7 事実は大人の事情
古今東西、王城に住んでいるのは選ばれた高貴な方だが、王城に勤務している下々の者は星の数ほどいる。
カテリナも、体を壊さない規則正しい仕事が合ってると思うよと提案した父の言葉をいつの間にかあっさり忘れて、同僚が避ける夜勤を自分から取りに行くのが常だったが、体を壊さないだけの自己管理もちゃっかりしていた。
きちんと時間になったら夕食と仮眠を取り、間食もせず、王城をひととおり見回る以外は宿直室から一歩も出ない。まさかカテリナに限って勤務中にお酒を飲むはずもなく、普段後回しになっていることをしようと、要らない紙とまだ使える紙をより分けて縛る単純作業をしていた。
そんなカテリナであったので、王城で夜を明かすのは慣れている。ただし完全に仕事に励んでいるのであって、同じ頃同じ建物の中で夜遊びに励む方々がいることすら実はわかっていなかった。
「そうね、いろいろあるわね」
王城の一角、昼間はローリー夫人のサロンと呼ばれている居酒屋ローリー。出入りしていた子女たちが家に帰った後、いい年した大人たちが子どものような顔をしてローリー夫人に甘えにやって来る。
「でも奥さまにも言い分があると思うのよ。たとえば寂しいとき、どんな風に手に触れたか覚えていらっしゃる?」
ローリー夫人が傾けたグラスの中で、黄金色の酒気が揺らぐ。カテリナは飲んだことがないが、麦で出来た大人のお茶らしい。
「女性は変化に敏感なのよ。殿方は変わらないものを求めがちだけど、長い時を共に過ごす伴侶を同じ形に縛るなんて無骨なことはおやめなさいな」
カテリナはうなずいて、身を乗り出して次のローリー夫人の言葉を待った。
「カティ、メモは取らなくていい」
ギュンターが事も無げに告げて、カテリナは不満げに彼を見上げた。
「そろそろ本題ですよ」
「夫婦喧嘩に本題も閑話休題もない。ローリー夫人も適当に相槌を打ってるだけだ」
カテリナが目を戻すと、確かにローリー夫人の前に座った男爵の愚痴は娘の婿のことに移っていた。それもまもなく隣に座った別の男性の声が重なって、カテリナも話の筋を追うことができなくなる。
昼間のサロンに比べると、灯りも控えめで椅子の数もまばらだ。時々軽食を運ぶ給仕が回って来るくらいで人の出入りも少なく、心なしか時間の流れもゆっくりとしていた。
父が口うるさくカテリナに立ち入りを禁止していた危ない場所ではなさそうだが、普段彼女を囲んでいる世界ではない。カテリナはそういう違いには気づいていて、手帳を懐にしまった。
違うというなら、国王陛下もいつもと違う。
カテリナが知る陛下はサロンに出入りする合間にでも仕事をするはずなのに、今夜の彼はまるで時間を浪費するのを楽しむように、もう一刻ほどもサロンの片隅に腰を下ろして、何をするでもなく物思いに耽っている。国王陛下という身分は背負っているので、女主人であるローリー夫人からそう離れていない席ではあるが、ローリー夫人自身も国王陛下を特別に扱っているわけではなかった。
カテリナは夜勤の間に暇に任せて紙の束をより分けたように、普段ならさほど関心を持っていないことを思い出していた。
いつかの娯楽新聞、そこにローリー夫人の特集があった。彼女の特異な容姿は、彼女の母が不義を犯したからといわれていた頃があったのだそうだ。
実際は祖母に辺境の血が入っているからなのよ。それで破談になった縁組もあったけれど、切れた縁の代わりに夫と出会えたと思うと、精霊に見放されてはいなかったみたいね。ローリー夫人自身が出生の逸話も話題の一つにしかしていなかったから、その記事を読んだカテリナも気に留めていなかった。
「もう二年になるのか」
ふいにギュンターが告げた言葉は、独り言のように聞こえた。
「君がローリーの名を手放しても、ヘルベルトが君を責めるとは思えない」
国民の多くは彼女の夫が船旅に出たきり失踪したことを知っているが、新聞記事でさえそれを書かないくらいには彼女を気遣っていた。ヘルベルト・ローリー将軍を盟友としていた国王陛下でなければ、きっと誰も問いかける日が来なかったかもしれない。
破談になった縁組もあったけれど。カテリナは要らない紙により分けた娯楽新聞は、本当に要らない情報だったのか考えていた。
ギュンターがローリー夫人をみつめるまなざしが今も優しいのは、彼女が親友の妻だからなのか、元婚約者だからなのか。
「あなたは優しいわね。……だから嫌い」
ローリー夫人は柔らかい棘のような声色でギュンターを刺して、あとは彼の方を見ることなく来客のところに向かった。
カテリナは二人をみつめながら、そこに一度ねじれた縁を見ていた。
精霊は人の知らない基準で恋を取り上げてしまうこともあれば、一方でそっと元に戻してくれることもあるらしい。
「どうした、カティ。酔ったか」
大人の世界はなんだか難しい。カテリナは苦笑して声をかけたギュンターに返事をしようとしたが、その前に彼は顔をしかめた。
「本当に顔色が悪いぞ。体調でも……」
「申し訳ありません、陛下」
手を伸ばしたギュンターの前にウィラルドが割って入って、カテリナの腕を取って立たせた。
「カティには事情があるんです。今日はもう失礼します」
ウィラルドは一礼して、カテリナの肩を抱いて退出する。
顔を伏せて連れられて行くカテリナは体調が悪そうだったが、ギュンターはウィラルドがカテリナの頭上でちょっとだけ笑ったのを確かに見た。
ギュンターの視線に気づいたのかウィラルドは笑みを消したが、代わりに目の端で不快を示して顔を背けた。
ローリー夫人は後に残されたギュンターがウィラルドと同じ表情をしていたことに気づいていたが、大人の事情で黙っていたのだった。