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いかなる花の咲くやらん 曾我物語より 下巻

皆様は曽我物語をご存じですか。

鎌倉時代初期、父の仇を討つために生き、そして散った兄弟の物語です。

武士の矜持と愛する人の狭間で揺れ動く若き魂。

この「いかなる花の咲くやらん」は、武士の生き方、父母への孝行、大切な恋人への思いのほか、恋人をタイムスリップした現代の女子高生にし、原作では出てこないその時代の友人を登場させることで、現代の考え方とその時代の考え方を対照的に表現しました。

小学館新編日本古典文学全集53曾我物語を参考に、各地に散らばる伝説も盛り込み、読みやすい文章で書きました。

ぜひ上巻からご一読ください。


建久四年(193年) 春 大磯


「五郎様、頼朝様は諸国の武士たちを召し連れて、武蔵の国関戸へ狩りに出かけるようですよ」

「おお、亀若さん、ありがとう。我々もその情報を得て、早速後を追うつもりです」

「そうですか。くれぐれもお気をつけて」

翌日、兄弟は頼朝一行の後を追った。

「忍んで追って行くには馬が邪魔であるな。馬を返して身軽になるか」

「そうですね。二人連れだって馬で追っては目に付きますね」

二人は馬を返して、太刀だけの身軽な姿で 一晩中 祐経を狙った。しかしいつものことながら厳重な警備の元、 手出しが出来なかった。翌日 頼朝一行は久米入野で追い鳥狩を行った。しかし馬を返してしまい弓矢も持たない兄弟は為す術もなく日暮れを迎えた。

「追い鳥狩りでは移動が早い、馬を返したのは失敗であったな」

「夜半に 野営を狙いましょう」

この夜も厳重な見回りのため少しの空きもなかった。

その後頼朝一行は大倉、こだま、上野の国、信濃、三原、長倉、長野と狩りをして回り 宇都宮明神へ参拝した。最後に那須野で狩りをして鎌倉へ戻った。兄弟はただひたすらに頼朝一行を追いかけたが疲弊ことごとく 落胆し 三浦の叔母の元へ戻った。

「ただ、いたずらに追い回すだけではどうしようもありませんね」

「ふむ、しかし大体の様子が分かった。頼朝様の狩りは純粋に狩りを楽しむのではなく、武士の鍛錬のようだ。ですから次から次へと狩りの形態が変わる」

「以前の巻き狩りでしたら、それぞれが勝手に動いているので隙もありましたが、近頃はきちんと統率が取れており手が出しにくいですね」

「一所に長く留まることもない。徒歩では追いつけぬ」

「次は馬で行こう。馬で目立たぬように追うのは難しいが、どうしたものか。


悩む間もなく、すぐに亀若から知らせがあった。

「頼朝様は侍たちに暇を与えないために 何日か後にまた狩りにお出かけになるということです。今度の場所は富士野だそうです」

「富士野か。蘇我からも近いし 今度は馬に乗って後を追えば先日の狩りより楽に追いつけようぞ」

「ありがとう。亀若さん。お礼と言うのではないが 先日たまたま買っておいた 簪がある。受け取ってもらえるか」

「たまたま簪を買うことがあるか。素直に『亀若さんのために選びました。なかなか渡せず、ずっと持っていました。』と言ったらどうだ。まあ、五郎にしては上出来だ」

「ずっと持っていたのを、兄上ご存知だったのですか。人が悪い」

「ありがとうございます。亀の細工の簪。とっても嬉しいです。大事にします。似合いますか」そう言って、亀若ははにかみながら、髪に差して見せた。

「可愛いです」

「そうですよね。この亀さん、貝細工ですか。とても可愛い」

「いや、その亀じゃなく 亀若さんが・・・」

「あはは、五郎は面白いなあ」


亀若が大磯に戻ったその夜、兄弟は話し合った。

「兄上考えたのですが 何故こうも仇討ちがうまくいかないのでしょう。追っても、追っても祐経は逃げてしまう。いつも人がいて、近くへ行くことが出来ない。今までは隙を伺い機会を狙っていたので想いを果たすことがならなかったのでは、ありませんか。あわよくば祐経を打った後に 逃げ伸びようと心のどこかで 思っていたのではないでしょうか。ですから、人に見つからないように、一人の時ばかりを探していた。ところが祐経は用心深い男です。決して一人にならないように心を配っている」

「いや、そんなことは。私はずっと死ぬ覚悟で祐経を追っている」

「では、なぜ、一人の時を狙うのです」

「そうか。自分でも気が付かぬうちに心に甘えが生じておったか」

「そのような甘い考えでは この先いくら後をつけ回しても、仇など打てますまい。命を惜しまず真正面から斬りつける気概が 必要かと思われます」

「ふむ。五郎の言うとおりだな。それに『武士らしく』ということに囚われすぎていた気がする。なりふり構わず、夜襲をしてでも、ことを成し遂げんとせねば」

「今回は大掛かりな狩場のことゆえ 、人も多くごったがえしておる。頼朝様のお側に寄ることもできるであろう。旅の宿のことであれば屋敷よりも入り込みやすい。遠ければ弓を使い、近ければ斬れば良い。覚悟を決めれば必ずや本懐を遂げることができるであろう」

「今度出かけたならば二度と曽我へは帰らないと誓いましょう」

「もしも仇が取れなかった時には自害して悪霊死霊となってでも 祐経を祟り殺そうぞ」

「では兄上、この世に思い残すことが無いように、親切にしていただいた方々にお別れをしてまわりましょう。どのような挨拶かは言えませんが、後々、思い出したときに、『ああ、あの時、別れに来てくれたのだな』と思い返していただけるように」


頼朝が明日出発すると耳にした兄弟は三浦の伯母の家を出ることにした

「伯母上、お世話になりました。我々はこれより頼朝様の富士野の狩りを見物に参ります」

「伯母上には本当にお世話になりました。母に勘当された この身、伯母上の温かさに どれほど救われたことでしょう」

「何の恩返しもできないことの不甲斐なさよ。もうじき梅雨の季節です。お体の節々が痛みませんようご自愛ください。そしてたまには曽我へも足をお運びください」

「母と共に梅干しなど つけてあげてください」

「なんだか様子がおかしいですね。よもや おかしなことは考えておりますまいね。とても優しく とても悲しげな お顔をなさっていますよ。どうか私に嘆きや恨みを与えなさるな。曽我の母上を悲しませるな。母上が五郎を勘当したのは 愛するがゆえですよ。今も勘当を解く機会を探しておいでですよ。お分かりであろう」

「もちろんわかっております。これから曽我へ戻り、勘当を解いてもらうつもりです。そして晴れやかな気持ちで 狩りを見物し すぐに戻ってまいります」

「約束ですよ。早々にお戻りなさいよ」

こうして兄弟は三浦を出て小坪、由比、稲村ヶ崎を通り過ぎた。遠くから江ノ島の弁財天を拝み「 今後生まれ変わり、またこの景色を見られることがあるだろうか」と語り合いながら歩を進めた。平塚を過ぎ、十郎は永遠の茶屋へ、五郎は早川の叔母の館へ行った。早川では伯母の夫の土肥弥太郎遠平が大変喜んで迎えてくれた。

「ずいぶん久しぶりだな」

「ご無沙汰して申し訳ありません。お変わりありませんか」

「ああ、皆、息災だ。十郎殿も元気か」

「はい。おかげさまで 元気にしております。この度 頼朝様の富士野の狩りの様子を拝見したいと話しておりました。しかし、なにぶん母に勘当された身の上、良い鞍がありません。もしできましたら鞍を頂戴できませんか」

「なんだ、そんなことか。お安い御用だ。狩りを見に行くのであれば 乗り心地の良い鞍が必要だろう。十郎の鞍もお持ちになるとよい」

「ありがとうございます」

「そうか そうか。兄弟揃って狩り見物か。そして、この伯父を頼りに来てくれたか。嬉しいことよ。今日は良い日だ。ささ、食事の支度もできたようだ」

五郎は大層なもてなしを受け、その夜はゆっくりと眠りについた。

その頃、十郎は大磯の永遠とともに曽我の里へ来ていた。

「どうしたのですか。私の顔をじっと見られて。とても悲しそうな目をなさいますね。何かあったのですか」

十郎は何も伝えず 出発するつもりでいたが、(何も言わずに死んでしまったら どれ程悲しまれることだろう。彼女の真心を裏切ることになるまいか。でも、今の決心を伝えると別れ難くなってしまう。これほど愛した人を残して旅立つ我が身が恨めしい。しかし父の仇を打たずにこの先 生きながらえていくことも また恨めしい。)

「私は何を聞いても大丈夫です。ご決意なさったのであれば はっきりと胸の内をお伝えください」

十郎は重い口を開いた。

「私に成し遂げたい思いがある事はご存知ですよね。そのかねてからの思いを果たすために、この度狩りのお供をすることに いたしました」

「今までも祐経どのがお出掛けになるたびに あとを追っていらしたのとは違うのですか」

「はい 今までは、隙あらばと思っておりました。命をかけたつもりではおりましたが あわよくば曽我へ戻り、永遠殿と共に暮らしたいと 甘い考えを持っておりました。しかし そのような生半可な気持ちでは 神のご加護も受けられず ただいたずらに時を浪費して参りました。この度は本当に覚悟を決めました。万が一その場で討ち取られようとも 必ずや想いを果たすつもりです。再び曽我の里へ帰ることはありますまい。明日 出発したら もう永遠殿にお会いすることはないでしょう。あなたと知り合って早三年が過ぎました。貧しい身の上ゆえ大した楽しい思い出もなく、ただひたすら愛おしいというだけの心のままに過ごした三年です。悲しい思いをさせてしまうことが本当に辛い」

「楽しい思い出がないなんて その言葉の方がよっぽど悲しいです。私は幼い頃梅林で初めて会ってからずっと十郎様のことだけを考えておりました。その思いの強さ故、八百年の時を超え、十郎様の元へ参りました。その十郎様と恋仲になって 毎日輝くほどに満ち足りた日々でした。思い出してください。三浦、鎌倉、小田原、二宮、あちこちに共に馬に乗り 遠出をいたしました。桜の花びらが流れる渋田川を船で下ったこともありました。きらめく海で魚釣りもしました。由緒正しいお宮様へお参りは身の引き締まる思いがしました。十郎様と一緒に頂く朝餉はどんなごちそうよりも美味しかった。日向薬師へお参りしたときのことを覚えておいでですか。日向薬師の帰りに通った日蔭道から見た美しい風景。一面の彼岸花と夕日に染まる空。その境が分からないくらい真っ赤な世界でした。私たちも赤く染まって。あんな美しい景色は初めて見ました。

永遠はずっと幸せでした。私は十郎様と共に添い遂げたいと思います。ずっと共に生きていきたいと思います。

ですが、十郎様のご決心を私は止めることはできません。きちんと伝えてくださってありがとうございます。御本懐が見事 果たされますよう お祈りしております」

十郎は鬢の髪を切って「これを形見として下さい」と手渡した。永遠はそれを胸に抱いて泣くまいと 血が出るほどに 唇をかみしめた。それでも頬を伝う涙はとめどなかった。

「永遠さん、今宵限りの手枕で 千の夜をこの夜一夜で過ごしましょう」

月星が去り 空が赤く染まり 朝を告げる鳥が鳴き それでも離れがたい二人であった。永遠は上着の綾の小袖を脱いで「これを十郎様の肌着の小袖とお取り替えください。十郎様の小袖を形見として我が身から離さないようにしとうございます」

二人は共に馬に乗り 曽我と中村の境にある やまびこ山の峠の六本松に着いた。「ここで別れましょう。名残惜しさは付きませんが、同じ浄土に生まれ変わって、その時こそ添い遂げましょう」峠のあちらとこちらへ別れゆく二人。山に憚られ 振り返っても相手の姿を見ることも叶わなかった。永遠は大磯に帰ってから衣をかぶって転げまわって 泣き続けた。その姿を見た亀若は、永遠が覚悟を決めた十郎と今生の別れをしてきたのだなと全てを察した。そして、すぐに家を出た。


永遠と別れた十郎が家へ戻ると じきに五郎も早川から帰ってきた。

「お帰り五郎。早川のおじさんおばさんはお元気でしたか」

「はい。別れの挨拶はできませんでしたが、心ゆくまで話をしてきました。幼い頃より気にかけてくださった伯父上伯母上と お別れするのは寂しいことです。そして鞍を下さいました。兄上の分もございます」

「ありがたいことですね。さあ五郎、この家ともお別れです。いろいろと見て参りましょうか」

「そうですね。この家には沢山思い出が詰まっております。あ、兄上、この柱の傷を見てください」

「二人とも小さかったですね」

「母上が測ってくださいました」

「この頃 五郎は泣き虫でしたが、剣術の稽古には熱心に励んでいましたね。力持ちになるんだとよく石を持ち上げては投げていました。おかげで家の周りは 大きな石がごろごろ転がっています」

「そのおかげで今は岩まで投げるような強力になりました。母上が庭がめちゃくちゃと笑いながら嘆いていらっしゃいました」

「もうすぐ紫陽花が咲きそうですね」

「母上の好きな花だ。藤の花も菖蒲の花も母上はお好きでした。ツツジの花の蜜のあまさを教えてくれたのも母上です。この家のどこを見ても母上との思い出がいっぱいです。私達は本当に母上に愛されて育ちました」

「母上のことばかり思い出しておるな。未練を残さないために育った家を見て回っているのだが、母上のことばかり言っていては却って未練が募るのではないか。母上のこと以外にも楽しかったことはあるだろう。ほら、あの石。お前の足型がついている。お前が足を怪我してもう治った。その証しに、この石を踏み砕くと言って 思いっきり石を踏みつけた。私はまた足が折れるんじゃないかと思ってハラハラしたよ。さすがに岩は割れなかったが、なんとお前の足型に石が窪んだ。いやー驚いた」

「あの怪我の時はずっと母上が側にいて世話をして下さいました。どこへ行くにも負ぶってくださるのがうれしくて、用もないのにあちらこちらへ連れて行けとせがんだものです」

「五郎、やはり母上の所へ行こう。行って勘当を解いてもらおう」

「しかし、兄上、お許しいただけるだろうか」

「三浦の伯母さんも おっしゃっていたではないか。母上は許したがっているが、きっかけが ないだけだ。と、お前も今 母上に愛されていると言ったではないか。大丈夫、必ず許してもらう。それは母上のためでもあるぞ。勘当されたまま五郎がこの世を去れば、母上の悲しみは後悔とともにある。さらに苦しめることになると思うぞ」

「分かりました。私は勘当をといていただけたら、本当に嬉しく思います」

「では参ろう」

この頃、母の万却御前は山の下の別所にある親屋敷に暮らしていた。二人は母の元へ行き、五郎は障子の外へ控え十郎だけが中に入った。

「母上、この度 頼朝様の狩りの様子を伺いに参ろうと思います。五郎も連れて行きたいのですが、その前に五郎の勘当を解いていただきたいのです」

「五郎。五郎とはどなたです。私に五郎という息子はおりません。箱王という子供はおりましたが、勝手に元服をし、どのような名になったかも知りません」

「ですから、母上 その箱王が五郎です。もう、お許ししてあげてください。一体 五郎が何をしたというのですか。五郎が元服したのは実は私のせいです。明日出家という夜に、私の元へ別れの挨拶に来ました。もう箱王と共に今までのように語り合うこともかなわぬことが寂しくなり、これからも一緒にいたいと、私が引き止めたのです。母上に怒られるから それはできないと申す五郎に『母上のお怒りはこの兄が必ず解いてみせる』と申し上げました。お願いですから一言許すと言っていただけませんか。箱王の罪は出家しなかったということだけです。どうかお願い申し上げます」

「箱王の罪・・・。箱王、障子の陰にいるのでしょう。顔を見せておくれ。お前に罪などありません。罪があるとすれば、この母です。そなたたちが仇討ちを考えているのではないかと疑り、荒ぶる気持ちを静めるために権現様にお預けいたしました。でも、あなたは兄上といる時が一番心安らぐのですね。こちらへいらっしゃい」

五郎はうつむいたまま膝で部屋の中へにじり寄った。

「母上、お久しゅうございます。勘当を解いていただけるのですか」

「五郎という名を頂いたのですね。遅くなりましたが 元服おめでとう。立派になりましたね。これほど大人になるまで会わなかったこの母は浅はかでした」

「お許しいただきありがとうございます。北条時政様に、元服親になっていただき、曽我五郎時宗と名前をいただきました」

母も五郎も十郎も涙を流しながら、心がほどけていくのを感じた。

「それにしても、五郎今着ている小袖は随分見苦しいですね。十郎はいつものことだからいつもの連銭模様の小袖をお貸しします。五郎は久しぶりなのでこの白い唐綾の小袖をお召しなさい。そして十郎には千鳥模様の直垂と、五郎には蝶々柄の直垂を与えましょう」

そう言って立派な小袖と直垂を兄弟に渡した。

「ただし狩りから帰ったら、これらの小袖をお返しください。それは祐信様のものです。お戻りになられたら、そなた達に差し上げる為に、そなた達が気に入りそうな小袖を用意して待っております。くれぐれも気を付けて行ってらっしゃい。お早いお戻りをお待ちしておりますよ。今まで離れていた時間を取り戻しましょう」

部屋に戻った二人は勘当を解いてもらったことを喜び、これで心おきなく旅立てると話した。

「母から借りた小袖を返しに来られないことが申し訳ない」

「二十歳まで育ててくれた母上の恩に報いることなく、勘当を許されてすぐにあの世に旅立つ事が悲しいですね」

「父上を供養をしようと思うと 母上を悲しませてしまう。我らの境遇の恨めしさよ」

「せめて手紙を書きましょう」

二人は母に手紙を書き、部屋を掃除して家を出た。

「死んだ人を外へ出す時は普段使う門からは出さないということだ。我々はもうこの世のものではない。いつもの門から出ては、残った家族に不吉を与えるかもしれない」

「では、あちらの垣根のかけたところから外へ出ましょう」

「ここも、お前が壊した垣根だな」

「思いっきり打ち込んだら、たまたま割れてしまっただけです。わざと壊したわけではありません」

「それも良い思い出じゃ」

家を出た二人は田村の桜道へ出た。頼朝はもう相沢の狩場へ入られたと聞き

「さっ、足柄山を越えて一刻も早く参ろう」と十郎が言うと

「いえ、足柄を経ないで 箱根から行きたいと思います」

「何故。箱根から参っては遠回りになってしまうだろう。五郎らしくもない」

「実は箱根の別当様にもお別れをしたいと考えまして。勝手に箱根を出たにも関わらず別当様からはこの四年何度もお手紙を頂戴いたしました。しかし、私は出家しなかったことが申し訳なく、恥ずかしく思い、何のお返しもしないままにしてしまいました。最後に無礼を詫び良くしてくださったことにお礼を申し上げたいのです。また権現様にお参りして大願成就をお願いしたいと思います」

「なるほど、それはもっともなことだ。気がつかないで申し訳なかった。それでは鞠子川(酒匂川)を渡って参ろう」

二人が鞠子川を渡ろうとするとその日は流れが激しく水が濁っていた。

「罪人が川を渡ると三途の川の水が濁ると言います。鞠子川こそ三途の大河、箱根の山こそ死出の山、頼朝様がエンマ大王ということか」川を渡って坂峠を越えるとき十郎が振り返り酒匂、神津、高麗の山が見えた。(あーあの山の麓に、永遠殿がおるのだな。今頃どうしているだろうか。私が去った後、息災に暮らせるだろうか)

しばらく行くと矢立の杉に着いた。その昔、文徳天皇の弟 柏原の宮が東夷を平定するためにこの街道お通りになった時、権現への奉納のため上矢の鏑をこの杉に射たて、それ以来この道を通る人は上矢を奉納する習慣がある。兄弟も箱根の守護神に奉納するために上矢の鏑を射たてて通った。


箱根大権現に到着した二人はまず権現様にお参りをした。

「権現様、あなたの人を救うという請願が本当ならば、親の仇にめぐり合う機会を どうぞ与えてください」

「仇の首をお授けください。もし、願いが成就しないならば私が二人とも命を奪ってください。そうすれば、すぐに悪霊となり祐経にとりついて呪い殺しましょう」

「そのうえで厚顔なお願いではありますが、大磯に残してきた永遠殿と母上をどうかお守りくださいませ」こうして二人は権現様を参拝した後、別当の行実僧正のもとへ下った。

別当は二人を心からもてなした。「お二人の様子を見ると、今日から後 二人にお目にかかれることがあろうとは思われないようですね。何事もないように振る舞っておられるが、お二人が覚悟を決めているようにお見受けする」

「思いもよらぬことです。霊剣のない神に霊感を与えるとはこのことでございましょう。我らのようなものがどれほどのことを思い立ちましょう」

「頼朝様は今日、相沢で狩りとお聞きしております。ところが、お二人は足柄をお超えにならず、箱根へいらした。権現様にご祈願なさると共に、私に別れを告げに来てくださったのでしょう」

「全てお見通しでございますね」

「今まで長い間参上いたしませんで、すみませんでした。お手紙を頂きながら返信もできず申し訳ありませんでした。いただいたお手紙はいつもありがたく拝読しておりました。ただ、ただ、出家前に勝手にお寺を出た恥ずかしさ、申し訳なさから顔を出すことができませんでした。別当様には本当に良くして頂きました。ありがとうございました」

「殿達に引き出物を差し上げよう」と言って別当は 兵庫鎖の太刀と黒鞘巻きの刺刀を、宝庫から取り出してきた。

「この太刀は九郎大夫判官殿(義経)が木曽追罰のために上洛された時、祈祷のためお納めになった太刀です。黒鞘巻きの太刀は「微塵」といい、義仲相伝の物です。兵庫鎖の太刀は「友切」といい、昔は「膝丸」と言われていました。

「微塵」を十郎殿に「友切」を五郎殿に授けましょう」

微塵は長さ三尺三寸。木曽義仲が嫡男の義高の無事を祈願して奉納された。どんなものでも微塵に砕くことが出来、刃が通らぬものはないというのがその名の由来だ。

膝丸は長さ二尺八寸。源氏重代の太刀で、罪人の試し切りにおいて、上半身から膝まで断ち割ったことから、そう名付けられた。しかし、膝丸は持ち主が変わるたびに、その名を変えている。源頼光の手にあった時は「てうか」、源頼信の手にあった時は「虫食」と呼ばれた。源頼義は「毒蛇」、源義家は「姫切り」。それぞれ命名の由来になる逸話はあるが、なかでも面白いのは、源為義に譲られたときの逸話で、並んでおかれていた太刀が自分より六寸長かったため、焼きもちを焼き、刀同士で切りあった。結果、隣の刀の先を斬り落とした。そのために「友切」と呼ばれたという。その後、源義経は、熊野の深緑を映したような美しさであることから「薄緑丸」とした。そして兄、頼朝との関係修復を祈願して箱根大権現に奉納された。


刀を二人に渡した別当の行実僧正は立ち上がり、烏す沙摩の本尊を持仏堂にて逆さまにかけ直した。

「殿たちが本懐を遂げられないうちは正しくおかけ申しあげないことにいたしましょう」

「ありがたいことです。別当様の一言一言が権現様からのご託宣のようです」

「長年の祈願は必ず成就すると思われます」

「この別当がついております。来世のことはご安心ください。十分にご供養申し上げましょう」二人は箱根を後にした。

やがて別当は多くの僧を引き連れて護摩檀を設け、祐経の形代(人形)を作って調伏の祈りを始める。精魂を傾けて祈願すると、不動明王が護摩の煙、不動の火焔の中に現れ、形代の首を切って剣の先に貫き通した。


「五郎、別当様にお別れが出来て良かったな」

「はい。もう思い残すことはありません」

「別当様は本当に五郎の頃をよく考えてくださっているのだな。大変世話になったな。最後に思いもよらず、このように素晴らしい刀を下さった。ありがたいことよ。しかし、この刀を別当様から頂いたことは口が裂けても言ってはならぬ」

「はい兄上。この『友切り』稀代の名刀でございます。あの頼朝様も欲しがっていらっしゃいましたが、御神宝のため手が出せなくて、口惜しく思っていると聞いたことがあります」

「私が頂いたのは『微塵丸』三尺三寸はあろうか。なんでも微塵に切ることができ、通らぬものがないという、美しく強い刀だ」

二人は話しながら、箱根の山をだいぶ下りてきた。

「兄上、ちょうど良い石があります。一つ試し切りがしとうございます」

「五郎、無茶を申すな。せっかく頂いた刀、刃こぼれでもしたらどうするのだ」

「この刀が切りたがっております」

五郎は一抱えもある大石に切りかかった。刀はまるで吸い込まれるように石の真ん中を通り抜けた。大石の半分は傍らの崖の下を流れる須雲川を目指して落ちてゆき、大きな水しぶきを上げた。

永遠はいつまでも泣いてはいなかった。兄弟が思いを果たせたのち、鎌倉でお取り調べがあるだろうと永遠は考えた。(二人の恩赦を願い出よう。そのために自分に出来ることは何だろうか。いつか五郎が勘当された折、親類の家を転々としていたことがある。その時に頼りにした方々は信頼できる方々だと言っていた。これらの方々に連名で嘆願書を書いていただこう。でも、ことをなす前に相談したことによって、二人の計画が露見してしまないだろうか。私が知っていたとなれば私も罰を受けて処刑されるかもしれない。私はどうなっても構わない。ただ、親類の方々に迷惑がかかるのではあるまいか。慎重に、でも素早く行動を起こさなくては。二人がお手打ちになる前に)永遠は、苦悩した。(考えている時間はないわ。早くしなければ手遅れになってしまう。我が子のように兄弟を可愛がってくれている三浦の伯父様と伯母さま、従姉妹の夫の渋谷庄司重国様、お姉さまの夫の渋美朝忠様。なんとしても、二人が処刑されることをくいとめなければ。そうだ、岡崎義実さま。岡崎様の奥様は二人の伯母様、北条政子様のお母様の御妹だもの。政子様の御威光があればきっと頼朝様もお聞き届けくださる。普段からなにくれとなく面倒を見て頂いた岡崎様に最初に相談しよう。岡崎ならここからも近い)永遠は岡崎を目指した。

岡崎に着いた永遠は、愕然とした。岡崎義実は、巻き狩りへ同行していて留守だったのだ。

(なんて愚かな思い違いを。今回の巻き狩り。坂東武者すべてが参加していると言って過言ではない。わかっていたのに。冷静にならなくては)

永遠は伯母に訴えた。十郎と五郎が今までとは違う覚悟で富士の巻き狩りに出かけた。きっと今回は本願を成就するであろう。しかし、祐経を討った後、召し取られ、頼朝様に首を斬られるかもしれない。助命嘆願を親類一同でしていただけないか。伯母はすぐにすべてを承知した。

「危惧しておりましたことでしたが・・・。あい、分かりました。夫が帰りましたらすぐに鎌倉へ嘆願できるように準備をしておきましょう。事前にことを知っていたとなれば、そなたもこちらも処分される恐れもあります。兄弟の処分は鎌倉のお白洲で取り調べの後だと思われますから、二人が鎌倉へ着く前に書状が届くようにすれば間に合いましょう。そなたはその足ですぐに三浦へ行くが良い。和田義盛殿の奥方なら必ずや力を貸してくれましょう。馬とお付きの者をお貸し申します。ささ、急がれよ」

永遠は休む間もなく三浦へ向かった。早馬など乗ったこともなく、三浦へ着く頃は手足がばらばらになりそうであった。

それでも、水のいっぱいも飲まず、すぐに三浦の伯母様にも、岡崎の伯母様に言ったことと同じことを訴えた。三浦の伯母さまもすぐに合点した。

「和田と渋谷殿、本間殿、渋美殿とも相談いたしましょう。こちらが動けるのは、鎌倉で処分が決まってからです。それまで、事の成り行きを見守るしかありません」

どんなに急いでお願いに来てもやはりことが終わったのちでなければ伯母さまたちも動くことが出来ないのだ。永遠は落胆し、大磯に帰った。

「そうだ、虎御石。石に頼もう。私を令和から鎌倉へ連れて来られるほどの霊力を持ってすれば、十郎様をお助けできるのではないだろうか」

永遠は急いで大磯に戻り、座布団の上にちょこんとおかれた石に訴えた。

「虎御石、聞いてちょうだい。十郎様が大変なの。このままでは十郎様は死んでしまう。どうにかして十郎様を助けて。覚悟はしていましたけれど、やっぱりあの方を失うのは辛い。そもそも、どうして私をこの時代に連れてきたの?八百年もの時を超えても、愛する人と幸せに暮らせるなら、それはそれで納得できましょう。私の命を持ってあの方をお救いするために連れてこられたのなら、それもまた定めと思えます。ところが今、愛する方は死への旅立ち。私は独りとり残されました。私は、私は一体どうしたら良いの?どうしろと言うの?」

親族を巡って来た疲れもあり、永遠は泣きながらいつしか眠ってしまった。すると夢の中で声がした。

「私はあなたたちの思い。あなたたちは前世でも恋人同士でした。その時は理由あって添い遂げることが出来ず、二人生まれ変わって、共に生きていこうと固く誓い合い、命を絶ちました。あなたたちはこの時代に生まれ変りました。ところがあなたは疱瘡の大流行で幼くして亡くなってしまいました。このままではお二人の(えにし)が切れてしまう。そこで八百年の時をさかのぼり令和の時代から、あなたをこちらの時代に連れてきたのです。二人で幸せに暮らすために。ところが十郎様と五郎様の武士としての気骨の精神、人の子として孝行のお気持ちが大変強く、仇討ちの意志は変わりませんでした。ここから先は私の力だけでは、及びません。永遠、祈るのです。今から高麗神社にてお念仏をお唱えなさい。心から十郎様のことだけを思って。十郎様にそのお念仏が届き、二人の気持ちが一つになった時、また二人は結ばれる」

「待って、まだ聞きたいことがたくさんあるのに。お願い、待って」

目を覚ました永遠は、虎御石をじっと見つめた。石は冷たい石のまま、ぴくりとも動かなかった。その石を懐に抱いて、高麗神社へ急いだ。禰宜様にお許しを得て本堂に入り、ただひたすらに念仏を唱えた。禰宜様も護摩を焚き、共にお経をあげてくださった。

頃亀若は駿河の国富士の里にいた。曽我から帰った永遠の泣き疲れた様子を見て、兄弟がついに決心をしたのだな。今生の別れを十郎としてきたのだと察した。そして必ずや兄弟の本懐を成就させるために、自分に何か手伝いができないかと思案し、いてもたってもいられず頼朝一行の後を追っていたのだ。女の足ゆえだいぶ遅れをとったと思ったが、箱根を回っていた兄弟はまだ狩場に着いていなかった。「五郎様、遅いなあ。道中何かあったのかしら」そう心配している時、遠くに兄弟らしき影を見た。「ああ、やっと追いついてきたのだわ。何か役に立つことがあるかと思って、何も考えずにきてしまったけれど、顔を見せては、かえって邪魔になる。離れて見守りましょう」


日逼(ひせめ)狩場で頼朝一行に追いついた兄弟ではあったが、祐経は用心深く夜回りも厳しく少しの隙もなかった。翌日、井出の館でも一晩中射手を並べ勢子を集めて警戒をしているのでこの晩も虚しく明けようとしていた。

「兄上、人が多すぎますね。どのようにしたらよいでしょうか」

「ふむ、野営の者、宿舎の者、人数が多すぎて、どこに祐経がいるかも、よくわからぬ。」


翌日、五郎は丘に上がって馬の頭を下げて立っていた。十郎ははるか遠くの後方の草原の中にススキを分けて馬を控えていた。こうしたところに祐経が三頭の鹿に狙いをつけてかけてきた。十郎の大変近くまで来たが、ススキを隔てていたので十郎は気がつかなかった。五郎が気付き、丘の上から見て左下を、矢をつがえて指し示したが、十郎は鹿が来ると言っているのだとばかり思い、「鹿を討ちに来たのではない」と弓をつがえることはなかった。そこへいきなり祐経が現れた。「なんと祐経が来た」と言っていたのか十郎は急いで馬の足を立てて態勢を立て直そうとしたが、馬の左の前足をツツジの根に引っ掛けて馬が転んでしまった。十郎はゆるりと降り立ち すぐに祐経を追ったが 北条時政岡部五郎、吉香小次郎などが、祐経をはさんで合流してしまったので、思いとどまるしかなかった。その後も人々に見咎められないように 十郎が馬を走らせると 五郎が馬を控え、五郎が馬を走らせると十郎が馬を控えた。その日も虚しく一日が終わってしまった。翌日から三日間は巻き狩りであった。巻き狩りというのは、勢子の者たちがたくさん山に入り、上野山から鹿を追い下し、ふもとの野を取り巻いて囲んで、思い思いに射とるのである。射手をそろえ、組み合わせを決めて、頼朝殿の御前で鹿を射止めてお目にかける。組み合った人々が順番に召され、それぞれが華やかに着飾って参上した。気に入りの馬と馬具もそろえ、本当に世にもまれな豪勢な舞台の見せ物のようであった。その三日間も全く好機には得られなかった。

同年 五月二十八日


兄弟は宿所で話し合った。「明日は伊豆国府までお戻りになり、明後日は鎌倉へお入りになるとのこと。今宵を逃しては仇討ちはできませんぞ」

「しかし、館の警備が厳しく祐経に近づくこともできん。どの宿にいるかもわからん。刺し違える覚悟をもってしても そばに寄ることもできなければ 刺し違えることさえできない」

「万策尽きたか」

兄弟が頭を抱えていると その時、宿の女中が一通の文を持ってきた。文には【今宵、鶴菊の番傘のある宿所へおいでください。祐経殿はそこにおります。亀若】と記されていた。

「兄上、亀若さんからでございます」

「にわかには信じがたい」

「今まで亀若さんの情報が間違っていたことがありましょうか。私は信じて良いと思います」

「わかった。鶴菊の番傘だな」


兄弟がなかなか機会を得られず、いよいよ 明日は頼朝一行が鎌倉へお戻りと聞いた亀若は意を決して 、祐経の宿で酒の相手をすることにした。

「こちらは、この度狩りの責任者である祐経様の宿所でございましょうか。私は大磯の踊り子 亀若でございます。かねてより祐経様の武勇伝は色々と伺っております。本日も大きな鹿を仕留めになったとか。私の拙い踊りではございますが、ぜひ狩りの疲れを癒させていただけないでしょうか」祐経はひどく喜んで、亀若を酒の席に呼び込み、舞を舞わせることにした。

「あらあら、綺麗なボタンが篠突く雨に打たれてお辞儀をしております。かわいそうに。少しお待ちくださいね」そう言うと亀若は持ってきた鶴菊の番傘を木戸横のボタンに差し掛けた。祐経はご機嫌で酒を飲み、亀若の踊りを見ながらまた酒を飲んだ。したたかに酔ってはいたが、まだ狩場の緊張もあるのか、酔いつぶれるほどにはならなかった。

「さあ、明日は出発だ。そろそろ奥へ行こう。亀若といったな。見事な踊りであった。ありがとう。褒美を取らせる。さ、もう下がって良い」と、奥の間へ行こうとした。

「奥へ行かれてしまうのですか。私は嫌です。祐経様と朝までここに一緒に居とうございます」「いやいや、なんと嬉しいことを。しかし、実はこの祐経を仇と狙っておる 愚かな兄弟がおってのう。馬鹿々々しい話だが、おちおち寝てもいられんのだよ。本当に迷惑千万な話よ」

「せっかく憧れの祐経様とお目にかかれましたのに」

「あははは。すまん、すまん。おやすみなさいよ。今宵は楽しかったよ」

(ここで警備の厚い 奥座敷に行かれてしまっては、また兄弟は手出しができないわ)咄嗟に亀若は 自分の帯を解くと 着物を脱ぎ捨てた。

「これでも奥へいらっしゃいますか。女子に恥をかかせる物ではございません」

「わかった。わかった」慌てた祐経は供の者たちだけを奥へ行かせ、自分はその晩は亀若と そこの部屋で床についた。亀若は床を延べる時に、五郎にもらった貝細工のかんざしを、部屋の入り口の鴨居に 突き刺した。


亀若の手紙を読んだ兄弟は急ぎ、菊鶴の番傘のある宿を探した。

この時の十郎の出で立ちは、白い布の褌を締め、白いわきの深く開いた帷子に黄色の大口場窯の裾を何か所も裂いて、下には大磯の永遠が着替えた綾乃小袖を着て、その上に母から貰った群千鳥の模様のついた直垂に襷をかけ、一寸斑の烏帽子間の尾を強く締め、赤銅作りの眺めの太刀に箱根の別当からもらった黒鞘巻きを差していた。

五郎も同じく白い布で褌を締め、白い脇の深く開いた帷子に白い大口袴を何か所も裂き、下には浅黄の小袖を着て、上には母から貰った賽布の直垂に蝶々を所々に描いたのをすっきりと着こなし、襷をかけ、遠雁金の模様の着いた紺の袴の括り緒を結び、これも一寸斑の烏帽子懸けの緒を強く結び締め、箱根の別当から頂戴した兵庫鎖の太刀に、祐経から与えられた赤木の柄に銅金を施した刺刀を差していた。


兄弟は鶴菊の番傘がボタンに差しかけてある宿所を見つけた。

「兄上、あそこのようですね」

「しばし、この岩に隠れて、様子を伺おう」

「あちらの井田の屋敷に、頼朝はいるようですね」

「祐経は・・・・」

「何、なんとおっしゃいました」

「だから、祐経・・・」

ザザザー

「滝の音がうるさくて、兄上の声も良く聞こえません」

ザザザー

「ええい、うるさいぞ。滝。こちらは命を懸けて、親の無念を晴らそうとしているのだ。少しは静かにできんのか」

「滝におわす竜神よ。しばしその勇猛な音をお鎮めください。そしてわれら兄弟の仇討ちにお力をお貸しください」

兄が静かに滝の竜神に願いを唱えると、滝は落ちるのをやめ、辺りは針を落とした音も響きそうな静けさになった。

「やはり、我らには神が味方をしてくれているようだ。ありがたや。ありがたや」

「頼朝のいる宿はあちらの井田の館。祐経は頼朝と共にいるではないのか」

「ふむ、こちらの宿所とは十町ほど離れている」

「このような警備の薄い宿に、本当に祐経がいるであろうか」

「兄上、亀若がここに居ると言ったら、必ずここに居りまする」

「そうだな。必ず、祐経はここに居る」


兄弟が話を終えると、また滝は轟く音を立てて、落ち始めた。

ザザザザザー

まるで兄弟の動く音が仇に聞こえないようにと、先ほどよりさらに大きな音で流れはじめた。



二人は菊鶴の番傘を手に宿の中へ入っていった。廊下が暗く何も見えないので、入り口の篝火を番傘に燃え移らせ、暗い廊下を進んだ。しばらく行くと何かがキラリと光った。「亀若の簪だ。」五郎が亀若にあげた亀の細工の簪が、入り口横の柱に刺さっていた。二人は簪の刺してあった部屋の障子を思いっきり開けた。そこには祐経と添い寝する亀若がいた。

「亀若さん・・・」亀若は三つ指をついて「文字通り身を呈して祐経殿を足止めしておきました」

五郎は我が耳と目を疑った。今更ながら、亀若が自分にとってどれだけ大切な存在であったかを思い知らされた。

「なんということを」

「亀若の操、五郎様のために捧げました。悔いはありません。さ、早く。祐経殿は寝ておられます。今のうちに」

五郎は松明代わりにしていた番傘を振り捨てて、亀若を抱きしめた。しかし、自分の中にたぎる荒々しいものが、清らかで柔らかいものを傷つけてしまいそうで、急いで体を離した。何も言葉を発せられない五郎に代わって、十郎が礼を言った。

「かたじけない亀若さん。さあ、早くお逃げなさい」

「はい。大願成就をお祈りしております。さようなら」

亀若は急いで着物を羽織ると部屋を出ようとした。

「待て。亀若、護身用に持って行け」

五郎は絞り出すように言って、祐経から渡された赤木の柄の刺し刀を亀若に渡した。亀若は刀を握りしめ、闇に消えて行った。


「起きろ、祐経。お前に父を殺された曽我十郎、五郎兄弟が積年の恨みを晴らしに来たぞ」

「よくも何の罪もない父を殺し、母を悲しませてくれたな」

「われら曽我兄弟が、仇討ちもできない腰抜けとお思いか」

「起きろ、起きろ。今こそ自分のしたことを、悔いるがよい」

「さあ、お前の流す赤き血で、地獄の業火で身を焼いている父を、成仏させてくれようぞ」

そう言うと、五郎が祐経の肩を刺した。祐経は肩を刺されて、目を見開き、しばらく兄弟をみつめていたが、そばにあった太刀を取って、起き上がろうとするところを、十郎が躍りかかってはったと打つ。五郎も躍りかかってはっしと打つ。早くも二人で二太刀ずつ切りつけた。

兄弟は「これで良し」と外へ出たが、五郎が立ち戻って、

「そうだ。とどめを刺さなかったぞ」

「どうして。とどめというのは不確かな時に言うものだ」

「いやいや、仇を討った時の決まりだ。後日、『曽我兄弟は慌てて、とどめを刺さなかった』と言われるのは心外だ。そう言って、立ち戻り、刀もこぶしも通れと三度ほど刺した。

部屋を出た二人は「以前は噂に聞いていたであろう。今は目で見よ。曽我の冠者たちがただ今、君のお屋形の内で、親の仇工藤祐経を討ってまかり出た」

俄かに宿所がざわめき始めた。人々が声々に「弓よ」「矢よ」「太刀よ」「刀よ」「甲は」「腹巻は」「「それはないか」「なになには見ないか」と騒ぎ始めた。山も麓も谷も峰も大地震のごとくであった。こうした中で、畠山と和田の宿では「曽我の兄弟がかねてよりの宿願である仇討ちを果たしたのであろう。頼朝様の一大事ではありますまい。騒ぐことではござらぬ」と、家来の騒ぎを鎮めていた。兄弟の元へ愛甲三郎が押し寄せた。五郎が打つ太刀に右の肩を切られて引き退く、次に駿河の国の岡部五郎が走り向かう。十郎と対決しようと、太刀の柄を取り直して打ち合おうとしたところを、左手の指二本を落とされて一太刀打たずに引き退く。次に遠見の国の原三郎が押し寄せた。五郎が左のあばら骨二本から腰の骨まで切りつける。次は御所の黒弥五が走り向かう。十郎が切って出て、後ろの首を鬢と共に切られ逃げた。入れ替わりに、信濃の国の海野小太郎行氏が十郎と打ち合った。ここに伊勢の国の加藤太郎は海野に劣るまいと進んだので、十郎も二人の敵と打ち合うところに五郎が右の脇からさっと出て、刀を加えて打ったので、加藤太郎は乳の間を切られて退き、海野小太郎は、肩甲骨を切られて逃げた。次に駿河の国の船超党吉香小次郎が走り向かう。五郎が肘を切る。次に鎮西の宇田五郎が押し寄せて、十郎に打ち向かう。十郎が力を出してからりと打つと、宇田の太刀の鎬を深く削って、流れるたちで宇田は右の二の腕を切られて引き退く。次に同国の臼杵八郎が押し寄せて五郎と打ち合った。臼杵が太刀を地面に強く打ち込んだのを抜かせる間もなく躍りかかり、首を打ち落とした。この時の戦いは後の世で『曽我の十番切り』と伝えられた。

誰も兄弟に太刀打ちできなかった。

兄弟が額に太刀を当てて構えて走り回る姿は、鷹などが鶉や雲雀を追い立てる時の様子に似ていた。次から次に切りかかってくる敵に兄弟は息をつく暇もなかった。

真っ暗な激しい雨の中、向かってくればさっと打ち、かかってくればふっと切っていくうちに数も分からないほど切った。

「あまりにも暗くて敵も味方も区別がつかない。松明に火をつけてなげだせ」と叫ぶ者がいる。

これを聞いて、松明を一本、御厩舎人の時武が投げ出した。これに倣い、屋形のあちこちから競うように松明が投げ出された。松明を持ち合わせていないものは蓑や笠に火をつけて投げだした。今や火の明るさは太陽がくまなく照らすよりもさらに明るかった。

松明の火を頼りに用樹三郎が押し寄せ、五郎に右の肩を切られた。次に市川別当次郎が「なぜ、頼朝様のお屋形で、このような狼藉を果たしているのだ。名を名乗れ」というので

「曽我の兄弟が親の仇を討っておる。仇を討つときはご陣内も構わないのが前例だ。晴れの戦は初めてか。良く良く見習え」

「曽我の兄弟が仇討ちにかこつけて、頼朝様を討ちに参ったか」

「何故そのような是も非もないことを。我等兄弟幼き折に父を殺され、工藤祐経を討つことだけを祈願し育ってまいった。ほかに邪念はあるものか」

「我等が本懐をなんと心得る。このうつけがあ」と、五郎が躍りかかって、左右の腿を切り下げた。

そこで伊豆の国の新田四郎忠経が「殿方達よ、何故そのようにみっともない戦いをしている。敵が二人ならば、一人ずつ引き離し、大勢で囲み、前後から太刀をそろえて打てばよい」と呼びかけた。皆、それに習い、兄弟を引き離すように、一人一人を大勢で囲んだ。

新田四郎が進み出て「十郎殿、同じ親族として言う。みっともない死に方をするな」

「言うまでもない。夜も更けたのに、今だに戦いがいのある相手に会っておりませぬ。そなたと戦いたいと思っていた。同じ一門の四郎殿の手にかかろう」

二人は燃え上がるほど、激しく戦った。十郎の太刀は少し長かったので、躍りかかって打つと、新田四郎の鬢を切り、右の肘を切った。四郎は全く動ぜず、互いに互角の勝負をしていた。しかし、新田四郎は今、出てきたばかり、十郎は宵より多くの敵に打ち合い、身も疲れ力も弱っていた。そのうえ、赤銅作りの太刀の柄は血で汚れ、ひどく滑ったので、一瞬退いた。その隙に四郎が打ち込んできたので十郎は「もはや、これまで」と四郎に組みかかろうとした。

そこへ、先ほど、わき腹を切られ、木陰に逃げていた原三郎が近寄り、十郎の右の肘を強く刺した。十郎の太刀が乱れたところを、新田四郎が左の肩先より右の胸へ切りつけた。

「五郎は、どこだ。五郎はいないか。兄は新田四郎の手にかかり討たれた。まだ傷を負っていないのなら、頼朝殿の御前に参じ、この狼藉、ただの狼藉ではない。父の無念を晴らすための曽我の兄弟の長年の企て。殿の世を乱そうとしたものではない。母や曽我の父は預かり知らぬことと、拝謁を賜れ」

すると、一条の光が十郎を包んだ。そして、語りかけた。

「十郎よ、お念仏を唱えるのです。今、永遠さんもあなたを思い、一心不乱に念仏を唱えています。繋がるのです。そして来世こそ、伴にいきるのです」

十郎には長い時間に感じられたが、実際には時は動いていなかった。

「南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏」と、十遍念仏を唱えると十郎は頭を西に向けて大きな音を立てて倒れ、息絶えた。

「兄上、兄上。ええい、どけー。兄上―」

五郎は一目、兄を見たいと思ったが、侍たちの垣根に阻まれ、兄の死に目を見ることはできなかった。侍たちは五郎の行く手を塞ぎながらも、誰も立ち向かうことはできなかった。

五郎が太刀を真甲に充て、四方を見回し立ちたる様は、古の漢の高祖、はんかいのようでもあり、鬼のようでもあった。

そこへ白い大口袴の腿立ちを取って挟み、棟鍔の太刀を担ぎ、腿寄を銀で覆った太刀の鞘を前下がりに腰に帯びた、堀藤次が立ちはだかった。打ち合うと見せかけ、耳元で囁いた。

「お気持ちお察しいたします。ですが、残念ながら十郎殿はもうこと切れております。

十郎殿の最後の望みは、頼朝様へのお目通りでございます。

私が逃げるふりをして、頼朝様のご寝所までご案内いたします。どうか、追って来てください」

五郎は驚いて藤次を見つめた。「さあ」と囁くと藤次が駆けだした。

慌てて五郎はその後を追った。

五郎丸という童がいた。比叡山に奉公し、十六歳で仇を討ち、怪力で、優れた馬乗りであったので、頼朝に気に入られ仕えていた。その五郎丸がお屋形の入り口で敵の様子を伺いつつ、女の姿をまねて立っていた。

すると、五郎に追われた堀藤次が逃げ込んできた。藤次を追った五郎もそこへ入ってきた。五郎丸は女の格好だったので、気を配らず中に入ろうとしたところ、その女が肘を取って「えいやっ」と抱き着いてきた。五郎丸はそのまま自分の体に引っ掛けて倒そうとしたが、五郎はびくともしない。五郎はそのまま、五郎丸を引きずって二間、三間歩いた。かなわないと思った五郎丸は「敵を捕まえたぞ。えいや。えいや」と叫んだので、五郎は刀で切り落とそうとした。ところが、この時が五郎の運の尽きだった。血のりがべったりと付いた刀は、走っている間に手から滑り落ちていた。

腰の短刀を取ろうと思ったが、腰の短刀は先ほど亀若に渡してしまっていた。そこへ相模の国の加この太郎が『逃がすな、ものども』とやって来た。藤次がしまったと思った時、御厩の小平次が「討つな、討つな。取り押さえろ。取り押さえて、御前に引き出」と叫んだので、大勢が五郎の手を取り、足を取り、髻を取って庭へ引きずりだし、その場で討たれることはなかった。

(あのまま、切りあっていたら、この場で五郎殿は討たれていたであろう。何故か知らぬが腰の刀が無かったことが、幸いしたな。これで、明朝には、頼朝様にお目通りできるであろう)と、藤次はほっとした。

御厩の小平治が頼朝の御前に参上して、

「頼朝様、夜討ちは、曽我の兄弟でございました。十郎は討たれ、五郎は搦め取られました。」と、申し上げた。

五郎は小平治の下僕の国光に預けられた。そして御厩の柱に縛りつけられて監視をされた。



夜が明けると五郎は尋問のため頼朝の御前に引き出された。縄に縛られ歩かされる五郎の姿を見て、小川小平次が「なぜ侍の身分の者に縄を付けられているのですか。山賊や海賊ではないのです」と言うと、五郎は微笑んだ。「ありがとうございます。同じ一族への優しいお心遣いと存じますが、人が聞いたら仲間だと思われかねません。そなたが進言なさっても、この縄が解かれることはありますまい。黙っていることが肝要です。なあに、少しも苦しいことはありません。父のためにつけられた縄ならば孝養、報恩の縄と言えましょう」

中庭に引き入れられたところでも新開荒次郎が「お願い申し上げます。せめて縄を解いていただけませんか」と訴えた。「荒次郎殿、そなたとこの五郎が縁者であることは、周知のこと。そんなことを言えばそなたに迷惑がかかるかもしれない。何もおっしゃるな。この縄は名誉ある縄でございます。賊を捉える縄とは意味合いが違います。七歳の秋からずっと狙い続けた仇、工藤祐経をついに討って、結果つけられた縄であれば、まったく恥ずかしいとは思っておりません」

荒次郎は納得し、頼朝に取り継ごうとした。

「お取り継ぎはご無用です。直接、頼朝様とお話をさせて下さい」下座に居た狩野介はすぐに下がったが、荒次郎はなおも心配げに動けないでいた。

「おおい、そこをどけい。頼朝様に物を申そおとしておるに、お主がそこにいては荒次郎殿に話しているようではないか」

荒次郎は慌てて横へ下がった。五郎は「これで気兼ねがない」と高笑いして、少しの見苦しさも見せず控えた。

「このことは長年考えていたことか。それとも今、急に思いついたことか」と頼朝が尋ねた。

「馬鹿げた質問をなさいます。十郎が七歳、私が五歳の時から今日まで、常に考えていたことでございます。先年、頼朝様が御上洛なさった時も、身を隠しお供をし、夜は宿の隙を、昼は機会を狙いました。京の街中にお入りになっても、少しの隙もありませんでした。そこで四辻町にて切れ味の良い太刀を買い求め、ずっと身から離さず持っておりました。仇討ちのことだけを思い続け」京に上がったことは真ではなかった。箱根の別当様から頂いた刀の出所が露見しないように、京で買ったとついた嘘である

。「その甲斐あって、昨夜ついに本懐を遂げることができました。互いに目を見合わせ、言葉を交わし、打ち合いたかったものを、手向かい一つせず討たれたことは誠に残念でございました。ただし、本願叶いました上は一寸の首を千に切られましても、全く恨みはございません」

「祐経が、伊豆より鎌倉へ通うことは、月に四度、五度、十度もあっただろうが何故今まで討つことがなかったのか」

「はい。おっしゃる通りです。この五、六年の間、足柄、箱根。酒匂、国府津、大磯、小磯、平塚、由比、小坪の辺りで、昼夜の区別なく狙い続けておりました。祐経を見かけることは多くありました。しかしながら、祐経の周りには常に五十騎から百騎の共に囲まれ、こちらは多くて二人、気持ちは猛々しく燃えておりましても、手出しはできませんでした。中途半端に仕損じては、却って仇討ちが難しくなるかと。

信濃の浅間山の麓、長倉、三原、離山、上野の伊香保、赤城、下野の那須に至るまで、狩りの際もあちらこちら付け回しました。それでも、つけ入る隙はなくかくなる上は、今宵打ち損じますれば、その場で自害し、悪霊となり祐経を呪い殺す覚悟で居りました」

「お前は、このことを、誰かに話したか。味方はだれだ。正直に申せ」

「我々ほどの貧乏なものに誰が味方してくれるのでしょう。父違いの兄、小次郎には申しましたが、頼朝様を恐れ、相手にされませんでした。また、従弟の三浦与一に申しました折には、頻りに制しましたので、「冗談だ。」と言ってその場を収めました。

このように、親しい者たちでさえ、頼朝様の御威光の前では、手を貸してくれようというものはおりませんでした。そのようなことを申せば、手を出して縛られ、首を出してこれを切れと、言っているも同然」

「母には知らせたか」

「これほど、平穏でなかった昔でも、謀反をおこして仇討ちに出る息子を許す母親がおりましたでしょうか。山野の獣、川の魚でさえ、子を思う母の愛は深いものです。母に別れは告げとうございました。二十年物間育ててくれたお礼も言えず旅立つことは、心苦しくありました」

今まで声高々に話していた五郎の言葉が、母のことを話す時には、かすれ、時々嗚咽交じりになった姿は哀れであった。

そこへ新田四郎忠経が、十郎が最後に着ていた群れ千鳥の直垂と赤銅作りの太刀を持ってきた。

「あれは、十郎の衣装に相違ないか」

五郎はしばらく何も言えなかった。少しして、かすかな声で「はい」とだけ答えた。


「祐経は討たれても仕方ない仇であるゆえ、あれこれ言うには及ぶまい。

して何故、この頼朝の元へ来ようとしたのだ。そもそも、このわしに恨みがあったのではないか」

「勿論、恨みはございます。祖父の伊藤入道は頼朝様のお怒りをこうむり誅殺されました。そのうえ仇の祐経を大名として取り立て、伊東の領地をすべて祐経の物になさいました。

また、兄、十郎の最後の言葉に、『御前近くに上って、見参するべし」と、ありましたので、それならば、おそば近くへ上り、その名を汚さんと参上しようと考えました。そこで、運が尽きましたのか、甲斐なく召し取られた次第です』

「皆の者聞いたか。彼こそ男の中の男だ。わしのことを本来申すほど恨んではおらんだろう。ただ、この状況でおもねるようなことを言うと、命乞いしているようで見苦しいゆえ、このように言うのであろう。どんな立派な侍でも、敵に捕らえられては、こびへつらうものであるものを。この者の潔さ、手本とするべきぞ」

「ははー。」皆がもっともだと感心した。

祐経の嫡子、九歳の犬房が五郎の目に止まった。

「犬房よ、この五郎を打つがよい。父を殺され、悔しかろう。憎かろう」

犬房は進み出て、手に持っていた扇で五郎を打った。

「俺も同じだった。おぬしの気持ちはよくわかる。そんな扇で打ってもいたくも痒くもない。そこに落ちている松の枝で思いっきり打つがよい」

犬房は枝を拾い、力の限り打ち続け、五郎の額は割れ、血が流れた。

「犬房、下がれ」頼朝に言われ、犬房は泣きながら下がった。

頼朝は、この曽我五郎を許し、召し抱えたいと考えた。(臆病な者千人より、このもの一人を近くにおきたい。しかし、謀反にも思えるこのことを簡単に許してしまってよいのか。五郎の申すことは道理がある。所業にも同じくもっともなわけがある。五郎を許し、召し抱えたいが、仇を討つものは気に入られると、前例になってしまい、狼藉がたえなくなるであろう。ようやく静かになって来た世の中を乱すことになってしまいかねない。いかにしたものか)

そこへ岡崎、和田、北条といった家臣が五郎の助命嘆願を申し出た。頼朝は内心安堵し、

「鎌倉まで曽我五郎を引き立ててゆき、その後、処分を決めることにする」と述べた。


「頼朝様、今回の仇討ち、元は祖父、祐親の心無い所業により起きた一族の争いでございます。それを承知で仇討ちを致しましたのは、武士たる者、親を殺され、仇を討つのが当然であるからです。今ここで、私を許してしまっては、この犬房が仇持ちになってしまいます。仇持ちは辛うございます。犬房にそんな宿命を負わせてはなりません。五郎は許さず、処刑なさるべき。呪われた伊東一族の争いを終わりにされよ」

「そこまでの覚悟でおるのか。ますます天晴であるが、ならば致し方ない。お前のことを死罪にするが、恨むなよ」

「当然です。死罪になったとて、恨むということは全くございません。却って、兄と同じ時に同じ場所でと約束しておりましたものを、私だけ少しの間、永らえてしまったことこそお恨み申します」

「母上には気の毒だが、慈悲をかけるので心配いらぬ」

「母のことも、思いを断ち切って曽我を出立しておりますゆえ、ご案じなさいますな。ただ、母は今回のこと、全く関与しておりませんこと。よろしくお願いいたします。さあ、早くこの首をお切りなさい」


そうして五郎は、鷹が岡で処刑されることになった。

五郎の身柄は犬房に渡され、その郎党 平四郎に首を切る命が下った。しかし、平四郎は六歳まで一緒に育った中なので「私にはできません」と断った。そこへ筑紫野中太という御家人が名乗り出た。この忠太、国本で領地を巡りいざこざを起こしていた。元々横車を押しての訴えで、だいぶ分が悪かったが、祐経も同じ穴の貉。色々の付け届けなどをして、いよいよお墨付きをいただけるとのことで伊豆へ向かうところであった。その道中、今回の騒ぎを聞き慌てて飛んできたのである。肝心の祐経が殺されては、今までの画策が水の泡である。憤懣やるかたなく処刑の役目を買って出たのである。

五郎はその時辞世の句を読んだ。

故郷に母あり、仲夏の涙、冥途に友なし、中有の魂

富士の嶺の梢も淋し故郷の柞の紅葉いかが嘆かん

(故郷に残した母を思って、真夏に汗ではなく涙を流している。あの世には友はいず、一人さまよう我がたましい。)

(富士山に生える木の梢の枯れ落ちる葉のような子供の私も淋しいが、故郷では(ぶな)の木も紅葉しているだろうに、母上はどれほど嘆くことであろう。)

五郎が句を読んでいる間に、忠太は悪巧みをしていた。いよいよ処刑という時、五郎をよく知る者たちは、五郎の真面目だが人懐こいおおらかな人柄と、そのおおらかさとは裏腹な悲しい運命(さだめ)に涙を流し、念仏を唱え始めた。五郎をよく知らない者たちも、昨日からの頼朝とのやり取りに感銘し、同じように念仏を唱え始め、五郎の成仏を願う念仏は大合唱になった。

「えいっ」という忠太の掛け声で首がスパッと落ちると、皆固唾を飲んだ。が、首は落ちなかった。なんと、この忠太、五郎が句を読んでいる間に、斬首するために渡された刀の刃を石に打ち付けボロボロにしておいたのだ。まるで切れないノコギリで引かれるように五郎の首は何度も何度も斬りつけられた。あまりの痛さにさすがの五郎も苦痛に顔を歪め、カッと目を見開き忠太を睨みつけた。睨まれ怯みながらも忠太はほくそ笑み 次の太刀を入れようとしたそこへ、一人の影が躍り出た。亀若である。一部始終を見ることは大変辛く目をつぶって逃げて帰りたかった。でも、自分でお膳立てをした事の顛末を見届ける責任があると思い、物陰に隠れ息を潜めて全てを見ていた。今ここで飛び出しては曲者として一刀両断されるかもしれない、または手引きをしたものとして処刑されるかもしれない。でも五郎の苦しそうな姿を黙って見ているわけにはいかなかった。突然現れた一人の女に皆、注目した。女は抱きしめた短刀の赤木の鞘をさっと捨てると、五郎の胸に突き刺した。背中からその細腕が、飛び出すのではないかと思われるほど、深く深く突き刺した。

「五郎様、お慕い申しておりました」最後の言葉が五郎に届いたかはわからない。それでも今まで苦痛にゆがんでいた顔には、優しい笑みが浮かんでいた。刀から手を離し、血だらけの手を拭いもせずふらふらと歩いて行く亀若を誰も止める者はいなかった。



亀若は大磯へ帰ってきた。何処をどう帰って来たのか、自分でも分からない。着物は着崩れ、髪は振り乱れ、草履が擦り切れた足からは血が滲んでいた。途中水だけは飲んでいたようだが、もう何日も食べものを口にしていなかった。本能だけで大磯まで帰ってきた。通りをふらふらと歩いて来る亀若を見つけたのは、高麗神社から戻った永遠だった。

「亀若ちゃん。どうしたの」

永遠の腕の中に倒れこみながら、今まで無表情だった顔が崩れた。乾ききった頬に涙が溢れた。「五郎様を、五郎様を、私、五郎様を殺してしまった」

「え、どういうこと」

亀若はそのまま気を失ってしまった。十郎の仇討ちは成就したのか。十郎は、五郎はどうなったのか。何もわからないまま、永遠は鎌倉からの呼び出しで連行された。

由比ガ浜の御白洲で、永遠は二人の思いが遂げられたことを知った。そして愛する十郎がすでにこの世にいないことも。十郎の恋人ということで、関与を疑われた永遠であったが、何も知らなかったということで無罪放免された。

大磯に戻ってきた永遠に亀若は全てを話した。

「ごめんね。ごめんね。永遠ちゃん」

「どうして謝るの」

「だって、だって」

「悪いことをしたと思っているの?」

「自分のしたことは、間違っていなかったと思う。でも、私が何もしなかったら、あの二人はまだ生きてここにいたかもしれない。永遠ちゃんに笑いかけていたかもしれない」

「間違えてないと思うならそれでいいんだよ。あの二人は今度首尾よく事を終わらせることが出来なかったら、自害して悪霊となり、祐経殿に取り付く覚悟だったのよ。そんなことをしたって本当に悪霊になんかなれるかどうかわからない。ましてや取り付いて殺すなんて。そんなことができるなら、お父様の祐泰様や、お爺様の祐親様が、とっくにしている。亀若ちゃんのおかげで、二人は本望を遂げることが出来た。幼い時から、仇を討つという決意は揺らぎがなかった。どんなに私が望んでも、その気持ちは変わらなった。私と十郎様は生まれ変わったら、次の時代に必ず添い遂げようと約束したの。悪霊なんかになられてしまったら、その約束が果たせないじゃない」

「永遠ちゃん、私を恨んで良いよ。私は永遠ちゃんが望むなら命を絶っても良いと思っている」

「恨むなんかあるわけない。あの二人は一族の怨恨を断ち切るために恩赦を願いでず、その場で打たれることを選んだのでしょう?ここで新たな恨みを生むわけにはいかないわ。第一、恨む必要がないでしょ。恨むどころか亀若ちゃん、私は感謝しているわ。私は、ことが終わった後、二人を恩赦してもらうために、あちらこちらへ働きかけていたの。でも、それは十郎様と五郎様が望んだことではなかったかもしれない。私たちは、それぞれ二人のために自分にできる限りのことをしたと思う。亀若ちゃんはすごく頑張って二人を手助けした。尊敬するよ。亀若ちゃんだって悲しかったでしょ?どうしていいかわからないくらい辛らかったでしょ?なのに、なのに・・・亀若ちゃん偉かったね。本当に、本当にお疲れ様」

「永遠ちゃん、本当にそう思ってくれるの?」

「思うよ。すごく頑張ったね」

「ありがとう永遠ちゃん。私ね、無我夢中で二人を手助けしてしまったけれども、永遠ちゃんに恨まれることが、すごく怖かった。永遠ちゃんが恨んでいないと分かった今、すごく悲しい。やっと、悲しみだけに身をゆだねられる」

「そうだね。悲しいよね。私もすごく悲しいよ。私ずっとお念仏唱えていたの。その時にお題目が共鳴した気がする時があったの。十郎様亡くなる前にお題目唱えたのでしょう?その時だと思う。それからずっと私の魂は十郎様と一緒にいるような気がする。そばにいるから安心して泣いていいよって、言ってもらっている気がする」

永遠と亀若は夜が明けるまで泣き続けた。


曽我の里へ訃報が届いた。この知らせを悪夢と思いながらも母は形見の品を目の前に嘆いた。

「共にあの世へ参りたい。一緒に参ります。置いていかないで。十郎、五郎」と泣き叫んだ。そこへ頼朝の使者として、甲斐の国へ行っていた蘇我祐信が帰ってきた。子供たちからの二通の手紙を胸に抱き、読むこともできず泣き続ける妻を前に、おろおろと立ち尽くすばかりであった。その祐信にすがりつき、「これらの小袖は、最後に身につけておきたいと、欲しがったものを、私はすぐに返せと言ってしまった。なんと心無い。五郎の勘当も、最後と思うから十郎が強く許しを乞うたのに、全く気付かなかった。 すぐに戻ると言ったのに」と泣き狂った。「五郎、五郎、そこにいるのでしょう?」と辺りを見回しながら「本当の勘当ではないのですよ。あなたの祐経を憎む気持ちを、神仏に和らげてほしいと、権現様にお預けしたのです。それなのに勝手に元服して。私は悲しかったのです。怖かったのです。こうなってしまうことが。

あなた達の様子は二宮の姉さんから伺っていましたよ。早く勘当を解きたかったけれど、なかなかきっかけがなく。五郎、ごめんね。ごめんなさいね」母は兄弟の後を追おうとしたが、祐信が「そなたが兄弟の後を追うならば、私はそなたの後追いますぞ。それでも自害なさるとおっしゃるか」と言うので、母は何とかこの世にとどまった。

数日後、伊豆の国の小川三郎が、兄弟の首を持って曽我を訪ねた。二人が愛した花園で荼毘に付した。また、いとこである宇佐美禅師が二人の遺骸を火葬して曽我へ届けた。「子供たちが帰ってきたのに、こんな姿だなんて」と、母はますます悲しみに明け暮れた。

曽我祐信が頼朝に呼ばれ、鎌倉へ参上した。兄弟の養父としてどのようなお咎めがあるかと、恐る恐る参上した祐信に、頼朝は優しかった。

「五郎殿の最後は立派であった。もし早くに召し抱えることができたら、事態も変わっていたであろう。気遣ってやれなかったことが悔やまれる。十郎殿の最期も、見事であったと聞いておる。母親はどう暮らして居るか?」

「はい、母親は、半分死んだように気が抜けて惚けております。」

「母親の悲しみはさぞかしであろう。今から後、曽我の荘の年貢は免除する。兄弟の供養のために使うがよかろう」

とねぎらった。祐信は、妻にこのことを伝え、追善供養のために堂を建てることにした。供養に励むうちに嘆きも少し和らぐであろうと考えた。

ところが母の嘆きはこれだけではすまなかった。兄弟には、もう一人弟がいた。伊東の父が亡くなり、母が曽我へ輿入れするおり叔父の伊藤九郎の養子になった。今は国府に住む伊藤禅師である。「兄達は親の仇を討って、同じ場所で死んだのに、私も同じ兄弟であるのにどうして一緒に死ななかったのだろう。大恩教主釈迦牟尼様、兄達を助け、私もともに浄土へ往生させ給へ」と言って刀を自らの腹に突き立てた。

その頃兄弟と父を違える兄、小野庄治郎は由比の浜で他人の仇を討とうとして重傷を負って亡くなった。母はわずか百日の間に四人の子供を失ったのである。



歳月人を待たず。永遠がどんなに嘆いていても,月日は以前と変わらず過ぎていった。夏がいき、秋も深まろうとする頃、永遠は母親の万劫御前が箱根権現で兄弟の供養をなさると聞き、自分も共に供養したいと申し入れた。万劫御前はたいそう喜びんだ。亀若も一緒に行きたいと思ったが、五郎にとどめを刺したことが気にかかり、万劫御前に会うのが怖かった。詫びを入れなければとおもいつつ勇気が出なかった。また、最近は気鬱になり、臥せっていることが多くなっていた。もうしばらく大磯で休養するように菊鶴にも言われ、とりあえず永遠は虎御石だけを供に曽我へ赴いた。曽我へ着いた虎を、万劫御前は一つの部屋に通した。

「ここがあの子が暮らした部屋ですよ。掃除はしてありますが、あの日あの子たちが出て行ったままにしてあります」

「十郎様・・・」十郎が使っていた文机、硯、「ああ、ここで手紙を書いてくださっていたのね」部屋の掛け軸には、箱根の山が描かれていた。「この絵を見て、いつも『箱王は今頃何をしておいででしょう』と気にかけていました。何を見ても二人を思い出してしまう。いまにも『母上、只今戻りました。』と、そこの縁側から帰ってきそうな気がして」十郎の面影が溢れている部屋で、十郎に包まれているような気がしていた永遠であったが、万劫御前にそう言われて縁側の向こうに目をやると、草深くなってしまった小路、積もった落ち葉が、踏みつける人のいないことを思い出させた。涙にくれる永遠を万劫御前はそっと抱き寄せ「十郎が深く深く愛したお方。あなたに会いたかった。十郎を愛してくださってありがとう。あの子たちは仇討ちをするためだけに生きたのなら不憫でなりませんでした。あなたのおかげで十郎の人生にも楽しい時間があったのだと知れて嬉しく思いました。五郎にも良い人がいたら良かったのに。お兄ちゃんが大好きで、兄の後ばかりくっついて歩いていたものだから、楽しい思い出の一つもないままに逝ってしまった」

「お母様、五郎様にも心ひかれあうお方がおいででしたよ」

「そうなのですか。あの子も人並みに幸せな時間があったのですか。お聞かせください」

「はい。お相手は亀若さんといって、私と同じ店で働いています。私の大事な友だちです」

「ああ、その方にも是非お会いしたい」

「亀若さんも、お母様にお会いして、共に箱根権現での供養をしたいと望んでおります。ただ、訳がありまして、彼女はお母様にお会いする勇気がないと。申し開きのできないことをしたと言っております」

「私に申し訳のないこと?」

「そして、そのことで心を病んで、臥せっております」

「どういうことですか」

「お辛い話ですが・・・。お伝えしてよいものか」

「私はこの短期間に四人の子供を亡くしました。病で亡くしても悲しい物を、あの子たちは失わなくても良い命をむざむざと・・・。これ以上の悲しい悲しみはありますまい。どんな辛い話でも、十郎と五郎の話なら、全て聞きたいと存じます」

永遠は亀若から聞いた十郎と五郎の最後を万劫御前に、自身も泣きながら語った。

「・・・そうして、亀若さんは五郎様の胸に短刀を突き刺したそうです」

「おー、おー、五郎、五郎。痛かったね。可愛そうだったね。最後まで取り乱さないで、立派だったね。亀若さんのおかげですね。そんなに深く愛されてお前は幸せだったね」

暫くの沈黙のあと、万劫御前が尋ねた。

「亀若さんは、仇討ちを導き、五郎の最後の命を絶ったことで、私に会えないとおっしゃっているのね」

「そうです。私にも沢山謝っていました。自分が手引きをしなければお二人は仇討ちをしそんじて、まだこの世にいたかもしれないと」

「永遠さんはどうお考えですか」

「今回の巻き狩りに出立する際、十郎様はその御決心を私に打ち明けてくださいました。もし、仇討ちに失敗しても、お二人がこの世にとどまるとは思えません。亀若ちゃんのおかげで大願成就できて本当に良かったと思っております」

「そうですね」

「また、五郎様の最後については、苦しみの中で亡くなりましたら、五郎様の魂はどうなっていたでしょう。亀若さんに愛されながら亡くなった五郎様はきっと成仏できているとおもいます」

「私も同感です。この世の兄弟を助けたばかりか、魂までも救ってくださった。ありがたいと思います。それなのに、そのことで、この母に悪いことをしたと悔い、心を病んでおられるというのか。なんということでしょう。永遠殿、このまま二人で箱根に参るつもりでしたが、申し訳ありませんが、一度大磯のお戻り願えませんか。亀若さんに母の感謝を伝えてください。こちらで養生して、そして共に箱根に参りましょうと」


寝室で永遠は窓辺に虎御石を置いて、月を見上げた。

(今宵は中秋の名月なのね。涙だかすんでおぼろ月にしか見えないわ)

軒端に吹きくる風の音、雁の群れの羽ばたく音、枕元で弱弱しく鳴く螽斯(きりぎりす)、静かな夜のかすかな物音の全てが永遠の心を傷つけた。

(秋が過ぎ冬になったら私は雪や霜になって消えてしまいたい)


嘆きにはいかなる花の咲くやらん 身になりてこそ思ひ知らるれ

(嘆きという木にはどのような花が咲くのでしょう。実がなってから分かるように 我が身のことになって、その思いを知るのですね)


大磯に戻った永遠から万劫御前の言葉を聞いた亀若は、心に乗った大きな荷物がほどけていくように感じた。涙と共に気がかりが流れ、少しづつ元気になった。そして二人で曽我へ行くことにした。曽我から箱根に行き、権現様の元で濃い墨染の身になって仏道に入ろうと心に決めた永遠と亀若であった。しかし永遠は異変を感じていた。(元の時代へ帰る時が近いのかもしれない。突然消えるわけにはいかないわ。亀若ちゃんには全てを話そう。そして万劫御前様と菊鶴さん、夜叉王さんには、手紙を書いて亀若ちゃんに託そう)


「亀若ちゃん聞いてほしいことがあるの。私、実は・・・」

永遠は自分の身に起きたこの四年間のことを亀若に話した。

「では、永遠ちゃんは今から八百年未来からこの時代に来てしまったの?」

「信じてもらえないと思うけど」

「信じるよ。さすがに八百年先って、想像もできないけれど。私とは何か違う不思議な女の子だと思っていた。もしかしたら月から来たのかなあなんて考えていた。信じられないようなことでも永遠ちゃんが言えば全部本当だと思えた。だから信じるよ」

「信じてくれてありがとう。五歳の時に一度、十六歳の夏にもう一度、この時代に来たことがある。その時はとても短い時間だったけど、その二回とも十郎様に会っているの。そして三回目」

「たった一人で心細かったね」

「うん。でも、亀若ちゃんがいてくれたから心強かったよ。あのね、八百年先の世界でも、私と亀若ちゃんは親友なんだよ。和香ちゃんっていう女の子がいて、亀若ちゃんとそっくりなの」

「それで初めて会った時『わかちゃん』って呼んだのね」

「そう。その和香ちゃんの口癖が『永遠ちゃんと私は永遠の友達。永遠だけに』なの。それと同じことを亀若ちゃんも言ったから、すごくほっとした」

「そうだったの。十郎様が亡くなった今、永遠ちゃんは帰りたいよね。帰り方はわからないの?」

「わからない。ただ、私がこちらへ来るとき三回ともこの黒い石に連れてこられたけど、この頃その黒い石に触れると元いた時代の景色が目に浮かぶの。もしかしたら未来に戻るのかもしれない。十郎様と生きたこの時代にずっと居たい気持ちもある。このままこちらにいて十郎様の菩提を弔いたいとも思っている。けれど帰りたい気持ちも正直ある」

「ずっと一緒にいたいけど、帰れるなら帰った方が良い」

「私の勝手に行ったり来たりはできないから、どうなるか分からないけど、もし私が急にいなくなったら戻ったと思ってほしい」

「わかったわ」

「それでね、もし私が元の時代に帰ってしまったら、その後、曽我のお母様を支えてあげてほしいの。勝手なお願いしてごめんね。そしてこの手紙をお母様と菊鶴さん、夜叉王さんに渡してほしい」

「分かった。私は永遠ちゃんがいなくなってしまってもお母様と出家するつもりだよ。例え違う時代に分かれても、私たちは永遠の友だちだよ」

「亀若ちゃん、ありがとう。もし私は戻っても二人に冥福を祈り続ける」


それから何日かの間は、特になんということもなく過ぎた。出家するにしても元の時代に戻るにしても、その前に十郎からもらった沢山の手紙を燃やすことに決めた。寺にも未来にも手紙を持っていくことは出来ない。愛する人の一言一句を忘れることなどない。却って手紙を燃やすことで、十郎の思いをすべて自分の物にできると思った。

平塚の白藤稲荷の境内で永遠は亀若と一緒に、手紙を燃やした。一通一通日に火にくべる度、自分の体も消えていくように感じた。固くなっていた気持ちがほぐれて少しずつ煙とともに十郎のもとへ行けるような気がした。白い煙が空へ上っていく。(この煙の行きつく先に十郎様はいらっしゃるのだろうか。極楽浄土は西の空の向こうにあるという。)永遠はそう思って、西の空を見上げた。最後の手紙を火の中にくべた時、手紙を燃やす煙の中に十郎の姿が見えた気がした。急いで後を追おうとしたが、追いつけずもがいているところ黒い石が現れ、永遠をのせて消えた。取り残された亀若は、遠ざかる永遠と、見るみる姿を変えて白い藤の花になっていく煙を呆然と見ていた。


この後、亀若は一人曽我へ旅たち、万劫御前と共に箱根権現で出家をした。亀若が兄弟のためにした供養の数々が虎女伝説として今も語り継がれている。


下界で手紙を燃やしている永遠の姿を黄泉の国へ行こうとしている十郎が見ていた。真の闇の中そこだけが炎に照らされ輝いていた。煙に導かれるように進んでいくと、急に明るい所へ出た。



令和元年(2019年) 初夏 平塚


永遠は花の香りに花をくすぐられ、目が覚めた。真っ白い部屋に寝かされていた。枕元の花瓶には藤の花が生けられていた。ここは病院のようだ。ベッドから夕焼けに赤く染まる高麗山が見えた。(テレビ塔が見える。ということはここは平塚市民病院かな。それにしても、丸いアンテナをいっぱい付けられてしまって、テレビ塔はイカのゲソみたいになっちゃったな。

あれっ、私どうしたんだっけ・・・。あーそうか、高麗神社のお祭りで足を滑らせて、落ちたんだ。

・・・なんか、長い夢を見ていた気がする。すごく悲しいけれど、すごく素敵な恋をしたような気がする。)

お医者さんと話していた母親が病室に戻ってきた。

「永遠―、お医者さんに言われちゃった。どこも悪くないって。それは良かったんだけど、目が覚めないけれど、治療の必要がないから、ほかの病院に移らないといけないって」

「そうなの?」

「うん。だから、早く目を覚ましてちょうだい。お願い・・・、えっ?!」

「おはよう」

「永遠、目を覚ましたの?」

母は慌てて「永遠が「おはよう」って言ってます」と分かるような分からないようなナースコールをした。

「おはようじゃないよ。もう夕方だよ。永遠―。良かった。夕方でもおはようでもなんでもよいよ。良かった。良かった。あなた、十日も寝ていたのよ」

診察の結果、やはり悪いところはどこもなく、二、三日様子をみて、栄養を取って、何もなければ家に帰れることになった。

翌日、和香ちゃんが見舞いに来た。

「良かった。永遠ちゃん、心配したよ。元気そうだね。あれ?これ、なあに?」

枕元におはぎのような黒い石が置いてあった。

「あっ、これは」

(やっぱり、夢なんかじゃなった。私は鎌倉時代に居たんだ。十郎様と本当に愛し合っていたんだ。)

ぽろぽろと涙が溢れだした。

永遠は今までの四年間のことを和香に喋りだした。涙と嗚咽交じりで。

途中、お医者さんが鎮静剤を討とうとしたけれど、和香が「全部話させてあげて欲しい、私が永遠ちゃんの話しを全部受け止める」と、お医者さんを説得した。そして永遠はすべてを話し終えた時、石はスーと消えていった。

和香は翌日はお見舞いに来なかったが、翌々日、重そうな本を何冊も抱えてやってきた。

「あったよー。永遠ちゃんの言っていたのと同じ話が載っている本。永遠ちゃんの不思議な体験は夢を見たってこともあると思うけど、私はタイムスリップ説を断然支持する。私ね、思い出したの。永遠ちゃんが落ちた時、崖の下に倒れている永遠ちゃんと、黒い何かに乗って飛んでいく永遠ちゃんを同時に見たの。でね、この曽我物語に出てくる「虎女さん」というのが永遠ちゃんのことだと思うんだけど」

「曽我物語?」

「うん。それで図書館で色々調べてきたの。昔の文章だから、そのままのは全然読めなくて。もっと、古文の授業ちゃんと聞いておけばよかった。こちらの本は、現代語になっていて解説もあるから、比較的読みやすかったよ」

「ありがとう。和香ちゃん、こんなに沢山。」

「図書館の司書の岩尾先生が、永遠ちゃんのお見舞いなら、また貸しにならないようにって、永遠ちゃんの名前で貸し出ししてくれた」

永遠はそれらの本を手に取った。不思議なことに昔の書物もすらすらと読むことができた。そこには自分と十郎のことが書かれていた。







令和四年(2022年) 平塚


三年の月日がたった。二人は、平塚の白藤稲荷に来ていた。

「今年も、藤の花が咲いたね。すごい良い匂い」

白藤稲荷は今は小さな祠と、畳二畳ほどの藤棚のこじんまりとした社になっている。通りに「虎女の文塚」の看板はあるが、気付く人も少ない。それでも、毎年五月になると白い藤が咲く。大ぶりな花びらで、香り高い。

「永遠ちゃん、藤の花って色々花言葉があって、白藤は「なつかしい思い出」という花言葉もあるんだって」

「なつかしい思い出か」

「言い伝えでは、十郎様への思いを断ち切るために、ここで十郎様に頂いた手紙を燃やして。その煙が白藤になったってなっているよね。戻る途中にこの白藤の良い香りに包まれたけれど、白藤が咲いたのかな?私は咲いたところは見ていないんだ」

「ねえ、前にここで一緒に何か燃やしたことあったっけ?」

「ないよ。ここで手紙を燃やしたのは私と、鎌倉時代の友だちの亀若ちゃん。何回も和香ちゃんに話を聞いてもらったから、一緒にいたような気になってしまったんじゃない?」

「そうだよね。・・・一緒に手紙を燃やして、永遠ちゃんが石に乗って消えて行って、その後、煙が見る見るうちに白藤に変わって、むせかえるほどの香りがして。その後も白い大きな藤の花が次々と咲いたの。あれ、おかしいな」

「和香ちゃん・・・」

「永遠ちゃんの言う通り気のせいだよね」

「煙が白藤に変わるところを見た気がするの?もしかして和香ちゃん・・・。いやいや、そんなことあるはずないよね」

「あるはずないことが、いろいろあったからね。どうなんだろうね。何がおきても不思議ではない気がする。いやー、ないない。で、 永遠ちゃんは、卒業したら本当に出家するの?」

「うん。大学院に進んで、曽我物語の研究は続けていくけど」

「もう、十郎様のことは忘れて、別の生き方をしても良いとおもうよ」

「そうだね。そういう生き方もあると思う。でも、私はそうしたいの」

「そうか」

「この藤の花、八百年前の木なのかな。本当に良い匂い」

「ありがたいね。八百年も昔の塚を今もこうして残してくれているなんて」

「ほんと。維持してくれている人に感謝だね」

永遠は目をつぶって、胸いっぱいに、花の香りを吸い込んだ。そして祠に手を合わせた。

「私。永遠は卒業後、十郎様と五郎様のために出家したいと思います。どうか見守ってください」

「その、出家、少し待っていただけませんか」男の人の声がした。

驚いて振りむいた永遠の前にいたのは、なんと五郎にそっくりの青年だった。

驚いた永遠であったが、もっと驚いたのは和香が隣で大粒の涙を流しながら、「ごめんなさい。ごめんなさい」と震えていたからだ。

「ど、どうしたの?和香ちゃん」

「私、私、あなたを短刀でさしてしまった。ごめんなさい」

逃げ出そうとする和香の腕を五郎のがっしりとした手が掴んだ。

「待って、亀若さん。逃げないで」

「だって、だって。どんなに謝っても許されないことを、私してしまったんだもの」

「謝る必要なんてないんです。私はあの時、あまりにも痛くて苦しくて、筑紫野中太を恨み、鬼になるところでした。

でも、亀若さんの温かい手が私の胸に届き、慕っていたと言ってくれました。すんでのところで私は鬼にならずに済みました。安らかに旅立てたのです。ありがとう」

「実は私、もしかしたら亀若の生まれ変わりかもしれないと思う時がありました。でも、絶対に思い出したくない何かに怯えて、心と記憶に蓋をしてきました。でも今、五郎様のお顔を見て、すべて思い出しました。怖かった。::怖かった」

吾郎は震える和歌をそっと抱きしめた。

その時、「永遠さん、やっと会えました」と懐かしい声が聞こえた。

振り向いた永遠の目の前に、会いたくて会いたくて仕方がなかった十郎がいた。

「十郎様…」

「約束を果たしに参りました。生まれ変わったら、その時は添い遂げようと誓い合いましたよね」

「でも、どうやって、ここへ…」

「私はなかなか成仏できず、さまよっていました。すると暗闇の中で、あなたが手紙を燃やしているのが見えました。あなたの元へ行こうとしましたが、思うように進めず、手紙を燃やす煙に導かれるように歩いていきました。すると、急に明るいところに出て、そしてこの時代に産まれたのです。前世の記憶が蘇ったのはつい最近のことです。

初めは信じられませんでしたが、五郎も同じ体験をしていたので、本当のことだと思えました。五郎とはこの時代でも兄弟です。それからずっと、永遠さんに会うためにはどうしたらよいかばかりを考えていました。

でも今日、ここに来れば、会えるはずだと思えました。感じられたといったほうが合っているかな」

「嬉しい。

ずっと考えていたんです。どうして、あの時代に連れて行かれたのかを。十郎様への思いが深い分だけ、別れはとても辛かった。巡り合わなければ、こんなに苦しまないで済んだのにと、虎御石を恨めしく思ったりもしました。それがこんなに幸せな時に続いているなんて」

湘南の風が勢いよく吹き、白藤の花びらを新緑の高麗山の向こうに運んでいった。空には虎御石のような形をした白い雲が浮かんでいた。

「虎御石は、今でも私たちを見守ってくれているようですね」

「ありがと~」

四人はその雲に向かって大きく手を振った。雲は形を変え、笑顔のようになった。

                                                                               

                                            完



参考文献  小学館新編日本古典文学全集53曾我物語


我が家から程近い国道沿いに今どき珍しい茅葺き屋根の民家がひっそりと建っていた。


商業施設に利用されるでもなく、主のいないその家は、そこだけ時が止まったようだった。何のあざとさ もなくただ立っている その家が好きだった。


そこへある日突然、黄色いブルドーザーがやって来た。 その 茅葺き屋根の小さな家は一瞬で潰された。抗う術もなく。僅かな砂煙りは、せめてもの抵抗か。


取り壊されたいきさつは分からない。茅葺き屋根の家を維持することは大変だろう。でも、やっぱり寂しい。わたしの中で、そこにあるべきものが消えてしまったことが悲しかった。私には何の縁もゆかりもない家屋。抗う術が無いのは、その家も私も同じだ。


私は他にもこの町に好きな場所がある 。曽我物語に出てくる 曽我十郎の恋人 虎女さんの生家や 虎女さんが恋文を燃やしたといわれている 文塚がそれだ 。そこで いにしえの悲恋に思いをはせる。八百年もの昔、はかなく散った恋。


しかし、地元の人にも、この史跡のことはあまり知られておらず訪ねる人も少ない。


そこにもいつか、いきなり黄色いブルドーザーがやってくるのだろうか?その時も私に抗う術はないのだろうか?本当に?何か出来ることはないか?


何でもいい 。やってみよう。まずはその場所のことを人々に知ってもらおう。


「吾妻鏡」などによって伝えられる曽我物語と各地に散らばる曽我兄弟の伝説を読みやすく、分かりやすい小説に著してみるのはどうだろうか。私の話を読んでくれた人が、私と同じように、この場所で昔の恋に思いを寄せてくるかもしれない。


虎女さんの史跡が、今に、そして未来に伝えようとしていることは何だろう。そんな思いを誰かと共有したくて、「いかなる花の咲くやらん」という題名の小説を書き始めた。いつかそこに多くの人々が訪れることを夢みて。

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