プロローグ ~白子の夏休み
怖い「何か」に追いかけられた。
あれは忘れもしない、私が小学4年生の夏休み。得体の知れない黒い影に追い回された。
そこは訪れた母方の実家で、山奥の小さな集落だった。
森に囲まれた自然豊かな山里は、まるで別世界。ビルやマンションは皆無で、車の排気ガスや駅前の雑踏とも無縁。人の気配がほとんどしない不思議な場所に感じられた。
「わぁ……!」
空気がきれい! 景色がきれい!
都会育ちで喘息持ちの私には、天国に思えた。
民家もまばらで人影は無い。古いトタン屋根の建物が、山の斜面を切り崩したような場所にぽつぽつと立っているばかり。
段々畑の間を細い水路が流れ、丸太を横倒しにしただけの橋があちこちにかかっている。まるでアスレッチック公園のようで、私はテンションがあがっていた。
夏の日差しに輝く木々の緑、田んぼの泥と水の匂い。全てが眩しかった。
夢中になって小さな冒険を楽しんだ。道を唐突に横切るキジに驚き、道端で寝ている蛇に腰を抜かしながら。
そして私は蛇よりも怖い「何か」に出くわした。
気がつくと祖母の家からだいぶ離れた場所まで来てしまっていた。未舗装の細い道が森の奥へと続いている。道端には小さな石碑のようなものがひとつ。苔むしていて古く、難しい漢字が彫られていた。
――道祖神……?
どう、そ、じんと読むのだろうか。
ふと視線をずらしたとき、気がついてしまった。
「……ぁ」
黒くて得体の知れないモノが、石碑の後ろからじっ……と私を見ていることに。
顔も何も無い影のような存在。なのに「見ている」ということを直感した。
うるさかったセミの声が不意に消えた。
夏の陽炎が揺らぐ道ばたで私は立ち尽くした。
真夏なのに背筋に冷たいものが這う感覚がした。
石碑の後ろにいた影がゆらり……と動いた途端、わたしは駆け出していた。
走るのは苦手で運動なんて全然できないのに。そのときばかりは脱兎の勢いで逃げた。
「わわぁあっ!?」
振り返って思わず悲鳴を上げた。黒い影がまるで「逃げ水」のようにスルスルと追いかけてくる。理解できない何かが滑るように。
汗で張り付いた空色のワンピース。麦わら帽子を両手で押さえ、必死で走る。熱気をはらんだ濃密な夏の空気が重く、息が苦しかった。
「ぜぇ、ぜぇ……」
あえぐように見上げた空は薄紫色に霞んでいた。真っ青で入道雲が育っていたはずなのに。
黒い影はぴったりとついてくる。走っても走っても、悪夢の中でもがくように逃げきれない。
――怖い……!
もう限界と足を止めかけた、その時だった。
「こっち!」
声がした。
凛とした鈴のような、女の子の声が。
私は咄嗟に声のした道端の茂みに飛び込んだ。すっと熱気が遠ざかる。藪の中かと思ったけれど生け垣で囲まれたような小さな空間になっていた。
「あ……あの」
そこには女の子が一人、身をかがめていた。私の腕を掴んで、隠れるように促すと「しっ!」と唇に指をあてる。
その子の隣に並んでしゃがみ、茂みの中から道に視線を向ける。さっきの黒い影がゆっくりとウロついていた。
「綻から入ってきた」
「ほころび……?」
「昨日からこのあたりの結界が乱れててね」
難しいことを言っていて、私にはよくわからなかった。
「えりゃっ!」
女の子がポケットから何かをつかみ出し、道端の黒い影に向かって投げつけた。なんだか場違いな掛け声が可愛かった。
ぱらぱらと道端に散らばったのは、青い大豆のように見えた。
「お豆?」
「うん、魔滅」
カラスの羽音に似た音がした。黒い影は最初からいなかったように消えていた。もしかして影はカラスだったのかな?
「節分の豆まきみたいな……?」
「そ! 豆には祓う力があるって。お父さんが」
不思議だけどそういうこともあるんだと、素直に感心した。
「すごい……。ところでさっきの何? オバケ?」
「他所のヤマノケの一種かな。時々入ってくるけど。あ! あなたが美味しそうに見えたのかも」
「お、美味しそう……?」
女の子は大きな瞳で私を見て、にっと微笑んだ。
ぎょっとして身を引いてしまった。ちょっと変な怖い子? と思ってしまった。助けてくれた恩人なのに。
「じょーだんだよ!」
悪戯っぽい笑顔をうかべると、日焼けした顔に白い歯が眩しかった。
よくみると目のぱっちりとした可愛い子。長い栗色がかった髪の毛をポニーテールに結わえている。
服装は白い袖なしパーカーに、古い女児向けアニメのマスコットキャラが描かれたタンクトップ。ショートパンツから伸びた真っ黒に日焼けした脚、膝小僧に可愛い絆創膏。早く走れるタイプの運動靴。どうみても人間で、元気な普通の女の子っぽいことに私は心底ほっとした。
怖い影から私を助けてくれた女の子は、同い年ぐらいに思えた。
「立てる?」
「あ、うん」
私の腕を掴んだ手はとても熱かった。夏の日差しで火照った身体よりも熱を帯びているのが印象的。生きているエネルギーみたいなものに満ちている気がした。
「あたし、美馬!」
「みま? みまさん?」
どういう字を書くんだろう?
「そ、栗林美馬ね」
顔を近づけて、まじまじと見つめられた。恥ずかしい……! 顔が赤くなる。わりと甘い匂いがした。お菓子とは違う、甘く熟れた果実みたいな。
「あっ、えと私……白子。桑原しろこ」
「しろ! しろちゃん? 可愛い名前だね!」
「そ、そうかな」
そんなふうに言われると照れるし、困る。
色白で黒髪で名前もシロ。私はクラスのみんなから「日本人形っぽい」だの「根暗そう」だのと、いつもからかわれる。だからあまり白子という名前は好きじゃなかった。
「何年生?」
「四年」
「あ! あたしと同じー! え? 学校どこ? 綾織?」
みまと名乗った子は矢継ぎ早に話しかけてきた。人懐っこい笑顔と人見知りしない感じで、私とは正反対。
みまさんが言った綾織というのは、お婆ちゃんの家に来る途中、遠野の手前でみた気がした。大きな長者屋敷みたいな茅葺き屋根の建物の前にそんな看板があった。でもここからはだいぶ離れている。
「私、東京からきて……今は夏休みで、おばあちゃんちに」
「あー! そっかー、他所の子かー、色白だもんね」
なんだか勝手に納得されて、私はちょっとムッとした。
「……」
「あ、ごめん」
「いいよ、ほんとうに白いし」
「そうだこれ、食べる?」
みまさんは私に手のひらを向けた。小さな手のひらの上には黒い果実が載っていた。黒いつぶつぶに毛が生えたような、不気味な果実にぎょっとする。
「な、なにそれ」
「山桑の実だよ。知らないの? そこで採ったの」
「い、いらない」
「そお? 黒いのが熟れてて甘いんだよ」
口に放り込み、もぐもぐと食べた。
野生児だ……。
洗っていないのに食べて平気なのかな。お店で買ったものしか食べたことの無い私にとってそれは衝撃的な光景だった。
「ほら」
べぇと舌を出すと、舌全体が赤黒く染まっていた。
「ひゃぁ……」
手には赤い汁の跡もついている。みまさんは反対の手の指先に赤い汁をつけた。そして私の鼻先にちょん、と触れる。
「な、なに?」
「おまじない。無事に帰れるように」
「あ、ありがとう」
そういえばちゃんとお礼を言っていなかった。
助けてもらったのに。
なんだか不思議な子。
クラスにいそうな明るくて元気な女の子なのに、私の知らない何かを知っている。そんな不思議な空気をまとっていた。
「いけない! そろそろ帰らないと」
「あ、うん……私も」
ようやく気がついたけれど、そこはまるで熊の寝床のような、細い木々と草で囲まれた空間になっていた。
「そこ、まっすぐいけば帰れるよ。振り返らないでね」
「あ、ありがとう。みま……さん」
「美馬でいいよー! またね!」
「またね」
またね。
その言葉がとても嬉しく思えた。
夏休みでおばあちゃんの家に来ただけの私に、またね。なんて。
背中を押されるような感覚に、茂みから踏み出す。
途端にむっとした熱気に包まれた。ミーンミン、ジーワジーワと蝉の声がいっせいに耳に押し寄せてくる。
「……あ、あれ?」
そこはお婆ちゃんの家を見下ろす裏側の山だった。塗装の剥げかけた青い屋根が目の前にある。小さな道がお婆ちゃんの裏手の畑へ続いている。
はっとして私はふりかえった。
草木の生い茂った暗がりは確かにあった。けれどそこは何の変哲もない草むらのような場所で、赤い帽子を被ったお地蔵さまがひとつ。小さな山道がさらに奥へと続いていた。
みまさんの姿は見えなくなっていた。
走って帰ったのかな?
それとも、みまさんも幻だった?
……まさかね。
お婆ちゃんの家に帰り着くなり、私の顔を見て驚かれた。
「あんれ? 狐みてぇだぁ、鼻先に赤い汁つけてぇ」
あのときの桑の実の汁だ。
やっぱりみまさんはいた。
けれど。
みまさんから聞いた名字、栗林。その屋号の家は、祖母の家から更に山を二つも越えた、裏附馬牛集落にしか存在しないことを教えられ、すごく驚いたのを覚えている。
きっとみまさんはすごく足の速い子なんだ。野生児で野山を駆け回り、お化けにも負けない子。
すこし不思議な夏休みの体験は、拾った宝物のように心の奥底で密かに輝きを放ち続けた。
そして月日が流れ、私が中学一年生の最後の月。
父の仕事の都合で転勤になり、一家で再び祖母の古びた家へと引っ越すことになった。懐かしい夏休みの思いでの地。
遠野――と呼ばれる山あいの郷へ。
◇