5 開いた扉
降臨祭の初日、日帰りで終わったお忍びに一番がっかりしたのは、たぶんカテリナだった。
翌日の陛下の自室にて、書類仕事に励んではいるがあからさまに虚ろな目のカテリナの異変は、付き合いの短いギュンターでさえ当然気づいた。
「カティ、わかっているかもしれないが君は誤解しやすい」
「はい」
しかしここで甘やかすのは彼のためにならないと、原因はわからなかったが彼なりに気遣って淡々と仕事を言いつけた。
「わかるところから取り掛かる。わからないところは訊く。こだわらない。いいな」
この少年はころっと大きな誤解をすることはあるが、基本的には真面目で優秀なのであって、ちゃんと的確に軌道修正してやれば大成する。ここに彼が来てからというもの、ギュンターにはある種の使命感がふつふつと湧いてくるのだった。
一方カテリナは、なぜ国王直々に書面仕事を指導されているのか理解はしていなかったが、こんなに面倒見のいい上司に当たったことはなかったので感謝していた。
よし、今日も一日がんばろう。わりとあっさりやる気を取り戻してペンを走らせるカテリナを、ギュンターは目の端で見てうなずいた。
「陛下、今日のサロンの予定ですが」
「ん? ああ、誰か文句言ってきたら行こう」
その頃には陛下も自分の仕事に集中していて、生返事と共にぽろっと本音が出た。
「どうした」
カテリナは真っ青になって席を立って、驚いたのはギュンターの方だった。
気づかなかったと、カテリナは震えながら頭の中で組み立てていた大いなる計画の欠陥に気づいた。
何か変だと思ったら、必ず基本に帰って考え直しなさいと父に教えられていたはずだった。カテリナの父は前提をすっ飛ばして最終形ばかり組み立ててしまう娘のボードゲームを見ながら、いつも手がかりを教えてくれていた。
振り向いたギュンターを見上げて、カテリナはあらためてそこに座る国王の姿を見た。
王妹殿下は彼を最愛の人のところへ導きなさいと言った。すでに王妹殿下は彼と三人の姫君が巡り合うように仕向けていて、カテリナもアリーシャと出会った途端、なるほどこの方が一人目だとすんなりと受け入れた。
王妹殿下が選んだ方なら、ヴァイスラント公国の王妃としてふさわしい方が勢ぞろいしているはずで、カテリナが選別する必要などないのだ。
「恐れ多いことですが、陛下。陛下は降臨祭の最終日にワルツを踊らなければなりません」
「わかっている。だからアリーシャに頼もうと思っている」
「つまりアリーシャ様をお妃にお迎えするということですね」
カテリナは単純ではあるが愚かではなく、実はギュンターがどう答えるは薄々気づいていた。
ギュンターは至極当たり前のことのように首を横に振った。
「それは無理だろう。アリーシャは従兄の子どもだぞ。一回りも年下で、常識的に考えて却下だ」
「国王陛下に常識は要りません!」
何となく気づいてはいたが、カテリナは事実を突きつけられて愕然とした。
全然良しを出さない細かさ、自室にこもって黙々と書面仕事をしている国王陛下。カテリナは素直だ堅物だと褒め言葉半分呆れ半分で言われてきたが、上には上がいるのだ。しかもこの人には、そこに慎重さという余分な年の功がついてしまっている。
カテリナは組み立てていたボードゲームが反転したような気持ちになっていた。けれど一度ごちゃごちゃ考えた手順を巻き戻して頭の中を真っ白にすると、星読み博士が精霊の訪れを知らせた日のことを思い出した。
精霊が望んでいるのは、国王と最愛の人とのワルツだと博士は言った。
そのときカテリナは国王陛下にお会いしたこともなかったけれど、ああ、ワルツを踊るんだと、朝に目を覚ますように当然に受け入れた。自分たち国民は最愛の人と踊る役目はないけれど、誰だって最後のワルツは特別なものだ。
……私も最愛の人と踊ってみたいなと思ったのは、別に今は関係がなくて。
「陛下、出かけましょう。どこへでもお供します」
彼が気乗りしないのに恋を勧めるのは変かもしれないが、この人にはそれくらいがちょうどいいのだという確信があった。
「陛下はどの扉を開けるか、慎重に考えすぎています。でも建国のとき、精霊が言っていたように」
その言葉を言うと乙女じみていると思って、カテリナは言葉を引っ込めた。
カテリナは慌ただしく書類を片付けて、半ば無理やり陛下を自室から外に出す。
「「最愛の人は開いた扉の向こうにいる」。君は意外とロマンチストらしい」
ギュンターは笑って、彼にしては珍しくからかったので、カテリナは赤面して言い返す。
「好きなんだからいいじゃないですか!」
なぜか変な沈黙が下りて、二人ともその正体がわからなかった。
この国ではそういう沈黙を、精霊が通り過ぎた時間と言う。精霊がくすくす笑いながら見ていて、奇跡を与えてくれる前触れだという。
「戻ったら手直しするところがある」
「確認します」
我に返って顔を引き締めながら事務連絡をする二人を、たぶん精霊が見ていた。