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無責任なひと  作者: 大宮聖
8/11

惨め

なかなかトイレから出られなかった。結局おれは授業開始ぎりぎりで教室に入った。

「なんで高羽だけ着替えてないんや」

 国語の山下先生が怪訝そうな顔を浮かべていた。おれはあいまいな笑み――多分卑屈な――を浮かべながら適当な理由をつけてごまかした。先生がいくつか質問をするたびに、クラスメイトがにやついた。おれは自分の存在を消すとでもいうように、結局授業が終わってから一人で着替えることになった。

 斎藤が黒板を消している。日直は前田だったはずだ。斎藤は責任感が強く、クラスメイトが放置している作業を、度々肩代わりしているのをおれも良く目にしていた。その面倒見の良さから、斎藤は二学期の学級委員長に任命されていた。

 主に運動部の生徒がおれに嫌がらせをしてくる中で、陸上部の斎藤は一度もおれに絡んでこなかった。おれのことはみなと同じように敬遠しているのだろうが、余計に傷つけてこないことがほんの小さな安息だった。

 クラスメイトがグループに分かれだべっている中、おれは一人、自分の机の上で弁当を開く。

 鉄がぶつかる音。サッカー部の鷲見が椅子を揺らしておどけている。おれは少し椅子をずらした。鷲見や薮内の視界に入らないよう努めた。二人はよく小突いたりして馬鹿にしてくるので苦手だった。特に体の大きな野球部の鷲見は力が強く、肩を叩かれるだけで半日は鈍い痛みを抱えることになる。

 さっきより大きな鉄の音。鷲見の背中がこちらに倒れこんできた。激しい衝撃音。したたかに胸を床に打ち付けた。頭に自分の椅子が激突した。じーんと痺れるような痛み。歯を食いしばった。床に突っ伏せる体制になったおれは、顔を腕全体で覆った。床に落ちる食べかけのおにぎりと具。顔にレタスが張り付く。

「あっぶね」

 鷲見がおれの方を見ようともせずに仲間の方に向き直り、笑いだす。薮内も呼応して大げさに囃し立てる。

「おい、高羽くんに悪いやろ」

「わざとじゃなかったんやって」

 笑い声がおれの身体を冷たくしていく。おれは何も言わず、床に落ちた弁当を手で拾い集めた。ミートボールのソースが手についた。レタスとエビフライを掌に載せ、容器の中に戻していく。

「今日はエビフライいれといたから」

 母の言葉が蘇る。おれのために作ってくれたお弁当。おれは今、四つん這いになって、食べれなくなった弁当の具を片付けている。

 黒板消しクリーナーの音が止まり、斎藤がこちらに歩いていく。おれは俯いて、斎藤と目を合わせないようにした。見られたくなかった。これ以上、誰の視界にもこんなみじめな姿を現したくなかった。斎藤は構わず進む。おれの隣に来て、囁く。

「おまえが花瓶割ったからこんな嫌われてんやろが」

 エビフライを落とした。鼓膜が不快音しか拾えなくなった。斎藤の声が反響する。言葉が鋭さだけを残してうねっている。擦れ声しか出せなくなるほどの、吐き気。潰れそうだった。

 クラスメイトが意地の悪い表情を浮かべ、蠢いている。おれを見ている男子、女子が揃って歯を見せて笑い続けている。斎藤は何事もなかったかのように自分の席に戻る。

 涙が浮かび、目頭がひりついた。花瓶割ったから嫌われた――斎藤の言葉が鼓膜と心を抉る。そうじゃないだろう、おれを嫌うのは花瓶を割ったからじゃないだろう。クラスの中で浮いているおれが目障りだから、のけ者にしたいだけなんだろう。

 他のクラスメイトはこの状況を良しとして、ただ流されているだけだ――行き場のない感情が荒れ狂う。

 勿論、おれの行いは悪だった。しかし、今のおれの現状はおれの行いが根本的な原因じゃない。おれははみ出し者だった。誰ともつながっていなかった。

 そんなおれが花瓶を割った――クラスメイトにとってのおれを断罪する口実ができた。クラスの中で浮いているおれを、完全にはみ出させる大義が生まれたのだ。

 事実、ただでさえ孤立していたおれは、あの日以来完全に集団から切り離された。例えば、もし斎藤が花瓶を割っても、陰口や文句を言われることはないはずだ。

 頭の中にまた、ふっと出る。おれに抵抗する全開の力とは反対に、生の力が異常に弱々しかった真島。真島は絶望していたのだ。この世界全てに。おれに偉そうに説教されて、この人間に何を言っても無駄だと見限り、そして絶望し、人を殺した。

 何を言っても無駄だ――常日頃、そして今、おれが世間に抱き、感じている。それなのに、同じことを真島にやった。自分が救われるために――束の間の満足感を得るためだけに。

 おれが真島の自殺を止めたのは善意でもなんでもなかった。人を諭し、己が救ったのだと悦に浸る、ただの自己満足だった。最初は善意だと思い込もうとしていた。そうすることで折り合いをつけようとしていた。

 目論見はたやすく崩れた。今おれは、精神的にも限界だった。少しずつ自分が真島の精神状態に近づいていく――自分の行いがどれだけ愚かで、無責任だったのかに気づく。どれだけ見まいと目を背けても、自分の罪が立ち現れてくる。

 これは裁きなのか。おれに対する罰なのか。おれは無責任だったのか。おれはもう、どこにも逃げられない。このクラスのいじめからも、自分自身からも。頭を揺さぶる吐き気と眩暈だけが強まっていく――切なる自分の叫びすら聞き取れなくなっていく。

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