2024年4月 『小さいおじさん』
カタカタと、風に窓ガラスが揺れる。
――いや、本当に風によるものだろうか?窓の外に、手が見える気がする。
カサカサと、蜘蛛が歩く音がする。
――いや、本当に蜘蛛や虫だろうか?部屋の隅に蟠り暗がりは、今や自ら動いている気がする。
ぴちょん、ぴちょんと、締めきれなかった蛇口から落ちる水滴がシンクを叩く音がする。
──いや、本当に水滴の音だろうか。それにしては不規則な気がする。
浅井にとって、夢見が悪いのはいつものことだ。
何度も見る。父がこちらを省みる事なく、朝早くに出ていく背中を。母が弟を抱きかかえるたままこちらに目を向けることなく、一人で学校に行く己を。弟が見知らぬ男に手を引かれながら、夕霧の向こうに消えていく様子を。こちらなどまるで存在しないかのように、いなくなった弟に関して両親が言い争う姿を。何度も、何度も何度も何度も。もうそれ以外の夢をみることのほうが稀なほどに
だから浅井にとって悪夢には慣れっこだ。慣れっこだからこそ、この変異は浅井の睡眠を阻害した。
憮然とした思いのまま、雀の声に目を開ける。
日は登り、夢の時間は終わった。
だというのに、やはり天井のシミが動いて見えた。
*****
24時間、いつ何時事件が起きるかは分からない。よって警察も24時間いつでも動けるよう体制を整えている。
だが、それは警察という機関の話であり、警察官は当然休みもあれば定時もある。
刑事課は宿直もあるが、昨日受けた辞令に準じるならば8時30分から17時15分までの1日7時間45分、完全週休2日制だ。
また、早く来過ぎてもなんら問題はない。だいたいの警察官は、早朝術科訓練として身体を動かしているものだから、1時間前には皆顔を揃えているなんていうのもザラだ。
とはいえ、今日は早すぎたかもしれない。
午前7時。まだ慣れぬ道を自転車でゆくのだからと早めに家を出て、車もまばらなおかげで早々に着いた浅井は深めのため息をついた。
朝霧の消えきらぬ周囲に、人間はいない。だが、やはり何かが見ている気がしてどうにも気が重い。
身体を動かせば少しは気も晴れるだろうか。長めに術科訓練時間を取るにしても、人はいるだろうか。
そんなことを悶々と考えながら職員用の扉を開け、
「あ、おはようございます」
何故か、靴べらを手に、自販機の上を目指して目一杯背伸びをしている龍崎と鉢合った。
「おはようございます龍崎警部補……あの、何をなさっているかお聞きしてもよろしいですか?」
「えっと、バレッタを持ってかれてしまいまして……」
龍崎の言葉を受けてよくよく見れば、自販機から落ちるか落ちないかの微妙な位置に金色のバレッタが見えた。
同時に、黒い影……というよりは、もはや明確に、体長10センチほどの中年男性が見えた。
「普段ならあげちゃうんですが、お気に入りなんですよ。あのバレッタ。1日置いたら返してくれるかなーと思ったのですが、ダメでしたので強硬手段に出てます」
「あの、失礼ながらお尋ねしたいのですが、アレはなんですか……?」
まるでいるのが当たり前のような口ぶりで、小さな中年男性とその窃盗を語る龍崎に、恐る恐る尋ねる。
案の定というべきか、龍崎はその質問の意図が分からないとばかりに小首をかしげた。
「何かは分かりませんが、小さいおじさんです。署内にもよくいますよね?」
「いえ、初めて見ました……」
そんなものがよくいてたまるか、という言葉はなんとか飲み込んだ。浅井一人が見えているならば幻覚で、龍崎一人が見えているならばたちの悪いジョークで流すことができただろう。だが、実際に二人に見えているならばそれはかなり高い確率で現実だ。
小さな中年男性は実在する。この愛知県警察本部という、県下の中でもトップクラスの堅苦しさと物々しさを帯びた場所にだ。
思わず奥歯を噛み締めた浅井に、龍崎は目を眇める。
「……浅井巡査部長、目の下にずいぶんと濃いクマがありますが、昨夜はちゃんと休めましたか?」
「いえ、実のところ、夢見が悪く……」
小さな中年男性は実在する。とは言え、昨日から突然見えるようになったあれこれまでが、実在するとは考えがたい。
さてどう説明したものかと言葉を濁す浅井に、龍崎はさらに目を細めた。なにか、浅井には見えないものを睨みつけるような目であった。
「浅井巡査部長、昨日、古塚警視から何か貰ってませんか?」
「え? あ、貰ってますね」
言われて、ようやく餞別だと手に握らされたものの存在を思い出した。
ポケットに乱雑に突っ込んだそれを改めて確認すると、やはり勾玉であった。ひんやり冷たいそれは、ガラスにしてはほんの少し重い気がする。水晶だろうか。
龍崎は硬質な瞳を浅井の手のひらの上に向け、やがて呆れたように目を伏せてため息をついた。
「それのせいですね。後で叱っておきます」
「……これ、そんなに縁起の悪いものなんですか?」
龍崎の態度を見て、ただのおもちゃのような気で見ていた勾玉が、途端に禍々しいものに思えてきた。叱る必要があるということは古塚が悪意を以て、浅井に渡してきたのだろうか。
「いえ、それそのものは大須の雑貨屋で買えるような品ですよ。千円ぐらいで」
禍々しく感じた勾玉は、『大須の雑貨屋』というワードで途端に陳腐化した。妙な方向に背伸びしたい学生や、少々変わったものがほしい高齢者向けの品らしい。
「私が怒っているのは、何の説明もなく貴女にそれを渡したということです。自分の思った通りの人事を通すために、元から見えている訳では無い人間に変なもの見えるようにした、その事実に怒っています」
「あの人ったらまったくもう」と、やや緊張感のない怒り方をしている様子からして、本当に逼迫した事態や悪意に基づくものではないらしい。
だが、その言全体には、やや引っかかるところがあった。
「龍崎警部補は元から見えていると?」
自由気ままに署内をうろつく小型の中年男性を筆頭に、部屋の隅で蟠り蠢く不定形の闇、窓の外から伸びる体のない腕、表情を変える天井のシミ。公務員が口にするには相応しくはない、「怪異」という単語が指し示すにあたう、不可解なモノたち。
昨日から浅井を苛むそれらすべてを、はるか前から現実のものとし眺めてきたのだろうか。
「ええ、物心ついた時から。あんまり大っぴらに言うと古塚警視のような人にこき使われるので言いませんが」
しいと、唇に指を当てる仕草は少女めいた容姿の龍崎にはよく似合っていたが、やはり刑事らしくはなかった。
頼って大丈夫なのか不安になるような上司に、頭が痛む。だが、昨日からの悩みのタネの原因は今明らかになった。
「……これ、捨てて良いですかね? 家でもよく分からないものが見えて落ち着かないのですが」
「やめておいてください。捨てたところで6係としての仕事が回ってこなくなるわけではありませんから。あの人の性格だと、もっと捨てにくい形で何か渡してくる可能性もあります。いかにも立派なお守りだとか、由緒ありそうな御札とか――女性だと指輪とか」
「……龍崎警部補、誠に言いにくいのですが言わせてください――あの人、性格悪すぎませんか?」
「悪いです。私、去年だけでも何度か暴行犯になりかけましたよ。あの人に反省機能はありませんから、こちらの経歴に傷がつくだけなので踏みとどまりましたが」
つまり、古塚は龍崎相手にも同様のことを複数回して、そのたびに龍崎の理性が勝ったらしい。
「それに見えなくなったところで、いなくなるわけではありませんから……ちょっと嫌じゃないですか?」
それには反論できず、口を噤む。例えるなら嫌な虫と鉢合わせるのも嫌だが、嫌な虫が家にいるのが分かっているのに、見えないのはそれはそれでストレスであるのと同じだ。見えてしまったからには、見る前にはもう戻れない。
殺虫剤や忌避剤に近いものはないのか、と龍崎に尋ねようとした時、廊下の向こうから龍崎を探す声が聞こえてきた。
「ご指名ということは、さっそく6係としてのお仕事みたいですね。バレッタは諦めます……」
「私が取りますよ」
長身の浅井がひょいと背伸びして小型中年男性ごと捕まえようと手を伸ばせば、小型中年男性はぎょっとした顔をしてバレッタを置いて奥に逃げていった。
深追いはせず、当初の目的のバレッタを掴み龍崎に渡す。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
渡しながら、浅井は自販機の上を見た。そこにはもう何も異常なものは見当たらなかった。
「龍崎警部補、貴女が見てきたこの不可解な物は、向こうから何か……その、ホラー映画のような害をなしてくるものではないないのですね?」
「そうですね。しても、こういう小さないたずらです。もちろん違うものも当然いますが、見分け方は私にもイマイチ分からないといいますか……」
「そうですか」
龍崎の「小さいやつなら最終的にひっぱたいちゃうんですよね」という小さなつぶやきは聞かなかったことにしよう。いささか乱暴ではあるが、そちらの方が刑事に相応しく思えた。
その間にも、龍崎を探す声は近くなり、スマートフォンからはメッセージ音も鳴り出した。
龍崎はスマートフォンの画面を見て、少しだけ顰め面をした。
「古塚警視ですか?」
「ええ、そのとおりです。やっぱり『6係』の仕事ですね……浅井巡査部長、始業時間前で申し訳ありませんが、ちょうどいいので一緒に現場に行きましょう。まずは見えているものに慣れなければ、仕事どころか生活にも差し支えますから」
そう言って、龍崎は靴べらを傘立てに立てて己の探す声のもとに向かっていった。
刑事課に異動して2日目にして、浅井は現場に連れて行かれるらしい。




