第2話 記憶の旅
それから私は2ヶ月程入院生活を送り、リハビリを行う事となった。
その間、彼女は毎日顔を出してくれた。
「着替えここに入れておくね。他に何か欲しいものある?」
「……大丈夫、ありがとう。」
「そっか。何かあったら言ってね。」
彼女は少し寂しそうに笑う。
「お兄さんは元気?」
「え?」
「この前、すごく怒らせてしまったから。」
「気にしないで!と言うより、この間はごめんね。」
「……うん。」
「そうだ!りんご持ってきたから一緒に食べよう!」
彼女は慣れた手つきでりんごを剥き始めた。
5年もの間眠っていた反動なのか、目覚めてからあまり眠る事ができない。
眠たくても眠れないと言った感じだ。
だから昼間はとても眠たい。
その状態でリハビリをやるもんだからいつもヘトヘトだ。
それでもなかなか眠れない。
辛いものだ。
「乙姫、大丈夫?」
「……え?」
「眠たい?」
「……少し」
すると彼女はりんごを置いて、カーテンを閉める。
「寝られる時に寝た方がいい。」
「え?でも……」
「眠れてないんでしょ?」
「どうして……」
「顔見ればわかるよ。」
そう言うと彼女は私の頭を優しく撫で始める。
その手は暖かくて、とても心地良い。
目を覚ますと、部屋の明かりが付いていた。
辺りを見渡すと彼女は居らず、代わりにテーブルに紙が置かれていた。
乙姫へ
ゆっくり眠れたかな?
面会時間が終わっちゃったから今日は帰ります。
明日またりんごを持ってくるから、一緒に食べれたら嬉しいな。
リハビリ、あんまり無理しないでね。
葵
「綺麗な字……」
その日から彼女は仕事終わりに、毎日りんごを持ってきて剥いてくれた。
それを一緒に食べた後は決まって私の頭をそっと撫でる。
すると私はいつの間にか深い眠りにつく。
まるで魔法のようだった。
2ヶ月間のリハビリは本当に辛かった。
5年もの間、体を動かしていなかった訳だから、筋肉が衰え最初は歩く事も出来なかった。
彼女が支えてくれたから乗り越えられたのだ。
そして迎えた退院の日。
「乙姫!退院おめでとう!」
「ありがとう。」
彼女と初めて隣に並んで分かったのだが、彼女は私より十センチ程背が小さい。
一緒に病院を出ると赤い一台の車が止まっていて、中から彼が降りてきた。
彼は私を鋭い目つきで睨む。
「よお、セカンド。」
彼は私の事が大嫌いらしい。
どうしたものかと思っていると、右腕に何か柔らかい感触があった。
見ると、彼女は私と腕を組み彼を見て頬を膨らませていた。
「乙姫に意地悪しないで。」
「別に意地悪なんて……。」
「次意地悪したら怒るからね。」
車で私の隣に座る彼女はなんだかご機嫌だ。
かかっている音楽に合わせて鼻歌を歌いながら、時に私の方を見て目が合うと嬉しそうに笑う。
20分程すると、一軒のアパートに到着した。
築何十年か分からない古びたアパートで外壁には蔦がびっしりだ。
「ここは……?」
「私達の家。」
「私達の?」
「私達、一緒に暮らしてたの。」
彼を見送った後、彼女に連れられてアパートの2階に上がる。一番奥の角部屋。
「ここが……。」
「今開けるね。」
玄関の扉が開くと、一番最初に目に入ったのは珠暖簾だ。
先端に向日葵の装飾があしらわれている。
四方に目をやると、所々に向日葵の置物や絵などが飾られていた。
「あれ?」
靴箱の上にある写真立てが伏せられている。
見てみると、彼女と私の仲睦まじい写真だった。
バックには向日葵がいっぱいに咲いている。
どうして伏せられていたのだろう。
「乙姫、中入ろう。」
「ああ、うん。」
中は1LDKで決して広いとは言えない。
だが、物は少なく整頓されている。
リビングの隣に位置する六畳程の部屋。
そこは寝室でダブルベッドと小さなドレッサーが置かれていた。
ドレッサーには彼女の髪飾りと同じ白くて丸い花が飾られている。
「これは向日葵じゃないんだね。」
「私が選んだんだよ。」
彼女はにこりと笑うと続けて言った。
「椿の花、大好きなんだ。」
その後はゆっくりしててと言われたものの、どうにも落ち着かない。
懐かしいような、そうでも無いような。不思議な気分だ。
取り敢えずリビングのソファーに腰を下ろす。
そこから見えるキッチン。
彼女は長い髪を一つに束ねて、向日葵柄のエプロンを身につける。
それにしても向日葵がよく似合う。
包丁で何かを切る音やフライパンの音が何だか心地良い。
そのせいもあってか彼女に見惚れてしまう。
暫く彼女を見ていると、エプロンの紐が解けそうな事に気が付いた。
「エプロン……。」
「え?」
「エプロンの紐が解けてしまいそうだ。」
「あ、本当だ!」
彼女は紐を結び直そうとするが、料理の途中で手が汚れているので時間がかかりそうだ。
私はソファーから立ち上がり、彼女のエプロンに手を伸ばす。
「出来た。」
「……ありがとう。」
彼女は照れたように頬を赤く染める。
「何作ってるの?」
「ハンバーグと昨日作ったカレーを温めてるよ。カレーは二日目が美味しいから!後は胡瓜を生ハムで巻くのと、チーズケーキ!」
「ご馳走だね。」
「だって乙姫が帰って来た日だもん。」
彼女はそう言ってはにかんだ。
「美味しい。」
彼女の料理はどれも絶品だ。
ハンバーグにカレーをつけて食べるも良し、別で作ってくれたデミグラスソースをつけても良し。
デザートのチーズケーキは凄く濃厚でお店で出しても良いレベルだ。
「料理、好きなの?」
「最初は苦手だったんだけどね、大好きな人に教えて貰ったの。その人は私の料理をいつも美味しそうに食べてくれた。だから料理も好きになったの。」
「大好きな人?」
「うん。世界で一番大好きな人。」
大好きな人か。
私にも大好きな人がいたのだろうか。
もしかしたら__。
その夜私は寝室で、彼女はリビングで眠る事となった。
「本当に私が寝室を使って良いの?」
「当たり前だよ!ゆっくり休んで!」
「ありがとう。」
「乙姫。」
「ん?」
「……おやすみ。」
「おやすみ。」
確実に彼女は言葉を飲んだ。だが、それを私は聞けなかった。
一度ベッドに入ったのだがどうしても寝付けなくて、私は医師に貰った本を読むことにした。
この本には医師が話してくれた蘇生手術の歴史が更に詳しく載っている他、セカンドについても少しだが触れられていた。
やはり失った記憶を取り戻すための治療法は無く、違った人生を受け入れることが最善、というかそれしか無いという見解らしい。
失った記憶を思い出させようと過去の話をすると、その刺激で頭痛や眩暈を引き起こしたり気絶する事もあるらしい。
「だからお勧めしないと言っていたのか。」
玄関で伏せられていた写真。
正直、私一人だったら過去を思い出せなくても割り切れる。
だが私のそばには彼女がいる。
それはきっと、ずっと前からそうなのだろう。
彼女と沢山の思い出を積み重ねてきたのだろう。
私はそれを忘れたまま生きていくのか?
私はどうやら諦めの悪い性格らしい。
インターネットで記憶を取り戻す方法を探した。
外が明るくなり始めた頃、一人の男性のSNSにたどり着いた。
沢山の写真に笑顔で写る男性。
投稿毎に付いているいいねと応援メッセージ。
SNSのタイトルは正に私が求めているものだった。
「記憶の旅……。」