命を救われる
川の水を飲み空腹を我慢し、雨が降っても街道沿いにある宿の軒下すら借りられず、それどころか視界に入る場所にいる事すら拒否され、誰もいない森の木の下でたびたび耳に入る、聞いたこともない動物の声に怯えながら夜を明かした。
空腹にお腹は痛み、肌は荒れ、生気を失い、視界は度々霞む。
服はすっかり汚れだらけ、身体が重い。
俺はひたすら東へと進む。
「帰りたい……」
歩きながら呟く。
もう何日水で空腹を我慢して歩いているのだろう。
顔はやつれ、靴もすっかり泥だらけだ。
「帰りたい……日本に……帰りたい……」
朦朧とした意識の中、それでも俺の歩みは止まらない。
東へ行けばきっと、きっと日本にたどり着く。
この異世界に日本はなくいくら東に向かっても目的地に着くことはない。
冷静に考えればわかることすらもう判断出来なくなっていた。
何度太陽が昇っては沈むのを見ただろう。
何度雨に打たれては身体を冷やし、咳き込み地面に突っ伏しただろう。
燃えるような太陽が中天に登ったある日、遂に地面から起き上がることが出来なくなっていた。
瞼は重く、指先一つまともに動かせない。
頭の中はぼんやりとして、それでも身体が止まってくれたおかげなのか頭だけは久しぶりに動いた。
まるで歯車が故障前の少しの間だけは正常に戻るような、もうすぐ壊れる直前のような。
俺……死ぬのかな……。
アカデミーでの数か月が頭の中を駆け巡る。
そして、次にどこかで見たことのある景色が見えてきて、更には見たことのある会話が頭の中で再生される。
それはここじゃない世界の記憶だ。
日本にいた頃からあまり優秀な人間じゃなかったし友達作りも苦手だった。
友達が二人いれば自分を嫌う人間が必ず三人以上いて結局上手くいかなくて孤立したりもする。
仲の良かったレナ、そして俺を嫌っていたであろうサクマや他の人間の顔が浮かぶ。
せっかく異世界に転生したのに、自分は変わらない。あっけなく二度目の死を迎えるのか。
記憶が戻ったってのに全く嬉しくない。
こんな記憶なら思い出さなくて良かった。
涙も枯れ果てた。眠気が襲ってくる。
少し休もう。
俺は目を瞑った。
「……て」
…………。
「…………」
身体が、揺れている気がした。
「……さい」
声が聞こえた。まさか。あの神様の少女か?
「……て……さい」
「う……」
「あぁ、気が付きましたか」
喉を水が通る。
ゆっくりとそれは口元に当たる筒のようなものから注がれてくる。
「げほっ!」
思わず吐き出してしまった。
「ゆっくりでいいです、さあ……」
どこか幼い声が耳に入る。
「ああ、やっと目を開けてくださいました」
目を開けると黄金色が目に入った。
「ぼろぼろなのでもう死んでいるかと思いました」
少女は笑った。
可愛らしい少女だ。歳は自分より少し下だろうか。綺麗な金色の髪に青い瞳、ピンク色のひらひらとしたドレスを着ている。気品があり、貴族令嬢のようだ。
水が美味しい……。暫く飲み続けてようやく少し落ち着いた。
「……生きてる」
「はい、生きております」
まだまだ喉に水分が足りないのか、がらがらの声で問いかけると、少女は嬉しそうに笑いながら肯定する。その笑顔は綺麗だ。
「リヒト、何か食べ物を」
「失礼ですがお嬢様、この者の身なりを見る限り間違いなくこの国の人間ではありません、西方からの……それでも食べ物を与えるつもりですか?」
甲冑を身に纏った初老の男が来る。
眼光は鋭く熟練の騎士のように見える。
「リヒト、ここはルグナ王国、私達の国である上に父様の領地です。そこで死にかけている方をまさか見捨てろと言うのですか?」
「……分かりました、馬車に非常食が置いてあるはずです。すぐに持ってきます」
声が遠ざかっていく。
俺は少女を見た。
「なんで俺なんかを……俺はこの国の人間じゃないのに。……どうして?」
少女は先ほどの凛とした表情から年相応の笑顔を見せた。
「いえ、この国の人間であるかどうかじゃないのです。偶然目に入っただけですが、今にも死にそうな人間を見捨てる。それが嫌なだけなのです。それに、あなたは害を為しそうな人間にも見えないですしそれに……」
それだけ言い、少女は笑う。
「お嬢様、持ってきました。場所を代わってください。私が彼に与えます」
先ほどの甲冑の男が近づいてきたが、少女はパンを受け取るだけで決して動かない。
「お嬢様」
「リヒト、この者は私が見つけ、私が水を与えました。それなのにどうして最後まで面倒を見せてもらえないのですか? 物事は中途半端ではいけない。そうでしょう?」
溜息が聞こえた気がした。
「……お好きに」
男は諦め下がっていく。
少女は男が持ってきたパンをゆっくりと俺の口元に持ってくる。
「ゆっくり食べてください、恥ずかしい所を見せてしまいました」
少女は言いながら苦笑する。
言葉を聞きながら俺はゆっくりと噛んで柔らかくしたパンを飲み込んだ。
身震いした、ただのパンがこんなに美味しいなんて……我慢していた涙が頬を伝う。
このままもう一度死んでしまうと思っていた。
少女は情けなく泣いている俺を見て目を細める。
俺はようやく少しだけ動くようになった片腕で頬を流れる涙をぬぐう
「……ありがとうございます、助かりました」
息を吐きながらささやくようにいう俺に少女は嬉しそうな笑みを浮かべる。
そして、ぐっと耳元に顔を近づけ、小さな声で呟いた。
「ではガレリアからの旅人さん、どうして我が国に来たのか、何故こんな場所で死にかけていたのかは問いません。しかし、もしこのささやかな恩を返したいと思うのでしたら……いつか私が困ったときに助けに来てください」
『かの者に安らかな眠りを』
【スリープ】
緑の半透明な膜が眼前に下がってきたと思った直後、段々と瞼が降りてきて、意識が遠のいていく。
「お嬢様、どうするおつもりですか? まさか連れ帰ったりは……」
「いえ、ファナの宿が近いのでそこへ」
「それが良いでしょうな」
あれから一週間が経過した。
カーテンを開くと眩しい位の陽光が俺の身体を覆う。
ここは街道沿いにある宿屋。
ガレリア帝国内ではなく、『ルグナ王国』という大陸の東側にある国の領土内だ。東を目指して進んでいるうちにいつの間にか領土に入ってしまっていたようだ。
ちなみに俺を助けてくれた彼女達は、眠っている俺をこの宿屋に預けてそのまま去って行ってしまった。
広間に向かうと宿の主人が食事の準備をしていた。
主人というには大分若く綺麗な女性だ。
年齢を聞くことは出来ないでいる。
セミロングの赤い髪をおろした姿は穏やかそうな容姿と相まって似合い過ぎている。
名はファナという。
「おはようございますハヤトさん。身体の調子はどうですか?」
恭しい言葉遣いと共にほんわかとした笑みを浮かべる。
「はい、調子は良好です。それにしてもすいません、こんなに世話になってしまって」
食事は勿論の事、服も靴も新調してもらった。申し訳ない。
「いえいえ、ルグナの人間は困った人間を放っておくことが出来ないですからね。それに、ハヤトさんに失礼があったらリア様にどんな顔で謁見すればいいか」
さあとファナが出来上がった料理を机の上に置いて座るように言ってくるため、勧められるがままに座った。
「リア様?」
「そうですよ、黙っていましたがあなたを連れてきたのはリア様とその護衛の方々です。レイル・ローファス伯爵の令嬢であるリア様は御年十歳になる方です。家はリア様の兄であるナフタ様が継ぐとの事ですがその割には縁談もレイル様が断っているようで」
「え、十歳ですよね? もう縁談の話ですか?」
「そうですよ、貴族でしたら子供の頃から結婚相手が決まっている方もいますよ。ですから不思議です。当主様も後継者を未だ決めかねているのかもしれませんね」
「決めかねている?」
ファナは困ったような顔をしてから声が低くなる。
「一応後継者に決まっているナフタ様ですがレイル様に似て内政は得意ですが身体が弱くいまいち人気がないとか、それに対しリア様は若くして聡明な方。魔法も使えて剣技もそれなり、政治も理解出来て……と非常に優秀なんだそうです。人気が高いわけですね」
「そうなんですか」
言われてみると確かに言葉遣いといいしっかりした子だなとは思ってたけど。
野菜のスープを飲みながらむしったパンを口に入れ、続けて話すファナの話に耳を傾ける。
「この国ルグナは本当に良い国ですよ、農作物や海産物が豊かで放牧も盛んですし。食料に困ることはまずないですしね。本当この国がずっと平和であればいいんですけど……」
そこまで言ってファナは表情を曇らせる。
「何か不安でも?」
「西の大国、ガレリア帝国ですよ」
「…………」
俺は思わず表情をこわばらせる。
「二十年前の大戦でただでさえ北部国々の半分を統一して領土が広がったのに、また戦争をしたがってます。
近年は大人しいですが次に動くとしたら南かひょっとしたら東に来るかもしれないです。最近じゃ色んな国に諜報兵を送っているらしいですし。王族の暗殺を狙っているとも聞きます……自国民以外を家畜や奴隷としか思っていない国ですよ。
最近では上国出身者? ……を集めてアカデミーって場所で戦闘訓練を受けさせているともいうではないですか。本当に恐ろしい国です」
ファナは言いながら身体を震わせる。
ガレリアか……、こう聞くと怖い国だな。
ぼんやり考えているとファナは首を振りニコリと笑う。
「そうだ、ハヤトさんはパレードには行かれますか?」
「パレード……ですか?」
「はい、ローファス伯爵領の街、ヒューネルで年に一度パレードをするんですよ。自分の所の兵士はこんなに精強なんだって見せつける目的があるみたいですけど。明日ここを商人の方が馬車で通りますから載せてもらってはいかがですか?」
「へえ……」
パレードかぁ、この世界でそういうのは見た事無いな。ガレリアではアカデミー以外の場所に行くのは禁止されてたからな。
「ちょっと行ってみようかな」
「はい、それじゃこれを……」
ファナは直径五センチ、厚さ一センチほどの長方形の石で出来た割符のようなものを渡してくる。
「これは?」
「リア様がハヤトさんにって。街の入り口で見せてください」
「分かりました」
俺はそれを受け取り、部屋で出かける準備を始めた。
ファナの宿を朝に経ってから馬車に揺られて数時間。
「ここか」
見えたのは立派な城門だ。
街の周囲には壁が作られていて外敵から街を守っているようで、もし攻めるにしても街道以外は田園が拡がっていて足を取られそうだ。
馬車から降り、中に入ろうとすると城門前で兵士に呼び止められる。
「ここはローファス様の統治する街、ヒューネルだ。君は……旅人か? どこから?」
「あー……」
ガレリアから……と言えばきっと追い出されるだろうか。
どう答えればいいかと考えていると不意に兵士が俺の腰を指し示す。
「それは?」
指さされて気づいたがそういえば割符みたいなの貰ってたんだった。
「これを」
「うむ……」
兵士は手に取り見て……震えだす。
目を見開き持つ手は片手持ちから両手持ち、更には汗が鼻先を掠め地面に落ち、何度も俺の顔を見る。
「こ、これをどこで?」
「宿で泊まった時に貰いました、俺の物だというので」
瞬間。兵士は俺に許可証を返し敬礼する。
「え? ええ?」
急な反応に困惑していると兵士は言う。
「許可証の下にあるこの印は伯爵家が認めた方にのみ許された印です。本日の為に招かれた方なのですね。どうぞお時間を取らせました、非礼をお詫びください」
「本日の……方?」
兵士は頭を下げながら俺が中に入るのを許可してくれた。




