第26話:クレバス
「これは・・・・・・クレバスね」
氷河を歩いていると大きな亀裂が入っているのが見つかり、近付いてみると底が見えないほど深かった。
「クレバス・・・」
聞いたことあるぞ。たまに、事故があったってニュースを見る。落ちるとヤバいやつだ。
「どこまであんだよこれ・・・」
確かに、生きて帰れる気はしない。幅こそ2メートルないぐらいだけど、細いことが却って底なし感を演出している。飛び越せる距離のはずなのに、これを飛ぶ勇気は絞り出せない。
「暗いのは、細いから光が届かないせいだとは思うけれど・・・」
それにしても深いわね、と言いたげな様子だった。でもあんまり怖がってるようには見えない。むしろ興味津々のように見える。そう思った瞬間、背筋がゾワッとした。寒いせいだろう。きっと寒いせいだろう。
エルダが、こっちを見た。旅行ガイドにある絶景スポットの写真を見た直後のような目だった。少なくとも、底なしの地割れを前にしてするような顔ではない。
「降りてみましょうか?」
「・・・・・・」
予感はしてた。こういう予感は本当によく当たる。底なしの地割れの恐怖に目が眩むエルダではない。底なしの地割れそのものに目が眩んで行きたがるのがエルダだ。
「大丈夫よ。崖をつかみながら降りましょうなんてことは言わないわ」
普通は“降りましょう”なんてこと自体を言わないんだよ・・・。
「で、どうやって降りるんだよ」
「こうやってよ」
エルダはしゃがんで、割れてるすぐそばのところに手を置いた。どうするつもりだと思った瞬間、ピキッ、というのを通り越して、ドゴゴゴッという鈍い音がして、エルダの手より先で広範囲にわたってヒビが入った。あのまま割れれば、クレバスの幅が広がる。
ドゴゴ、ドゴゴゴゴゴと、まだまだ音を立てていく。どこまで割るつもりなんだ。
「スーーーーーーッ、フゥッ」
エルダが気合を入れた瞬間、ヒビの入ってた部分がドガッと一気にバラバラなって崩壊した。土砂崩れの土砂のようになり、轟音を立てて落ちていくのを覚悟したけど、エルダが水操術を使ったのか糸で吊られたようにゆっくりと下へと向かい、闇へと消えた。
そして、エルダが崩した部分には、階段が残っていた。
「うお・・・」
うお、としか言いようがなかった。何をするのかと思えば、こういうことか。確かにこれなら、クライミングなんてできなくても、普通に降りて行ける。階段の幅は1メートルぐらいだけど、優しいことに崖側には手すりを残してくれた。
「はぁ、はぁ・・・・・・。さあ、行きましょう」
「あ、ああ」
ここまでしてもらえれば、さすがに俺でも行ける。あとエルダ、ちょっと息切れしてるな。底の見えない氷の崖で階段の彫刻を作ったんだから、当然か。長さは目に見えるだけでも何十メートルかはある。
「深さは、だいたい25メートルかしらね。下ろした氷がそれくらいで着地したわ」
一応、底はあったらしい。25メートルって言うと・・・3階建ての学校の高さが10メートルはあるって話だから、その倍以上か。ビルの7階か8階から1階まで降りる階段を作ったってことだな。そりゃすげぇ。
手すりがあるとは言え、1段ずつ慎重に下りていく。にしても暗いな・・・。8階建てのビルが2メートル足らずの隙間で並んでて、その壁面が何百メートルも続いてたら、こうもなるのかな。クレバスの崖面はゴツゴツもしてるし。
ついに自分たちの場所も暗くなってきて、俺のリュックからランプを取り出した。なるほど、まだまだ下に続いてる。
5分ぐらいかけて、ようやく下り終えた。当然だけど、両側に氷の壁がそびえ立っている。見上げた先の光は、ごくわずか。崖面の至るところにでっぱりがあって、ちょっと光が漏れてきてる程度だ。
「どっちにしましょうか・・・」
エルダが前と後ろ、交互に目を向ける。
「こっちにしましょう」
エルダが指差したのは、階段を下りてきた向きまんま。
「山頂に近付く方向に行ってみましょう」
「だな」
進行方向的にはそっちが前だ。ランプの明かりで壁と足元を照らし、進む。とくに何もない。エルダが壁を削って氷を採取した程度だ。
当然ながら壁に挟まれた道を歩くことになるけど、途中で“く”の字に曲がっていた。角度的には“く”よりも緩かったけど。
そんな感じでジグザグに進みつつ、15分ぐらい歩いた頃だろうか。不意に、両サイドの崖の感覚が広がった。
「ここは・・・?」
崖の感覚が広がる割には、暗いままだった。それもそのはず。いつの間にか上が塞がれていて、洞窟になっていた。ランプの明かりしかないから距離感がつかみにくいけど、教室を縦に2つ並べたぐらいはあるだろうか。
「何かしら・・・偶然できたもの?」
分からない。未知の多い自然のことだから、こういう空間が偶然できることもあるかも知れない。あるいは、俺たちのようにここへ来た誰かが、休憩のために作ったのかも知れない。エルダ並みに水操術が使える人なら、これくらいのことはできるだろう。
とりあえず左の壁に沿って進むと、エルダがふらりと離れ始めて、それぞれウロつく格好になった。ランプは俺しか持ってないけど、明かりは一応奥まで届いてるみたいだしエルダは目も良いんだろう。
壁を触ったり、時には周りを見たりしながら歩いてると、先に一番奥に着いたエルダが声を出した。
「何か、書いてあるわ」
「え?」
俺もそっちの方へと向かう。
「この文字は・・・ゾナ湿地林やシンクタウンと同じね」
「マジか。ってことは」
「昔のシンクタニアが遺したもの、でしょうね」
なんと。こんな所にもあったのか。いやむしろ、こんな所だからこそかも知れないな。クレバスを降りてみようだなんて、普通は考えない。考えたとして、実行に移せるのはほんのひと握りだ。安全な道を作るのはエルダでさえ息切れした。
「何て書いてあるんだ?」
「読むわね。・・・“虹無き結晶を生み出すこと、叶わず。我ら、虹の結晶を作り続けた”」
虹無き、結晶・・・? そして、虹の結晶。
「後半の方は、水虹結晶か?」
「でしょうね。そして、前半の“虹無き結晶”・・・これは、無虹水を常温で凝固させたもの、かしら」
「無虹水を常温で?」
「あくまで、予想に過ぎないけれど」
無虹水と言えば、水虹結晶を作ったあとで残る、水虹の無い水。
「水虹結晶ってのが、水虹のお陰で常温でも氷になってるものなんだよな」
「ええ。水虹同士の結合が強くて、実質的に融点が高い状態になるから」
ってことは、無虹水で常温の氷を作るなんてことは無理だ。もちろん、試さなければ不可能は証明できないけど。
「物質は普通、圧力をかけるほど融点が上がるから、昔の人はそれで無虹水の常温固体ができると思ったのじゃないかしら。けれど水は、圧力をかけるほど融点が下がって、凝固しにくくなるのよ」
「それじゃあ、できない訳だな。なんで水って普通とは違うんだっけ」
「水素の関わる結合が一定の距離を必要とするもので、それを強引に詰めると崩れやすくなるという予測になっているわ。もっともこれは、圧力をかけるほど融点が下がるという事実から立てたモデルだけれど」
「そっか、事実が先にあるんだよな」
やってみた、実際はこうだった、だからこういう理屈のはずだ、の順番か。
「でも何で、無虹水で常温の氷を作ろうとしたんだ?」
水虹結晶を作るのでもいい気がする。水操術で疲れることにはなるけど・・・あ、それがそのまま答えか。
「水虹菅の整備が困難を極めたのでしょう。あの量の水虹結晶を作るのはかなりの労力になるわ。
山ほど余る無虹水も活用したかったでしょうし、無虹水には水操術が使えないから機械に頼らざるを得なくなる。それは逆に水操術を使わずに済むということ。それでやってはみたけれど、結局はできなかったということね」
「なるほどな」
水操術の使い過ぎでバタバタと人が倒れて、死者も多く出たって話だ。他の手段を使いたくもなる。
「無虹水でも常温の氷、できれば良かったんだけどな・・・」
「そうでもないわよ」
「え?」
エルダはあっさりとそう言い放った。何でだ?
「水虹菅が400年ものあいだ壊れずにいるのは、あれが水虹結晶だからよ。水虹同士の結合が強いから、割れたりしないの。無虹水で同じ形のものが作れたとしても、あんな宙づりの状態で中に水も流したら、1年もしないうちに崩れるわよ」
「う・・・確かに」
仮に、この世界が常にマイナス温度だったとして、氷のパイプが数十メートルおきの支えだけで宙を巡ってたら、絶対にいつか壊れる。初めから、無理な話だっただな。
「もちろん、近距離用だけにそれを整備する、というやり方はあるかも知れないけれど」
「水虹結晶だけを作りまくるよりはマシ、か」
いずれにせよできなかった訳で、ちょっと、悲しいな。昔の人にどうこう言ってもしょうがないけど、そんな無茶することもなかっただろうに。ここまで考えて、ふと思った。
「なあ、昔にあった“災い”って、水操術の使い過ぎで犠牲が出たことそのものだったりしないか・・・?」
世界中の人が次々に倒れたんなら、それだけで十分に災いと呼べる領域にあると思う。
「その可能性も、もちろんゼロではないわ」
“ゼロではない”ってことは、可能性は低いってことか。
「けれどそうだったとして、その原因を隠す理由があるかしら。西の彼方に封じたとされる技術も謎のままだわ」
「そっか・・・」
水操術の使い過ぎに気を付けろってのは、むしろみんなに伝えていくべきことだ。そして封印された技術とやらの説明もできない。
「そもそもその技術って何なんだろうな。もしかして、人の水虹の流れを乱すようなのを作っちまった、とか・・・?」
どうにも、水操術の使い過ぎで倒れたのと“災い”ってやつが、無関係とも思えないんだよな。根拠は無いけど。
「それは・・・有り得るかも知れないわね。水虹菅の建設と関係があるかは別として、もし、体内の水虹循環に干渉するようなものが作られたとしたら、正に禁忌よ。封印したくなる気持ちも分かるわ」
嬉しいことに、今度はエルダにも否定されなかった。もちろんこれが答えという断定もできないから、2人して難しい顔をするしかないけど。
ちょっとした沈黙になったけど、考えてても仕方がないといった感じでエルダが切り出した。
「終点まで来たし、思わぬ収穫もあったから地上に戻りましょうか」
「だな」
風がない分だけ体感温度は高いからまたここでお湯休憩をして、洞窟を出て5分ぐらい歩いたところでまたエルダが階段を作って上に上がった。
「もう1時間ほど散策したら、帰りましょう」
日没が遅いこともあって、5時に迫ってるけど日はまだ高い。船までの道は1時間半か2時間だけど、十分に余裕がある。せっかくの氷河だ、もうちょっと歩こう。
景色は目新しいものがありつつも、さすがにさっきの洞窟のようなものはなく、特筆すべきものはないままに、いよいよ山頂への険しい道に差し掛かるというところまで来た。坂の角度がえげつない。
「この辺りまでにしましょうか」
「ふいぃ~~~っ」
結構なレベルで疲れたぞ。さすがに今からこれを登る体力はない。体力があったとして素人には無謀過ぎる。
基本は来た道の引き返しで、氷河そのものが広いから往路とは別の場所を歩きながら、くだり始めた。で、いきなり足を滑らせた。
「おわっ」
セーーーフ。なんとか足だけで耐えきった。
「くだりの方が踏み外しやすいから、気を付けてね」
全くだ。いっそのことスイーッと滑って行きたい気もするけど、それができるほどツルツルでもないんだよな。もちろんスキー板なんてものもない。あったとして俺にスキーはできない。あ、ソリなら・・・ソリで滑るには角度が足りないか。
「そういえば水操術って、雪は動かせるのか?」
「動かせると聞いているわよ。あいにく私は雪を見たことがないけれど」
あ、そっか。エルダもこんな北まで来るのは初めてか。クロスルートは赤道付近だし、エルダの故郷はそれよりも南側だっけ。
「けれど、風に流されやすいから、それに逆らう力を使う分は疲れやすいという話ね」
「なるほど・・・」
雪ってフワフワしてるから操りやすそうだけど、そのフワフワが仇になって風と戦うことになるのか。
「せっかくなら、冬に来れば良かったんじゃないのか?」
そしたら雪も見れただろうに。
「オズパーシーまでならそれでも良かったのだけれどね・・・ここ、夏でもこの寒さよ」
「あ」
そうだった。今日、生きて帰って来れたのは、夏だったからだ。冬場は問答無用の吹雪で、マイナス何十度とかでもおかしくない。
「それに、日照時間も短いわ。午後3時には日没ね」
「うお・・・」
そういう意味でも、冬にここの散策は無理なのか。3時に日没ってことは、日の出は9時か? エルダは狙って、この時期にここに来たってことか。話を聞かされた今なら、俺でもそう考える。
途中でお湯休憩も挟んだりして、8時過ぎには船に戻って来れた。早速部屋に入って水ストーブをオン。水虹と金属の反応は早く、1分もしないうちに暖を取れるようになった。部屋全体も少しずつあったかくなっていく。
エルダが採取した氷河の欠片は、それぞれ別々の皿に移して自然解凍した。結果として、「どれも大体同じね。他の土地で降る雨ともあまり変わらないわ」とのことだった。氷河は雪が固まったものらしいからな。
晩飯のスープを飲みながら、これからのことを聞いた。
「次はどこに行くんだ?」
「いよいよ大陸の東側に入るわ。最初にある街は、首都クロスルートの次に大きな街・マリンダースよ」
次回:第2の都市マリンダース




