第31話:オリエン海溝
「この辺りは恐らく、オリエン海溝ね。海底の谷間よ」
「海溝・・・!?」
シンクタニアのメイミスと別れた後、オリエントルカに陸と反対方向に連れて来られて、止まった所で彼らの水操術で海水が掻き分けられ船が下に向かい始めた。
エルダによると、オリエン海溝というのがある場所らしい。海溝と言えばあれか、海の中で部分的に深くなってる場所だ。もう既に船は、水面が遠くで点になるほど深い位置まで来た。
「じゃあ、これって」
「ええ。もっと深くまで行くわよ。水深は1万メートルはあるから」
「1万・・・!」
そんなにあるのか。もうどんな深さなのか想像できないな。10キロと言われたら大したことなさそうにも聞こえるけど、富士山でも4キロはないし、高さとか深さで何キロとか言われてもイメージしにくい。もう、日の光も届かなくなって暗くなってきた。自分の手の輪郭を捉えるのがやっとだ。
「うおっ、と」
揺れが大きくなってきた。加速したみたいだ。速いし暗いしで水の中は見えないけど、オリエントルカたちもついて来てるんだろうな。
「凄いわね。海溝に行けるなんて、夢にも思ってなかったわ。これだけの数がいるからできるのでしょうけれど」
そっか。1人じゃなきゃ交代しながら水操術使えるからな。でもこれは凄い。
「エルダ何人分なんだ・・・?」
「・・・その言い方、やめてもらえるかしら」
「すまん、つい」
「全く・・・」
でも怖いんだぞ。水を自由に操れてクマとかシャチと戦えるやつがいるなんて。こっちの気持ちも分かって欲しい。
「でも驚いたわ。彼ら、気圧までコントロールできるようね」
「気圧?」
「ええ。山に登ると気圧が落ちるのと反対に、地下深くに行くほど気圧は上がるわ。急激な気圧変化は爆風を受けるのと同じだから、私たちがぺしゃんこになってしまわないように調整してくれてるみたい」
「マジか」
凄ぇな、そんなことまでできるのか。
「って、水操術で何で空気まで操れるんだよ?」
「水操術は、個々人の能力と物質の水虹密度の兼ね合いで決まるのよ。水虹は全ての物質にあるのだから空気にもある。彼らの手にかかれば、これさえもできるってことね。私が100人集まったって無理だわ」
「悪かったって・・・」
もう真っ暗で何も見えないけど、明らかに咎めるような言い方をされた。根に持たないでくれよ。エルダ、怖いんだから。
「てことは、水圧も?」
「それこそお手の物でしょうね。泳ぎながら水圧を落とすことぐらい、私にもできるわ。ここまで潜って来れる体力が持てば、の話だけれど」
愚問だったか。水の専門家だもんな、こいつら。
「けれど、まさか気圧までだなんて・・・。本当に凄いことよこれは」
負けを認めざるを得ない、ってことか。この一言だけは、やけに重く聞こえた。
7~8分ぐらいしたところで減速し始めて、やがてゆっくりになり、完全に止まった。着いたんだと思うけど、相変わらず真っ暗だ。
「照明を点けましょうか」
ぱちっ。
いつの間にかエルダは部屋の方にいて、そこの明かりを点けた。おお、見える。海の水が壁になってるのしか見えないけど。
「よく真っ暗のままそこまで行けたな・・・」
「毎日乗っている船だもの」
エルダなら距離感ぐらい掴んでるか。
「本当に海溝の底まで来たのね」
事前に水操術で船の下に残った水の深さを確かめたんだろうけど、エルダがランプ片手に船から降りた。普通に胸ぐらいまで浸かって、ランプは顔の横でぶら下げてる。
「ここまで来たのはいいけど、どうすればいいんだ?」
「さあ。まだどこかに案内してくれると思うけれど」
と言ったそばから、海の壁が右側だけ横に掃けて行った。するとその先に、ゴツゴツした岩肌が姿を見せた。人が入れるぐらいの亀裂と一緒に。
「これは・・・?」
呟いてみたけど、答えなんて分かってる。
「ここへ行け、ということね」
「だな」
船からの明かりで、海の壁の内側を泳ぐオリエントルカの影が見える。水面から顔を出したりはしないけど、とにかく行ってみろってことだろう。
岩はかなりデカいみたいだ。岩と言うより壁に近い。そこにある海底洞窟に、シンクタニアがオリエントルカの力を借りて、何かを保管したってことか。
船からその入口まで5メートルぐらいあるから、仕方なく一旦水入って泳ぐ。足が下に着くから、蹴れば上がるのも簡単だ。たった5メートルのためにズブ濡れになったけど。
「うお・・・なんか寒いな」
「我慢なさい」
はいはい。
エルダのランプの明かりを頼りに進む。洞窟の中も水は掃けていて、普通に歩けた。5秒か10秒ぐらいですぐ、広い空間に出た。
「あれは・・・」
ご丁寧に、一番奥に石碑があった。
「分かりやすくていいわね」
こんな場所、オリエントルカの力を借りないと来れないからな。隠す必要さえないんだろう。ポタ、ポタ、ポタと、天井から水が滴り落ちる中を進む。普段は完全に水没してるんだろう。石碑の所まで着いて、2人で覗き込む。
「ちょっと長いわね」
縦80センチ横60センチぐらいの石碑には、文字は大きめだけど10行以上の長い文章が書かれていた。
「何て書いてあるんだ?」
「読み上げるわね・・・“遠き彼方の世界より、その身に虹を持たぬ者現れる”」
「これか。フィンデルが言ってたやつ」
「でしょうね」
シンクタウンのやつが初っ端から“虹無き者”で始まったから、聞いたらこういう文言で始まるやつがどこかにあるって話だった。それがここだったんだな。
「続きを読むわね。・・・“人のみならず、獣、魚、草、他種の生物にも現れる”」
「え・・・!?」
他種の生物・・・!?
「・・・つまり、無虹人と同じように、動物や植物にも体内に水虹を持たないものが現れたということね」
マジかよ・・・。
「人が無虹人なら、他の生物は無虹生物といったところかしら」
「それは良いけど、なんで人以外も?」
「何故でしょうね・・・無虹人や無虹生物に何らかの力があったとして、動物ならまだしも植物が意志を持って使うことができるとは思えないわ」
「だよな・・・」
わっかんねー。なんで、植物も?
「メイミスが言ったように、ただ生きてるだけで役割を果たせるとか?」
「有り得るけれど、協力者が必要とも言っていたわ」
「う~~~~ん」
ダメだ。煮詰まる。
「ここで考えていても仕方ないわ。これが大きな手掛かりになことは間違いないけれど、続きはもうひとつの手掛かり、オリエントルカが狙ったターボドライバを調べてから考えましょう。彼らが特定のものを狙って攻撃したのは、確実に何か意味があるわ」
「だ、な」
与えられたヒントだけじゃ分からないなら、別のヒントも手に入れることを考えよう。幸いにもアテが既にある。
「戻りましょう。彼らを待たせているわ」
洞窟を後にして、船の方に戻る。オリエントルカたちは律儀に待っていた。船に乗り、エルダが「ありがとう。帰り道もよろしくね」と言うと、彼らの力で船が浮上を始めた。深い深い海の底から、地上を目指す。今までの池とか湖は見上げれば光が見えたのに、ここからだと真っ暗だ。
10分ぐらいで青空の下に戻って来れた。日は傾きかけてるけど、普通にまだ明るい。なんか、シャバに戻って来たって感じがする。
「帰りも3日掛かるのかー」
オリエントルカが船を動かしてくれるけど、3日かー。
「いいんじゃない? そのあいだは彼らと触れ合いましょう。滅多に会えるものではないんだから」
俺らの周りには、10頭を超えるオリエントルカ。海溝に潜ってた頃は100以上いたけど、いつの間にか減っていた。何も言わずに立ち去るなんて、クールなやつらだな。
風は穏やか。四方八方見渡す限りの水平線。霧もなくて凄い良い景色だ。そういえば、あの時の霧ってオリエントルカが作ってたんだよな。
「水操術ってすげぇよな。波だけじゃなくて、霧まで作れちまうなんて」
「霧というのは、空気中に微小な水滴が漂うことで起こるものよ。だから、海の水を細かい水しぶきにして大量に放出すれば人工的にできるわ」
「人工的にって・・・」
もちろん水操術が使えることが前提になる。
「じゃあ、自然にできるものは?」
「自然にできる霧は、空気中に含まれてる水蒸気が液化したものよ。空気が含むことができる水蒸気量には限界があって、気温が下がるとその限界値も下がるから、それで限界を超えてしまった分は水滴になるの」
「あぁー」
空気が含むことができる水蒸気・・・そういやそんなこと学校で習った気がするな。限界を超えると水滴ができるんだっけ。寒いとそのキャパが減るって話もあったかも。言われてようやく思い出したけど、学者ってのは常にこういうのが頭に入ってるのか。
「例えを言うなら、冷たいものから湯気のようなものが出ることがあるでしょう。あれは局所的に空気が冷えるから起きるもので、あれがそのまま大きくなったものが霧よ」
「あ、そうなのか」
じゃあドライアイスとかから出てるあれって小さい霧みたいなもんなのか。
「ん、待てよ。でも何で空気の中に水蒸気があるんだ? 100℃より下だと普通の水にならないのか?」
「良い質問ね」
エルダが正に、その台詞ピッタリの笑みを見せた。
「ん、あれ・・・?」
聞いてみて思ったけど、その辺に放置してる水って蒸発するよな。そもそもあれって何でなんだっけ。空気が水蒸気を含むことができるからか。いや待て、じゃあ何で空気は20℃とか30℃でも中に水蒸気があるんだ? やばい、考えたらワケわかんなくなってきた。
「んっふふ。迷宮入りかしら?」
エルダがニヤニヤし出した。これは、あれだ。俺が考えて辿り着けるような単純な答えじゃない。俺が諦めたのを感じ取ったのか、エルダが先生のように指を立てて説明を始めた。
「沸点が圧力によって変わるのは、知っているかしら」
「あ、ああ」
富士山に登ると80度台で沸騰するから美味いご飯が炊けないって話はたまに聞く。
「ということは、沸点が20度になる圧力が存在してもおかしくないわよね?」
「そうだな」
どこまで高いとこに行けばいいか分かんないけど。
「通常、水の沸点が100度である圧力は大体100キロパスカルよ。ここの大気圧ね」
「100キロパスカル・・・? ヘクトパスカルとどう違うんだ?」
いつも天気予報で聞くのがそっちなんだけど。
「ヘクトパスカル? 100キロパスカルは1000ヘクトパスカルよ」
「あ、いつも聞く数字だ」
「ふ~~ん。珍しいのを使うのね」
「え」
マジか。でもそっか、こっちの世界、天気予報とかないのか。
「話を戻すけれど、水の沸点が100度になる圧力は100キロパスカル。考え方としては逆で、ここの大気圧に相当する100キロパスカルでの沸点が100度なのよ」
なるほどな。俺たちが普段いる場所での沸点が100度ってだけか。
「圧力を下げれば沸点も下がるんだよな。どこまで下げれば20度になるんだ?」
「2キロパスカル」
「ちっさ!」
どこまで上空に行けばいいんだよ!
「ますます分かんないぞ。どうすりゃ20度の空気の中に水蒸気が入るんだよ」
「空気が、窒素や酸素、そのほか色んなものの混合気体であることを知ってるわよね?」
「まあ、そりゃあ」
窒素と酸素が8:2で、あとは二酸化炭素とかもあるんだよな。
「その中に水蒸気もあるって言ってるんだろ?」
「そうよ。でもそれが、100キロパスカルではないの」
「はぁ?」
何言ってんだ? 空気は100キロパスカルじゃないのか? そんな俺の考えを見透かしてるであろうエルダが、淡々と話を続ける。
「混合気体の圧力は、そこに含まれてる成分ごとの圧力の足し算なの」
「え」
それを聞いて固まってしまった。なんか、決定的な勘違いをしてたみたいだ。
「成分ごとの圧力を分圧と呼ぶのだけれど、その合計が混合気体全体の圧力になるのよ」
「そうなのか。じゃあ・・・」
窒素とか酸素とか全部の圧力を足したのが100キロパスカルってことか。
「私たちが日ごろ空気から受けている100キロパスカルのうち、窒素が78キロパスカルで酸素が21キロパスカル。残りの1キロパスカルが、その他もろもろよ」
「ってことは・・・!」
「空気中に含まれてる水蒸気の圧力は1キロパスカルもないの。だから20度でも水蒸気が存在するのよ」
「そうだったのか・・・」
知らなかった。授業で習ったっけ。忘れただけか?
「水があると揮発して水蒸気量が増えていくのだけれど、それに比例して分圧も増えるわ。そして20度だと、2キロパスカルになるまでは水蒸気を含むことができるの。これが5度になると1キロパスカルを下回ってくる。気温が低いほど霧ができやすくなるのはこのためよ」
「でも、水操術を使えば20度でも30度でも霧を作れるってことか」
「そ。彼らがやったようにね」
エルダが周りのオリエントルカたちを見渡し、俺もつられて見る。シャチがマジで水操術使うんだもんなあ・・・サルの時点でビビったけど。
「さあ、夕食にしましょう。食材は豊富よ」
エルダはそう言って海に飛び込んだ。確かに食材は豊富だけど、魚しかないぞ・・・。
次回:ターボドライバの真実