2024年4月『入れない現場』2
踏み入れた現場は二昭和末から平成初期によく見られた仏間付きの4LDKだ。入って右がリビングダイニング、左にいくと仏間で、扉が開けられている今は玄関を上がってすぐに中の様子を伺うことができる。
「龍崎警部補、私は今朝見えるものに関して『ホラー映画のような害をなすものではない』とお窺いしたのですが……」
「いきなりの例外に心苦しくはありますが、『違うものも当然います』とお答えしたはずです」
遠目から見たそれに、浅井は思わず口を押さえながら苦言を漏らした。
先ほど聞いた通り、被害者と思しき人物は布団に横たわったままになっている。
いや、それはどうでもいい。問題は被害者の横に立つモノだ。
強いて言うならばそれは、赤い着物の女のように見えた。天井についてなおも収まりきらず、L 字に曲がっているがかろうじて人の形をしてはいた。
天井にある頭部から伸びる黒い髪は床に無秩序に広がり、その下に覗く赤黒い衣はさながら時間の経過した血液のよう。
表情は読めない。否、顔自体が浅井には見えなかった。本来顔がある場所には、ぽっかりと穴が開いたように光を通さぬ暗闇があるばかりだ。
明らかに、人間ではない。だが、人間からなる幽霊でもない。畏怖と呼び起こす、異常なるもの。
ざりざりと、鼓膜がやすりにでもかけられているような不快なノイズ音が聞こえる。ぼそぼそと、誰かの声が聞こえる。
「あ……」
それが、女のような何かから発せられていると悟った瞬間に、かちりと何かのスイッチが入ったかのように鼓膜を震わせるものが「ノイズ」から「言葉」となった。
「どうして」「ひどい」「どうして」「痛かったね」「怖かったね」「どうして」「ひどいね」「苦しかったよね」「悲しかったよね」「許せないよね」「許さない」「許さない」「許さない」「許さない」「許さない」「許さない」「許さない」「許さない」「許さない」「許さない」「許さない」「許さない」「許さない」「許さない」「許さない」「許さない」「許さない」「許さない」「許さない」「許さない」「許さない」「許さない」「許さない」「許さない」「許さない」「許さない」「許さない」「許さない」「許さない」「許さない」「許さない」
声が、赤い淀みが、脳を侵食していく。許せない、許せない、許してはならない――必ず、見つけ出して、
「浅井巡査部長」
ちりんと、涼やかな鈴の音と名を呼ぶ龍崎の声に、我に返る。同時に、鼻から何かが伝い落ちて床に落ちるのが見えた。
それが自分から垂れた鼻血だと気が付くのにも少し間が必要で、気づいた時には床だけではなく襟元にも赤黒いシミを作り始めていた。
「これで押さえて、外でゆすがせてもらってきてください」
そういってハンカチを差し出す龍崎は、まるで顔色を変えていない。慣れている、というよりも気にしていないといった様子である。
「……龍崎警部補は、平気なのですか」
ハンカチで鼻を押さえて、龍崎に意識を向ける。そうしないとまた、この鼓膜を摺り上げるノイズが怨嗟の言葉に変わってしまいそうだった。
それに気づいたのだろうか。龍崎はにこりとなんでもないかのような柔らかな笑みでこちらを見上げてきた。
「はい。私は平気ですが、このままでいるわけにはいかないのでちょっとなだめてきます」
「なだめ……なだめる?」
「ええ。だから少し外で待っていてください」
思わず言われた言葉を反芻する浅井の困惑ごと押しのけるように、龍崎は浅井の背を押して玄関から外へと出した。
またスイッチが切り替わるように唐突に、ノイズが聞こえなくなった。同時に、流れ続けていた鼻血もぴたりと止まった。
どうやら、あのノイズが――あの女の怨嗟の声が、この現場に入れなくなる原因となっていたようだ。さもありなん。あのようなものがいるならば、不可解な現象が起きても仕方がないと、今の浅井にはそう思えた。
もっとも、昨日までの浅井と同じ、『見えない人』にとっては原因不明で、原因を説明されても理解できないだろう。
異様なものを見る目でこちらを見る所轄の警察官たちの視線を浴びながら、小さくため息をつく。
「龍崎警部補が出てくるまで待機で」
普通の警察官との折衝。これこそがきっと、今日からの浅井の仕事である。
*****
「許可をいただきましたので、入って大丈夫ですよ」
数分もしないうちに、龍崎がひょこりと玄関から顔を覗かせた。浅井たちが到着するまでの間に散々な目にあった所轄の警察官は半信半疑といった顔であったが、捜査はせねばならないので恐る恐る現場に入っていく。
浅井も、その後に続いた。玄関を抜けてももうノイズは聞こえず、代わりに幽かな泣き声だけが鼓膜を揺らした。
仏間に入る。天井よりも大きかった女は普通のサイズにまで縮まり、部屋の隅で顔を覆いすすり泣いていた。
今の女に、最初のような首を締め付けるような威圧感はない。ただただ、どうしょうもない悲壮感のみがそこにあった。
「あの、どうやって退治、いや、なだめたのですか?」
写真に指紋採取と鑑識が一通りの仕事を終えるのを待ちながら、浅井はこそりと龍崎に尋ねる。
異常なものはあれほど恐ろしく禍々しい姿をしていたというのに、すっかり「普通の人間」の姿になっていた。果たして、龍崎は何をどうしたと言うのだろうか。
「本当にただ「一旦落ち着いてほしい」とお伝えしただけですよ。被害者が亡くなられたことに、ひどく動揺していらっしゃる様子でしたので」
「動揺、ですか?」
果たして、あの怨嗟を動揺しているで片付けて良いものか。実際落ち着いたのだから、龍崎の感じ取ったものの方が正解なのだろうが、いささか腑に落ちない。
浅井の気持ちを察してか、龍崎はついと、視線をすすり泣く女に向ける。
「あの方が今避けてくださっている奥の棚に、土雛がありました。旧暦のひな祭りに合わせて降りてきていらっしゃったのでしょう」
「土雛?」
「知りませんか?土人形で出来たお雛様で、この辺りだと沿岸部の農家の方が農閑期に作って、行商さんが山間部にまで売りに行っていたんです。割れやすいのですし一般的な雛人形の方が主流になっていったのですが、こうやって古いお家には残ってたりします」
「つまり、まさか『あれ』は雛人形だとおっしゃるのですか?」
「はい。……雛人形は、災いを肩代わりする形代とそこから発展した、流し雛をルーツとします。あの方は災い肩代わりできず、持ち主を亡くしてしまった事を心苦しく思っていらっしゃるご様子ですね」
「……『あれ』の話を真に受けるのですか? 本気で?」
「でないと、交渉も何もできないでしょう?」
なんてことないように言う龍崎に、異常なものを目にしたときとはまた別種の恐ろしさを感じた。
交渉するということは、同じ地平に立ち、対等とみなしながら言葉を交わすということだ。龍崎の言葉を聞き入れてくれるということは、龍崎も向こうの言い分を飲む可能性もあるということではないだろうか。
それに対して、龍崎は危機感を持っている様子もない。
「さて、鑑識さんも一通り終わったようなので本来のお仕事に移りましょうか」
「……はい」
浅井が龍崎のあり方に対して向けるべき言葉を見つける前に、刑事としての初仕事が始まった。




