第3章:城の内部
舟が城の岸壁に着くと、ソルは湿った石段をゆっくりと登った。
扉は軋む音もなく開き、城の内部は外観とは裏腹に静まり返っていた。
足を踏み入れた瞬間、波やカモメの声は完全に途絶え、空気の温度までもが変わる。
ここでは時間の流れが違う。そんな感覚が、背中から這い上がってきた。
この城は、近づく者の恐れを喰って形を成す──その気配が、ソルの背に得も言われぬ寒気を走らせた。
廊下は長く、薄暗い。だが、歩みを進めるたびに床の石がかすかに光を返す。
壁には古びたタペストリーが掛けられているが、その模様はじっと見つめると形を変え、どこかで見た景色へと変容していく。
何度も曲がり角を抜けるが、同じ廊下に戻ってきたような錯覚が繰り返される。
ルミエの光は心臓の鼓動と呼応するように脈打ち、時折、淡い蒼や金に揺れた。
やがて、曲がり角の先に広間が見えた。
天井は高く、窓は一枚もない。それでも中央だけが柔らかな光に照らされている。
そこに、ひとりの女性が立っていた。
銀糸のような髪が肩に落ち、月光の下でしか見られないような淡い輝きを放っている。
白い足首までのワンピースは、ほとんど色を持たず、それがかえって彼女を非現実的な存在にしていた。
こちらを振り向いたその瞳は、深い夜の湖面を思わせる静けさをたたえている。
女性は胸元で小さく揺れる白い貝殻に触れ、指先で確かめるように撫でた。
その仕草に、ソルの胸の奥がわずかに疼いた。
なぜだろう。どこかでこの動きを見た気がする。
「あなた、どうしてここに?」
その声は、不思議なほどに懐かしかった。
初めて聞くはずなのに、胸の底が忘れていた痛みを思い出す。
ソルは答えを探したが、言葉にならない。
代わりにルミエが桜色に染まり、女性の瞳にその光が映った。
女性は一歩近づき、ルミエを見つめる。
瞳の奥に驚きが走り、わずかに息を呑む気配が伝わった。
「その光が、まだ残っていたなんて」
彼女はそう呟くと、目を伏せてからゆっくりと顔を上げた。
「お願い。その光で、私をここから連れ出して」
ソルは眉を寄せた。
「君は、ここに囚われているのか?」
女性は答えず、代わりに背後の闇を振り返った。
その視線の先、広間の奥には、黒い扉がそびえている。
そこから低く唸るような音が響き、空気がわずかに震えていた。
「この城は形を変える。外へ出ようとしても、同じ廊下に戻される。
ここから抜け出すには、ルミエの光しかないの」
声は確信に満ちていたが、その奥に諦めの影が垣間見えた。
ソルは思わず問い返す。「ルミエを知っているのか?」
「ええ。忘れられるはずがない。だって、その光は私に何度も呼びかけてきた」
ソルはルミエを握りしめ、胸の奥に浮かぶ問いを飲み込んだ。
なぜ、自分の持つ光が彼女を救うのか。
そして、なぜ初めて会ったはずの彼女が、これほどまでに懐かしいのか。
「分かった。君をここから必ず連れ出すよ」
その言葉に、女性はかすかに微笑んだ。
けれど、その微笑みは儚く、すぐに消えた。
広間の光がわずかに揺らぎ、黒い扉の向こうから冷たい風が流れ込む。
ルミエは淡い桜色から、深い蒼に変わった。
それは、これから進む道が安らぎではなく、試練であることを告げていた。
「この城は、誰かを信じた記憶と、信じられなかった記憶が交差している場所」
彼女は一歩近づき、ソルとの距離を縮めた。
瞳の奥に、懐かしさと切なさが入り混じっている。
「ここは時が閉じている。外へ出るには、ルミエが道を開く」
その声には、わずかな期待と祈りが宿っていた。
その声の響きがソルの胸の奥深く柔らかな場所に触れた瞬間、忘れていた痛みがふっと目を覚ました。
港の陽炎の中で聞いた笑い声、誰かの手の温もり、そして、別れ際の横顔。
それらは、形を結ぶ前に霧のように解けたが、胸の疼きだけは確かな証として残った。
彼女は視線を落とし、小さく笑った。
「私をここから連れ出して。そして、忘れないで。私の名前は——ルナ」
ルミエの光が一際強く輝き、部屋の影を押しのけた。
しかし、その光の中で、ルナの姿が微かに揺らぎ、まるで夢の中の存在のように頼りなかった。
それでもソルは、彼女の手を強く握った。
過去に離してしまった何かを取り戻すような、
かつて陽だまりの中で微笑んでいた誰かの手の感触に似ていた。




