幻界の美馬と白子のセカイ
◇
バスが夕暮れ時の田舎道を進んでゆく。
桜は盛りを過ぎ、地区を流れる小川の水面を淡い桃色の花弁が流れてゆく。
あたしは白子と肩を寄せあいながら、二人がけの席に座っていた。揺れるバスの車内は、帰路につく同じ中学の生徒たちが数人いておしゃべりに興じている。
移ろいゆく車窓の風景を眺めながら、地区の名所を紹介する。……といっても大したものは無いのだけれど。
バス亭で停車すると生徒が二人降りた。バス停の周辺は小さな住宅地。護岸されていない川幅1メートルぐらいの小川が流れ、舗装されていない農道
が続いている。
そして川にかかる橋を渡ったところに、一軒の小さな商店があった。
「あれが橋本商店。駄菓子とか文具まで、ひととおり売ってるよ」
この地区で唯一の商店は古めかしい一軒家だ。
店の外は伸縮式の屋根が突き出ていて、その下には自動販売機と緑の公衆電話が並んでいる。開け放たれた入口の横には郵便マークと宅急便マークの看板が掲げられ、クリーニングとお酒販売の旗が揺れている。なかなかカオスな店構え。
「コンビニみたいな店?」
「だったらいいんだけどねー、長靴とか肥料も売っているし」
普通のコンビニでは売ってない農業用品も置いている。つまりは雑貨屋。それでもこの地区では貴重なお店なのだ。
「雑誌なんかもあれば嬉しいんだけどな」
「あ、雑誌も少しは置いてるよ! 発売日の翌日、下手すると二日後には手に入る感じだけど」
田舎あるある。21世紀だというのに物流は1日遅れるのだ。
「なにそれ面白い」
白子が小さく笑う。
なんというか、控えめで可愛い。
彼女にしてみれば田舎は不便で、異世界に来たような感じかもしれない。都会とは生活環境も違いすぎるだろうし。
それに『もののけ』が普通にいる。
ぽちゃん、と小川に波紋が広がった。小魚が跳ねたにしては大きな波が広がる。おそらく河童だろう。
それには気づかず、店の前のベンチでは近所の小学生たちが、駄菓子を食べながらトレーディングカードの交換会に興じていた。さっきバスを降りた生徒二人もお店に入っていく。
「でも、楽しそうだね」
「こんど行こう、駄菓子食べに!」
「うんっ」
白子は瞳を輝かせると窓に顔を寄せ、その光景を眺めていた。
目新しい転校生にクラスはお祭り騒ぎだった。
けれど放課後が近づくにつれ、それも落ち着いた。転校初日ということもあり、白子は少し疲れているように見えた。
元々口数が少ないらしく、クラスのみんなの第一印象は「物静かな大人しい子」だった。
それは決して悪い印象ではないけれど、クラスの中心になるタイプとはいえない。クラスの中心的な女子グループのなかには妙な安堵感と、軽い失望感があったのも事実だった。早速、なんだか拍子抜けねといった女子もいたくらいだ。
男子たちにとっても静かなタイプは話しかけにくいらしく、結局会話を弾ませることもなく退散していった。
あたしは内心、やきもきした。
もっと積極的にアピールしなきゃ! 笑顔笑顔! と心のなかで応援してフォローしたけれど。
白子自身、そもそも積極的な感じがしなかった。
「はぁ……つかれたね」
「うん、ちょっと」
「だよね、大騒ぎだったし」
バスがゆっくりと発車し風景が流れてゆく。すぐに民家もまばらな、田んぼと畑の続く景色に変わる。
あたしの家はあの山懐だ。
乗客がほとんどいなくなった頃、白子がぽつりと静かに口を開いた。
「私、美馬さんと逢えて嬉しい。夢じゃなかったんだって……」
傾いた西日が髪を銀糸のように輝かせる。白い頬がオレンジ色に染まっている。
「小三ぐらいの夏だったよね確か」
「あの時のことはよく覚えているの。小三の夏休みの八月十三日。私は黒い影に追いかけられて怖くて泣いていた。それを美馬さんが助けてくれた」
口数が少ない白子が復唱するようにスラスラと言葉を紡いだことに少し驚いた。
「う、うん」
そしてちょっとだけ反応に困る。
忘れかけていた当時の記憶を
手繰り寄せる。
白子を助けた。まるでヒーローみたいに。でも結界の「綻び」から入ってきた怪異に気づかず、好き勝手させたのはあたしの責任だ。
「それに、黒い影を倒して颯爽と居なくなって。現実感が無くて怖くて、足が速い子って思うことにしていたの」
「あはは……! 野山を駆け回る野生児だったからね。って……今もじゃん」
一人ツッこみをして、バスの座席の背もたれにのけぞる。そんなあたしに白子が微笑みかける。
「人間……なんだよね」
「うん一応」
一応ってなんだ。人間だよって言いきっていいのに。
「ほんとだ、同じだ」
気がつくと、座席のクッションの上に置いていたあたしの手に、白子の手が重ねられていた。柔らかい指先を通じて、体温が伝わってくる。あたしの温度もきっと伝わっている。鼓動が跳ねるのを感じ、バスの揺れとともに手をひっこめた。
「こっ……! このあたりは田舎だから、妖怪やモノノケなんかがいるんだよ、わりと普通……に」
しどろもどろに答えつつ説得力の無さに声がフェードアウトする。
田舎だから妖怪がいるって、普通にいたら大変だけど。少なくともあたしは座敷童子と一緒に暮らしているし嘘じゃない。
物心ついた頃から、このあたりの集落や山はあたしの遊び場だった。この郷は『幻界』と呼ぶもうひとつの世界に接している。
現世と幻界、二つの世界の境界が曖昧な場所では時々、不思議なことが起こる。
人はそこで怪異かモノノケの姿を目にし、聞こえないはずの声を聞き、神隠しを経験する。
それらは遥かな昔から存在し、怪異譚として伝わっていくのだという。
幻界の存在を知っている郷の人、感じ取れる人なら摩訶不思議な現象をすぐに受け入れられる。
「そったらこともあるべな」と。
「さっきも学校のトイレで、黒い影みたいなのを追い払っちゃうんだもん。すごいなぁって思った」
「たまたまだよー。ああいうの平気なだけ」
時おり、そんな幻界の境界を越えて、迷い込んでくる。それは人だったり怪異だったり。
あたしはどちらかといえば、人間の悪意の事象である怪異から「もののけ」たちを守っている。
幻界の秘密を守る方法を、あたしはお父さんとお母さんから教えてもらった。亡くなった祖父母の代から、もっと前から代々ずっと続いている「おまじない」の方法を。
だから怪異が寄ってくるなら守ってあげる。
「すごい、本当に……」
白子が上気した顔でじっと見つめている。まるで運命の人を見るような瞳で。薄い黒ぶちメガネの奥で少し茜色を帯びた瞳が潤んでいる。
というか、ちょっとガン見すぎじゃなかろうか。さすがに照れる。
なんだか教室での雰囲気と違う。
二人がけの座席で距離が近いせいだろうか。積極的に話すし、あたしに対しては興味があるっぽい。
二人だけの世界に入りたい。そんな空気をひしひしと感じる。
「ありがとう」
「なになに? 今さら。気にしないで」
「こ……これからもよろしくね美馬さん」
「それはもちろん! ていうか美馬でいいよってば」
「さすがにちょっと恥ずかしいな……」
照れ臭そうに、嬉しそうに笑う。くそ、男子なら一発で好きになりそうな笑顔じゃん。
「ま、好きにしていいよ」
別に呼び捨てでいいのに。もう友達だし。
バスが停留場に停まる。
白子とはここでお別れだ。学校指定のリュックを背負い直すと、白子はバスを降りていった。
窓越しに「またあした」と手をふりあう。
傾いた夕日を背に、長い影を落とす。バスが見えなくなるまで、白子は小さく手をふっていた。
と、指にキラキラした糸が絡んでいた。
「……髪」
銀のような艶のある白子の髪の毛だった。
まるで蚕が吐き出す繭糸のように、それは細くて繊細だった。
◇
夕飯どき。
お母さんが料理をつくり、あたしが手伝う。
お母さんは今日は早番だったとかで、あたしよりも早く帰ってきていた。なのでトウタのスイーツは無し。すぐに夕飯が食べられるのは嬉しいけど。
「美馬姉ぇちゃん、ご飯多めね」
「盛り過ぎ! 太っちゃうじゃん」
弟のような座敷童子のトウタが、炊飯器から白いご飯を盛ってくれている。それにしても山盛りにしすぎだ。おかわりの手間が省けるけどさ。
「トウタも食べなよ、育ち盛りなんだから」
「えー茄子嫌いー」
「好き嫌いはゆるさんぞ」
お母さんがそういって肉と茄子の炒め物をテーブルの中央に置く。美味しそうで温かいご飯はなにより嬉しい。
「いただきます!」「「いただきます!」」と唱和して合唱してご飯を食べる。
お父さんもしばらくして帰ってきた。
しばらくしてお母さんが、学校のことを聞いてきた。いつものように適当に差し障りなく答える。
これでもあたしは親がウザい年頃で、反抗期の真っ只中なのだ。
「転校生、どうだ?」
「どうって……。クラスは大騒ぎだったけど、大人しくていい子だよ」
あたしと昔出会っていた、とかは面倒くさいので黙っていた。
「そっか、そうか」
「なによー! なにかあるの? 気になるじゃん」
お母さんが言葉を濁すときは、何かを知っているときだ。教えてくれないということは結構大事なことだ。
トウタがお父さんとお風呂に向かったスキに、台所で食器を片付け始めたお母さんの横にならぶ。
「……職場の噂で聞いたんだが、東京から隣の集落にきたその子な、向こうで酷くイジメられてたみたいなんだ……」
「えっ!?」
思わず息をのんだ。
「一年生の後半はほとんど家に引きこもっていたらしい」
聞きたくもない余計な情報だった。
けれど色々なことが腑に落ちた気がした。白子の緊張した面持ちや、ぎこちない必死さ。それでいて誰かと友達になることを怖がっているみたいな、空気。
授業の進捗が違っていたことも。考えてみれば日本全国、授業内容は同じはずなのに。
小さい頃、偶然にも知り合っていたあたしには心を許してくれたのだろうか。だって普通に微笑んでくれていた。でもあれは助けを求めすがりつく、そんな笑顔だったのだろうか。
「内緒だぞ。田舎の情報網はヤバイんだよ」
「ヤバイね。怖すぎ」
あたしは適当に誤魔化した。けれど内心は穏やかじゃなかった。噂話が本当なら、広がってしまうのは早い。
白子は闇を抱えている。
底知れぬ深い闇を。
孤独と不信。
それは澱のように溜まり、黒い影の糧になる。
「白子……」