第5章:再び歩き出す
耳に届くのは波の音とカモメの鳴き声。夕暮れの風が頬を撫で、胸の奥に残っていた熱が少しずつ冷えていく。
足元に、ひとつの小瓶が転がっていた。
掌に取ると、淡い桜色の光が揺れる。それは、間違いなくルミエだった。
ただ、今度は桜色の奥に、金と蒼がごく微かに混ざっている。
ルミエは、持ち主の中心に還るのだ。
「……また、ここからか」
呟きは潮風に溶け、石畳に吸い込まれた。
そのとき、背後から声がした。
「それを……見つけたのかね」
振り返ると、建物の物陰から一人の老人が歩み出てきた。
深く刻まれた皺、潮風に焼かれた肌。
その姿を見た瞬間、理由もなく息が詰まり、指先にじっとりと汗が滲む。
波音が遠のき、代わりに耳の奥で心臓の音が大きく響きはじめた。
視線が合った途端、足元がわずかに揺らぐ。
老人の瞳の奥に、港の光とも夕暮れの色とも違うどこか懐かしい光があった。
その色は、幼い頃に見た写真の中、自分が笑っていたときの瞳と同じだった。
胸の奥で何かが軋む。
記憶の深層に、幾度も繰り返された自身の名前の響きが浮かびかけては沈む。
問いも言葉も生まれないまま、ただ確信だけが静かに形を成していた。
この人は、未来の自分だ。
老人は何も言わず、懐かしさと哀しさを宿したまま見つめ返した。
その視線は、長い旅路の果てにようやく辿り着いた相手を見つめるものだった。
老人は微笑んだ。しかし、表情には懐かしさと哀しさを同居させたままであった。
「そうだ。お前さんは、まだ旅の途中にいる」
港場の喧騒が、遠くへ引いていく。
老人の声だけが、はっきりと耳に残った。
「何度も行き、何度も戻ってきた。そのたびに、彼女を助けようとした」
「ルナを……?」
「名を呼べるのは、その記憶がまだ消えていない証だ。だが、全てを思い出すには、もう一度行かねばならない」
ソルはルミエを握りしめた。光がわずかに脈打ち、心臓の鼓動と重なる。
問いかけたいことは山ほどあったが、口を開けばすべてが霧散してしまいそうだった。
「ルミエは、お前さんが忘れたと思い込んでいたものを照らす光だよ」
「愛や痛みや、名前さえ失っても、それだけは、灯りとして残り続ける」
老人はゆっくりと背を向けた。
「行け。進むべき道は、すでにお前さんの中にある」
その背が夕闇に溶けていく。
「再びルナに出会ったとき、思い出すさ。彼女は時の層で姿を換える」
「何を失い、なぜ探し続けているのか」
「……そして、ただ一度だけ、お前さんは彼女を置いてきた」
老人の呟きは、風に紛れ、どこか遠くへ消えていった。
ソルはしばらく立ち尽くしていたが、やがて歩き出した。
港場の石畳の先、海の向こうには、薄闇に沈む城の影が見えた。
風が頬を撫で、ルミエの光が桜色から金色へと変わる。
その輝きは、城内で見たあの微笑みの残像と重なり、胸奥で静かに疼いた。
あの笑みは確かに告げていた。これは終わりではなく、また始まりなのだと。
城の影が波間に揺れるたび、微笑みの輪郭が浮かんでは消える。
一瞬、潮風の中に彼女の声が混ざった気がして、ソルは足を止めた。
しかし振り返っても、そこにはただ港のざわめきがあるだけだった。
「次は必ず——」
その言葉は誰に向けたものか、自分でもわからなかった。
風が吹き抜け、潮の匂いが胸を満たす。
その一瞬、人波の向こうに淡い光の揺らめきが見えた。
銀の髪が風に解け、振り返る気配、ルナの面影。
まばたきをしたときには、もう何もなかった。
ソルは光を握りしめ、港場を再び歩き出す。
その先に、もう一度彼女の声が待っている気がしてならなかった。




