最終話 ヴァイスラント公国のワルツ
何度も考えたのに、どうしても思い出せない。ギュンターはまたふとそう思って、意識が浮くような気持ちになった。
王城の大広間には大輪の花びらのように灯りがともり、中央の階段を下りた先には正装に身を包んだ貴公子や貴婦人たちが集う。歴代の王の肖像画が彼らを見下ろすと共に、ギュンターも現在の王としてヴァイスラントの繁栄をみつめていた。
ギュンターは精霊が本当に現れるかどうかより、この十日間を人々が楽しんで幕を閉じるならば、それが何よりだと思っていた。精霊との約束を果たすのが国王としての責務だが、歴代の王が誰一人果たしたことがないそれを、この平和な時代にたまたま在位している自分が果たせるかというと、どうも自信がない。
「兄上、上の空でいらっしゃいますね」
グラスを渡して弟のシエルが苦笑交じりにからかったのはもっともで、ギュンターは舞踏会が始まってからというものまだ一度も踊っていなかった。本来なら国王のダンスを合図に始まるものだというのにシエルに代行してもらったほどで、まったく踊ろうという気がないのだ。
「考えるべきことは山ほどあるんだがな」
やる気とかそんな子どもの言い訳みたいなことを言っている場合ではなく、星読み台や王族や重臣たち、そして名も知らない数々の国民が国王と最愛の人のダンスを望んでいるのだから、ギュンターはそれを果たす義務がある。実際、ギュンターも十日間そのゴールに向けて努力してきたし、真剣にダンスの相手を考えたはずだった。
ところが今の自分ときたらどうだ。完全に言い訳だが彼女が側を去ったその瞬間から、ダンスのことなんて考えたくもなくなってしまった。正直眼下で踊る人々も、為政者の慈愛の心で見るどころか、いいよな相手がいる奴はそりゃ楽しかろうとどこかの負け犬のような目で見ていて、玉座に座ったまま腰が上がらない。
最愛の人のところに行きなさいなどと格好つけるんじゃなかった。精霊のように夜空をくるりと回せるのなら、彼女の手を握ったときに時を戻したい。
「マリアンヌ、私はもう国王として駄目だ。代理で最後のダンスを踊ってくれ」
妹にこぼした言葉は笑えるほどに本音だった。今夜、抜け殻のように玉座についた時点でその結末は見えていた。
泣き言を告げたふがいない兄に、マリアンヌは隣の席で奇妙なほどゆっくりと振り向いた。一呼吸分だけため息をついて、おもむろに答える。
「……怒るわよ」
一瞬、その声とまなざしはマリアンヌのものではないように感じた。ギュンターが息を呑んだとき、ふっと傍らの燭台の灯りが消える。
宵闇にまぎれこんだ風が草原をなでていくように、静かに燭台の灯りが消えていく。はじめはざわめいた人々も、訪れた暗闇は不思議と恐ろしいものではなく、まもなく広間は水に広がった波紋が溶けていくように静けさに満ちた。
眠りに落ちる直前のように、ギュンターはまたふと考えていた。彼女と……カティと初めて出会ったときのことを。
これほど頭を占めている存在が初めて現れたときなのだから、それは劇的なものだと思うのだが、どうにもその瞬間が思い出せない。
ギュンターがマリアンヌと何か話していて、カティはその間に他の仕官と混じって部屋に入ったらしい。カティという名前は仕官の誰かから紹介があったと思う。あいさつくらいはしたはずで、最初は普通にギュンターの警護をしていた。
でも気が付けばギュンターが書類仕事を言いつけて、半分叱っていたが、言葉を交わすようになった。ギュンターとしては、あまり良くは思われていないと自覚していた。カティが自分を見るまなざしは女性が男性を好むものではなかった。ギュンターだって、仕事なのだからそれでいいと思っていた。
……嘘を言うなと、一体いつ自分の本音に気づいたのだろう。事あるごとにカティを構うシエルがうらやましいと、足踏みするくらいに悔しく思ったはずではなかったか。
「みなさん! 大丈夫ですか!?」
一つだけ灯った燭台を持って大広間に飛び込んできた少女を見て、ギュンターは最初のときなど別にどちらでもいいのだと気づいた。
少なくとも、美しい少女を見染め、出会ってすぐ惹かれ合った、そんな恋物語の始まりじゃなかった。
紅茶色の大きな澄んだ目を持つ、小柄で、時にへんてこな誤解をするまっすぐな騎士。いつの間にかギュンターの日常に転がり込んできた少女、それがギュンターにとって無性に愛おしいのだと、ただ認めるときが来たのだった。
カティの灯りを分け合って光が蘇っていく大広間、その中でギュンターは立ち上がっていた。
せっかく華やかに装った白いドレスに灰をこぼして、しかも子どもみたいに鼻の頭に黒いすすまでつけた彼女は、ギュンターが目の前に立つと、一瞬不思議そうに大きな目を見開いた。
彼女は母親譲りのその容姿で、女性の格好をしたら精霊のような光をまとうのだが、ギュンターは今も彼女のそういうとぼけた表情の方が何百倍も可愛いように思う。
「カテリナ・バルガス嬢」
胸に手を当てて一礼をすると、ギュンターはいつからか彼女にだけ言いたかった言葉を告げた。
「私と最後のワルツを踊ってくださいませんか?」
幸い真夜中の鐘が鳴る前で、もっと幸いだったのは、そんなギュンターにカテリナは照れくさそうに手を預けたことだった。
何事もなかったかのように音楽に合わせてダンスを踊る人々の中で、カテリナはちらっとギュンターを見上げた。
「言いたいことがあったら言っていいぞ」
ギュンターはいつものように不愛想な一言だったが、カテリナはかえって安心して言葉をかける。
「いつから気づいていらっしゃったんですか? 私が女性で、ゲシヒト総帥の娘だということ」
「アリーシャに振られた辺りから」
「えっ!」
本気でダンスの足を止めかけたカテリナを回転させて、ギュンターは遠い目をする。
「遅すぎたくらいだと思うが? 君は男にしては華奢すぎるし、ゲシヒト総帥は毎日顔を合わせてる重臣だぞ。当然、気づいてたのは私だけじゃないと思うが」
ギュンターが舞踏会の中に通した最小限の護衛騎士たちを振り向くと、彼らは一様に深くうなずいてみせた。
「……まじめに悩んだのに」
思わずカテリナがへこむと、ギュンターは付け加えた。
「まあ名前は父上の馬鹿げた挑戦状に書いてあって初めてわかったし、君が隠していることをわざわざ言うつもりはなかったがな」
くるりと回転、軽くステップ、ワルツは彼らの十日間の奮闘などどこ吹く風で続く。
ふとまた燭台の灯りが一つ消えて、カテリナがそちらを見た時、マリアンヌの微笑みに出会った。
ヴァイスラント公国のワルツみたいに、あなたたちの人生って長いのよ。いつかのように半分切り取られた世界から、カテリナの耳にだけ声が届いた。
でも忙しないくらいにぎやかな贈り物がいっぱい届くから、楽しみにしててね。マリアンヌの声のようでそうではない声はそれきり消えて、カテリナは首を傾げた。
「どうした?」
ギュンターに問いかけられて、カテリナはぽつりとつぶやいた。
「……お母さんの声に似てたような」
カテリナはそう言ったものの、長いことで有名なヴァイスラントのワルツはまだ半分残っていて、すぐに次のステップに気を取られた。
その夜、精霊がどこに降臨したのかは、まだしばらくの間星読み台にも解読できなかった。
けれどその日カテリナの耳に届いた精霊の言葉は、一年後に妃となったカテリナのお腹に触れていたとき、奇跡的にギュンターが閃いて解明したのだった。




