔っていた。ワインやウィスキー、焼酎と何杯飲んだろうか。それでも、彼女は酒に強い方であった。これしきで、酔ってたまるか、という気の強い女性でもあった。だから、グラスを何杯空けようと、留美子は、平然として良平の顔をまじまじと見つめることが出来た。
そこは、良平の部屋であった。といって、彼女は、良平に身体を許したような関係ではない。留美子は、どちらかといえば、良識ある女性であって、まだ結婚関係でもないのに、肉体関係を結ぶのには、どこか嫌悪感があった。だから、今夜も遅くならないうちに、また自宅のマンションに戻る予定にしていた。しかし、彼女の愛している恋人の良平である。彼とは、いつまでも一緒に居たい気もした。
「ねえ、良平?」
「何?」
「あたし達、付き合って、どれくらいになるんだっけ?」
「うーん、2年かな?」
そろそろ告白があってもいいと思うのである。それがない。そもそも、良平は、勘の鈍いところがあった。そこも、留美子の好きなところなのだが、度を超えると、問題がある。
留美子は、テーブルのグラスを取り、グイッと焼酎を飲み干すと、
「何か、言うことないの?」
すると、良平は、平然として、
「いったい、何だよ?」
と来る。鈍いのである。それで、ため息をつくと、留美子もとうとう諦めて、話題を変えてみた。
「最近、旅行に行ってないね、あたし達?」
「そうだっけ?そうか、この前に、北海道へ行ったのが最後だったか」
「今度さ、夏の沖縄に行かない?ラフテーとか食べてみたいしさ、それにアラハビーチとか満喫したくない?」
「俺、あんま海好きじゃねえし、暑いの苦手だしさ」
「本当、面白くないなあ、じゃあ、良平はどこがいいのよ?」
「だからさ、近くの温泉で、一風呂浴びて、焼き肉料理でも食いたいなって気分だな」
その時である。突如、留美子の頭に、ピンとくるものがある。何だ、何だ。何か分からない。たぶん、酔ってるせいだろう、頭の機能が弱っているのか、何かだ。何だろう?何かを忘れた。弱った。
「そうだ、留美ちゃん、この前、僕の貸した一万円、まだ返して貰ってなかったよな?」
弱った。何だろう?えっ?何て言ったの?聞こえなかった。
「そう、そう」
と、とりあえず、相鎚を打つ。すると、良平は、
「じゃあ、いつ返すの?」
「えっ、何で?」
「何でって、借りたものは返せよ、何言ってんだよ?」
まあ、いいか。そのうち思い出すか。そこで、良平の部屋のテレビを眺める。相変わらずのバラエティ番組である。お笑い芸人が、真抜けたコントで、お茶の間を沸かせる。それにしても気にはなる。忘れものではある。
「なあ、留美ちゃん」
「えっ、何?」
「俺たち、別れないか?」
「えっ、別れるですって?」
「うん、この2年間、付き合ったけどさ、俺たちの共通項って言ったらさ、酒とショッピングくらいじゃん。俺、正直、そういう仲じゃ飽きてくるんだよな、留美は?」
「きゅ、急にそんなこと言われても....................」
「それにさ、留美、いっつも携帯のメール返すの遅いしさ、イライラすんだよな、俺」
「あのさ、ひょっとして、良平、どこかで女でも出来たの?最近、何だか怪しいもん、良平の態度」
「そ、そんなの、いないよ、俺は、留美一筋だぜ。俺の眼を見てみろよ」
「ふーん、どうだか?」
「じゃあ、何か証拠でもあんのかよ、証拠」
「じゃあ、言うけどね。この前、良平の部屋、黙って掃除したことあるんだけど、そん時さ、良平の寝室のゴミ箱の底から、見慣れない使ったコンドームが出てきたんだけど、あれ何?」
「そ、それは、つまり、その」
留美子は真面目な顔つきになった。酔いも少し覚めてきたようだ。彼女は、きっぱりと宣言した。
「別れましょう、あたし達」
今度は、留美子が言い出した。良平は、椅子から立ち上がると、ふらつく足取りで、冷蔵庫へ行き、中から氷の入ったタンブラーを取り出して、自分のグラスに氷を入れながら、
「分かったよ、認めるよ。前に付き合ってた佳菜子って女の子がいたんだ。でもさ、今は別れたよ、そいつ、正式に婚約してさ、何でも、相手は一流貿易会社の御令息らしいぜ、この俺がかなうかよ」
「そういう問題じゃないの。そういう浮気をするようなあなたの態度を言ってるの。こうみえて、あたし、とことん真面目ですからね」
「分かったよ。お前がそこまで言うなら、俺も同じだよ、別れる。
..................、じゃあさ、悪いけど、今すぐ出て行けよ、ここは俺の家だ、さあ、出てってくれ」
「言われなくても、出ていくわよ、................、じゃあね、この浮気者!」
引っつかむように、バッグを握りしめて、留美子は良平の部屋を飛び出した。マンションの廊下に出る。少し落ち着かなきゃ、あたし。
深呼吸してみた。 何度か繰り返して、天井を見上げたりしていると、少し落ち着いてきた。これでいい。だいぶんと楽だわ。
あんな男が何よ、世の中、若い男なんて掃いて捨てるくらいいるのよ、男なんて風船よね。ひとりくらい、どうってことないわ。
そんなことを考えていると、また気楽になってきて、足取りもしっかりとしてくる。
帰ろう、いつもの家へ。
歩き出す。マンションを出て、外の空気に触れた瞬間に、留美子は、また思い出した。例の忘れものである。待ってよ、もう少しで。駄目か?分からない。
駅まで出て、遅い電車に乗る。窓の外は、闇だ。ところどころに白い灯りが見える。もう時刻も遅いのだろう。いつもの電車だ。
駅を降りて、コンビニで抹茶アイスと、缶ビールを一本購入する。帰って飲み直すか?ちょっと気を良くして、帰り道を急ぐ。
それにしても分からない。何、忘れたの?些細なことかもしれないが、気になると人間はこんなものである。実に小さい。
見慣れたマンションに着く。3階までは、高速エレベーターだ。
3階の廊下を歩きながら、バッグの鍵を探る。出て来た、出て来た。部屋に着き、鍵を回す。
ところがである。鍵が開かない。どうしちゃったのかしら。何度動かしても、ピクリとも廻らない。
その時である。留美子は思いだした。閃いたのである。
あたし、今日、引っ越したんだっけ。いけない、すっかり忘れてた。
今日の午前中に、隣の千葉県まで移転して、午後になってから、引越祝いで、良平の部屋で飲んだり喰ったりとパーティーしてたのよね。ウッカリしてたわ。
じゃあ、あたし今から千葉県まで帰る訳ね。何だか泣けてきた。
でも、頑張ろう!もうひと息よ、留美子。そう自分に言い聞かせて、気の強い彼女は、自分に負けない勢いで、歩き出すのであった..................。




