13 六等星の名前
バルコニーに出てアリーシャが空を仰ぐと、一日の終わりの壮大な幕引きが広がっていた。
ヴァイスラントでは王族から庶民まで星を見るから、夕日が綺麗な日は星も美しく見える夜になると喜ばれる。星の告げること、それはさだめなのだから、国民は吉も凶も受け入れてきた。
知っているわと、アリーシャは澄んだ外気に答えた。星占いで教えられるまでもなく、今日は幸運が降ると知っていた。アリーシャは王家に連なる血筋で、サロンでも理想の令嬢と誉れ高く、陛下自身とも長い付き合いだった。陛下が最後のダンスにアリーシャを誘うのは、まるで公務のような必然だった。
「アリーシャ様!」
でも人の心はいつだって定めたとおりにいかない。それを証明するように、少年騎士はバルコニーに飛び込んできた。
アリーシャがサロンから立ち去ったのはまだ正午過ぎだった。従者には、アリーシャは馬車に乗って自邸に帰ったと陛下に言伝るように告げておいた。アリーシャが隠れ家のようなここで日が暮れるまで、文字通りたそがれているとはたぶん陛下も思っていないことだろう。
「立ち入ってしまって申し訳ありません。お部屋の前でお待ちしていましたが、ずいぶん長いこと出ていらっしゃらないので」
アリーシャが振り向くと、あまりに澄んでいて大きな目と目が合った。一人になりたいアリーシャを愚直に追いかけて結局みつけてしまう、この少年は良くも悪くもまっすぐなのだった。
彼を見るたび、子どもなのかと怒りたくなるときもあった。でもそれはたぶんアリーシャの方で目を曇らせている。子どもだって言うほど純真じゃない。彼のそのまっすぐさは、アリーシャが認めないだけで、人を惹きつける彼自身の輝きに違いなかった。
「私の負けよ」
そしてそれを知っている人は彼が思うよりたくさんいる。この部屋の主であるマリアンヌ王妹殿下も、だからこそ彼を中に通したのだろう。
アリーシャがせめてもの矜持で微笑むと、カテリナはアリーシャの言葉の意味を考え込む素振りを見せた。
陛下からダンスに誘われて、負けとはどういう意味なのか。もしこの少年が陛下くらい鈍かったなら、そう問い返したかもしれない。
「あなたは女の子だもの」
カテリナがはっと息を呑む気配がした。それだって彼が思うよりたくさんの人が知っていると思うのだが、実際気づいていない人もいるのだから、精霊もいたずらなことをするものだ。
他ならぬ陛下とかね。アリーシャはさすがにそれは思うだけにして、負けたボードゲームを振り返るように話を始めた。
「子どもの頃に、ここで初めて陛下に星の見方を教えていただいたの。陛下は自分より小さいもの、弱いものにとても親切でいらっしゃるのね。たぶん他にもたくさん同じことをしていただいた子女はいると思うのだけど、うれしかったわ」
暑さの静まった後にやってきた夏の宵、張りつめた空気に星の輝きが際立つ冬の夜。季節が巡る中で子どもが大人になるように、少女のささやかな憧れが恋心に育っていっても、アリーシャを責められる人はいなかっただろう。
アリーシャは人より意地が強いと自覚していた。自分でも身分も容姿も恵まれているとわかっていたから、装いも教養も磨きぬいて、いずれは陛下の横に並ぶのだと思っていた。
ふいにアリーシャは苦笑して、そろそろ見え始めた一番星を仰いだ。
「なんてね。実は星のこと、陛下に教えられるまでもなく大体知ってたのよ。星を教えてくださる方だってたくさんいらっしゃるんですもの」
アリーシャも王家に連なる子女、幼い頃から親切にしてくれる大人も言い寄る男性もいた。確かに身分は陛下より上の男性はいないかもしれないが、陛下よりお顔立ちのいい方も優しい男性も知っている。
「そうじゃなくてね……」
星がいくつも空に現れていく。夜の幕開けの前で、アリーシャは自分の中にだけある小さな星のような思い出を見ていた。
いつだったか、陛下には特別な星があると耳にした。アリーシャは興味を惹かれて、どの星なのですか、名前を教えてくださいなと陛下に問いかけた。
ところがそれに対する陛下の反応は、普段の朗らかな態度が嘘のように不機嫌だった。彼は憮然として、めったに見えない星だよ、小さすぎてたぶん今日も見えないんじゃないかなと言った。
でもいつからか、陛下がアリーシャに親切に星の見方を教えているとき、夜空に何かを探していることに気づいた。目を凝らして、時々怒っているような顔もしていた。
後で聞いたのは、その星は陛下が子どもの頃名前をつけたという話だった。だから星読み台で調べれば位置も名前も知ることができたが、アリーシャは陛下から教えてもらうことにこだわって調べなかった。
陛下もいつまでも子どもの頃名付けた星のことにこだわるはずもないと思っていた。アリーシャもいつしか星の名を訊くのをやめて、陛下も二度と同じ話をすることはなかった。
でも降臨祭が始まった日、陛下と久しぶりに星を見る機会があった。そのときふと隣を見たら、陛下は例の怒ったような顔で星を探していた。
どの星を探しているのですか。思わずアリーシャが問いかけると、陛下はたぶんアリーシャの言葉を聞いていなくて、上の空で独り言をもらした。
……カティ、どうしてくれよう。特別な星を探すのと同じ目をして、陛下はその名前をぼやいたのだった。
たったそれだけのことで、それが好意なのか愚痴なのかも傍からはわからない一瞬だったのに、アリーシャは何だか急に、陛下は普通の一人の男だと思った。
アリーシャが他にたくさん素敵な人はいたのに陛下に恋をしてしまったみたいに、陛下だって数多の星を見上げながらたった一つの星を探してしまうのだと。
「私でありたかったわ」
バルコニーから見下ろせば、あちこちで星を見る人々がいた。中にはアリーシャに気づいて手を振る友達もいて、今日もヴァイスラントはこんなに平和だ。
横目で見やると、カテリナはずっと考え込んでいて、アリーシャを連れ戻すのも反論するのも、そんな乱暴なことしちゃいけないとでもいうように首をふるふると振って、その綺麗な目でくるくると悩んでいるようだった。
陛下の思い、この少女の思い、それを恋というかは精霊しか知らないとして、国王と最愛の人とのダンスは叶うのだろうか。
アリーシャにだってわからなかったが、見上げた空は満天の輝きが始まっていて、今日はどんな小さな星も見えそうな気がしていた。




