ひとりの追手
索敵結界の振動音が、ビンと脳に伝わる。女は渋々目を覚ました。
(あぁ……数は一、結界にも気づかねぇマヌケか。ったく、冬の朝は勘弁しろ……)
ボサボサの赤い長髪を紐で一束にした後、「ねみぃさみぃだりぃ」とボヤきながら新調したコートを被るように羽織る。
「『神聖教団』の馬鹿共なら、有無も言わせず殺してやる……」
女はカッサカサの携帯食料を乱暴に齧り、それを無理やり冷水で食道に流した。胃の不快感がさらなるストレスを誘う。
イライラした女は煙草を引っ張り出し、火をつけようとして、孤児を見た。小さな寝袋にくるまって、すやすやと寝ている。
「ここじゃ吸えねぇ、ってか。ハハッ、吸うけどな」
『点火』と唱えて指先に火が灯る。ため息混じりの一服は、不思議と心がやすらぐ。
氷晶漂う早朝の森で、小鳥が朝に気づいた。川のせせらぎと戯れるように鳴いている。
「…………」
湯を沸かす女は、乾いた冬空に白煙が溶けてゆくのをボーッと眺めるだけ。
(あーあ、煙草の匂いにもケムリにも気づきゃしねぇ。殺し屋を待ちぼうけ、笑えるぜ)
こっちから出向いてやろうか、なんて思いながら白湯を飲む女。少し熱かったのか唇からチロリと舌を出す。
ようやく『敵』が女を発見したのは、彼女が魔導書を読み始めた後だった……
◆◇◆
『敵』にはとっておきの秘策があった。実力差をひっくり返すほどの、秘策が。
そのうえ赤い髪の女は『敵』に気づかず、本を読むのに夢中だ。
私でも殺れる、そう覚悟を決めて包丁を握りしめた。その時だった。
「おい、ソレの使いかたァ知ってるか? そいつはな、まな板の上で寝てる食い物切る得物だぜ?……なぁ、テメェにはオレが寝てるようにでも見えてんのか?」
じっと『敵』がいる方を見つめながら、女が声を発した。
バレた、まずい。『敵』は一歩後退り、カサリと枯れ葉を踏んでしまう。
「はァ……悪い事は言わねー。さっさと実家に帰っておねんねしてな───お嬢ちゃん。その年で命捨てるほど、人生腐っちゃいないぜ?」
包丁を握る細い指は、かじかみながらも硬く結ばれる。涙で濡れた濃いくまを、ゴシゴシと親指の関節で擦った。
(───アタシがやらないで、誰がやるんだッ……!)
子鹿のように足を震わせながら、包丁少女は立ち上がる。女は間髪入れず少女に指を向けた。
「『射:弱印』」
「ッ! 『魔術霧散』!」
少女の『秘策』が炸裂し、女の術を打ち消した。希望で少女の顔が晴れ───
「『射』、『射』、『射』」
馬鹿みたいな魔術の応酬、全弾少女に直撃。血を巡るような痺れに思わず、包丁を落としてしまう。
「アぁ!?」
「『射』」
動きが鈍った少女に狙いを定め、女は光線を放つ。
赤い光線の届く先は、少女のポケット。ぱりんと術塊が割れる音。
「えっ……『魔術霧散』の術塊が、そんな……」
夢破れた少女を、女はわざと小馬鹿にする。
「一丁あっがりぃ、と。オレの射すら避けられねぇくせに、よくも殺れると思ったな。射は避ける、基本だぜ?」
「そんなの……ッ」
「ったく、雑魚を殺す趣味はないんだが。覚悟しろよ?」
少女の額を指す指、命が終わる感触───少女は最期の賭けに出た。
「待って……貴方は『アクマ』に、騙されてるの!」
その澄んだ眼球には、病みに呑まれる事なき正統なる憎しみが住んでいる。嘘やハッタリじゃ済まない、命懸けの命乞いだ。
「ほう? 何がなんだか分からんなぁ」
とぼけた女はさっきより楽しそうで、えくぼが可愛い一面を見せる。
「そこで寝てる『アクマ』は……大量殺人鬼なの! 無実の人をたくさん殺した、大罪人なの!」
「そうかそうか、27人は『大量』か。じゃあオレは何て呼ばれちまうんだろうなぁ……『超絶ウルトラハイパーミラクル』殺人鬼かぁ? カッコ良すぎてゾクゾクしちまうぜぇー」
「あ、貴方の話なんか聞いてない! というか貴方知ってて───」
「知ったこっちゃねぇ、ってこった。オレはオレの『自由』に賭けてんだ。テメェは……かわいそーな『二十七』の為に殺ってんのか?」
落とした包丁に縋る眼を、指す指で女の視線に引っ張る。眉間を弛ませた少女はおとなしく、心を解いた。
「っ……私のパパも、『アクマ』に殺されたの」
女は包丁少女を数秒睨んだ後、指を下ろした。
「いいぜ、テメェを信じてやる。孤児との一対一を認めてやってもいい」
「……なに、言ってるの?」
「茶でも淹れてやるよ、詳しく話聞かせな」
刺す包丁はゆらりと、大地に伏す。