2.学園の女神
中野アリサ。
彼女は龍成と同じ学校に通う同級生の女子生徒であり、龍成とは別のクラスに属している。
その姿はまさに女神。
神々しく、美しく、可愛らしく、尊い。
大きな彼女の瞳は全ての男の好意を駆り立て、麗しい唇はガラスのように透明度が高く、全ての男の心を高ぶらせる。
また、ボインとした胸はかなりの豊かさを誇っており、控えめな胸好きの男子でさえも虜にしてしまうほどだ。
更に、容姿端麗というだけでなく運動能力も抜群なのだ。
バスケの試合で、彼女が所属しているチームは相手チームに1点も与えることなく完全な勝利を収めるし、サッカーや野球、テニスなどにおいても、それは必ず起こる普遍の真実なのである。
また、実家は超がつくほどの大金待ちでもある。
それが中野アリサと言う人間だ。
1年間に500人に告白されるのも、彼女の圧倒的なまでの容姿を鑑みれば納得できないこともない。
(そんな完璧超人な陽キャが俺に婚姻届を…渡してきた!)
5時限目、数学の授業中。
龍成は目の前にある婚姻届を見ながら頭を抱えていた。
(新手の…いじめか?……偽告というやつか?…全く分からん。)
だらだらと汗をかき印鑑まで押された婚姻届にポタポタと染み込んでいく。
そう。彼は焦っていたのだ。
普通なら中野アリサのような超絶美人にこんな事をされて嫌な気になる人間はいないだろう。
むしろ飛び跳ねて歓喜するはずだ。
しかし、龍成は違う。
彼は生粋の陰キャなのだ。
"光の女神"と尊ばれる彼女のような陽キャは大の苦手である。
(どうしたものか……)
「えぇ。じゃあこの問題。……結城。解いてみろ。」
龍成は教壇に立つ数学教師である伊藤誠に指名された。
数学の問題など解いている暇のない彼にとって、このタイミングで当てられるのは最悪である。
事実として、彼はこの授業が始まって一度もノートを取っていないし、当てられた問題もたった今初めて見たところだ。
誠死ねと心の中でぼやきつつ、片手で数えきれるほどの秒数だけ黒板に書かれた問題を凝視した。
そしてすぐに口を開いた。
「√2< x,x >√3」
「うむ。正解だ。さすがだ。よく授業を聞いているな。」
無論。授業など微塵も聞いていない。
これは完全に龍成の勤勉さによるものだ。
しかし、伊藤誠はニコニコと嬉しそうな表情を浮かべている。
優秀な教え子を持てて嬉しいのだろう。
だが、何故だ。
伊藤誠のその幸せそうな顔を見ていると無性に殴りたくなるような気がしてくる。
まぁ。その話はどうでもいいか。
とにかく、龍成にとって今もっとも考えるべきは中野アリサの事。
婚姻届を龍成に押し付けてきた目的。
それを早急に知る必要がある。
だらだらと後回しにしておいては問題は肥大化していき、ついには手をつけられなくなってしまう。
龍成はその事を十分に理解していた。
(手っ取り早く……本人に聞いてみるか?
かなりリスキーだが……一番手っ取り早い。それに今日は5時間授業の日だ。このあとは放課後。…直談判するならそこしかない。)
確かにリスキーな手段だ。
そこには2つの大きな要因がある。
第一は、"この婚姻届が誰かのいたずらで仕込まれていたものだとして想定した時、それを本人に問い詰めるのは…………かなり痛いやつだと思われてしまう。"という事である。
第二は、"この婚姻届を実は龍成以外の誰かに渡すはずだったが、間違えて俺のところに入れてしまった"という事だ。
いづれにしても、いい結果は望めない。
(だが……俺に残された考えうる手段はそれくらいのもんか。……)
"キーンコーンカーン"
5時限目は終了の合図によって幕を閉じた。
★
放課後。
龍成は隣のクラスにのドアの前まで来ていた。
龍成のクラスは2年B組であるので、中野アリサのクラスは2年C組だ。
だが、龍成はそのドアを開くのを渋っていた。
(まずい………どうやって中野アリサを呼び出そう……)
そう、彼は陰キャである。
いきなり他のクラスに足を踏み入れる勇気などないのだ。
実際、自分のクラスに他のクラスの人が入室して来た時の注目度は凄まじい。
それに加えて、龍成は今、学園の女神である中野アリサを呼び出そうとしている。
目立つことが嫌いな彼にとって、その行為は拷問と同じだと言っても良い。
「なぁ。中野さーん。今日みんなでカラオケ行こうって話になったんだけど。
中野さんも一緒にどうかな?」
その時。教室の中からそんな声がして来た。
それと同時に龍成はスッと忍者のように壁に身を隠し、中の様子を盗み見る。
どうやら話しかけたのはチャラ男のようだ。
金髪に染めた前髪を捲し上げ、第二ボタンまで開けた制服を着ている。
顔もかなりのイケメンだ。
「あぁ。虹村くん。へぇー。今日みんなでカラオケに行くんですか。」
中野アリサは虹村と呼ばれたそのチャラ男に目を向けることなく、帰る準備を整えている。
"興味がない"と言った態度だ。
「そうそう。それで中野さんもどうかなって?絶対楽しいから。来てくれるよね?」
虹村は笑顔のままそういう。
まるで断られないと確信しているような自身に満ち溢れているようだ。
対して、龍成は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべていた。
(まずいな。…中野アリサがあのチャラ男の誘いに乗ったら、今日は諦めなきゃならなくなる。…クソが。……これだから陽キャは嫌いだ。)
問題を見つければ一刻も早く解決したいという性格の龍成にとって、問題を先延ばしにするという行為はあってはならない事象である。
だが、中野アリサが誘いになってしまったのなら仕方がない。
龍成は心の中で少し枷を緩めて、表情を戻した。
その時。
"ニコッ"中野アリサは龍成の方を一瞥し笑顔を向けて来た。
(……は?)
「すみません。今日はバイオリンのレッスンがあるんです。お断りさせていただきますね。」
学生カバンに手を通し、席を立ち上がり、虹村の横をスッと通り過ぎる。
虹村は唖然としボーと惚けていたがすぐに我に帰り、ガックシと肩を落とした。
ガラガラと教室の戸をスライドさせ彼女は「カラオケ、楽しんで来てくださいね。」と神々しい笑みを浮かべて教室から出て来た。
(……まぁ、いいか……とにかくチャンスは今しかない。)
「なぁ、中野……」
龍成が教室から出て来た中野アリサに声をかけようと近づくと、彼女は龍成の手を握って走り出した。
(……え、えぇ!何事!)
中野アリサの顔は真っ赤っかだ。
先ほどの、イケメンチャラ男である虹村を相手にしていた時のような凛々しい顔でのない。
メスの……女の顔をしていた。
「ちょっ。な、中野さん!どこ行くの!」
走るのが早い中野アリサに手を引っ張られ、龍成は必死で彼女について行く。
やはり女の子とはいえ、運動神経抜群の彼女は控えめに言っても足が速い。
「ちょっと。中野さん!」
耳まで真っ赤になった彼女の耳には龍成の声など届かない。
そして、中野アリサは階段を上がり始めた。
「え!?ちょっと。中野さん!下校するんじゃないの!なんで上に行くのぉぉぉ!」
"ツルッ"
龍成は階段中央付近で足を滑られてしまった。
(まずい!落ちる!)
中野アリサと手を繋いだまま龍成の身体が後ろに仰け反る。
自分以外のものが全て、動きを止めているようにスローモーションになった。
(手を離さないと、中野アリサまで落ちてしまう!)
龍成は彼女との手を離そうと力を緩める。
ーーーーーが、しかし。
手は離れなかった。
彼女の握力は女性的ではなかったのだ。
龍成がバランスを崩したというのに、彼女はそれを御構い無しに龍成を引きずり走り続ける。
階段を上がるときも、彼女はスピードを緩めることはなかった。
"ゴキ"だとか"ボコっ"だとか、なってはいけないような音が響き渡り、その度に龍成が中野アリサを制止しよう叫ぶが、顏を火照らしている彼女には何も聞こえていないようだ。
「中野さーん!!ちょっ!!
とまってくだ……とまれやゴラァァ!!」
★
学校の屋上。
そこでは夕日をバックに2人の生徒が向かい合って立っていた。
言うまでもなく、龍成と中野アリサだ。
「んで?どうしぃて、とぉまらなかぁったの?」
血みどろの顔でボコボコに腫れ上がった少年が不服そうな顔で中野アリサに声をかける。
「ごめんなさい。ごめんなさい。」
ペコペコと頭を下げて謝る学園の女神。
「ちょっと……その……龍成様と手を繋げられたので……その……嬉しすぎて。
頭が真っ白になってしまいました。」
可愛らしく笑みを浮かべる中野アリサ。
女神と言われる所以が分かる気がする。
「はぁぁ。まぁいいけど。」
龍成はそうとだけ呟くと両手で顔を隠した。
「た、龍成様?どうかなさいましたか?
お顔を見られるのが嫌なのですか?
私は龍成様ならどんな顔でも受け入れられますよ?…」
「まぁ、ちょっと見てろって。」
「……………?」
2秒後、龍成は両手を顔から外し、その顔を露見させる。
「!?た、龍成様!?」
中野アリサは衝撃のあまり、仰天する。
「どう?凄いっしょ。」
だが、無理もない。
先ほどまでモンスターのような顔をしていた少年の顔面が、元どおりに治っていたのだ。
所要時間はわずか数秒である。
「い、一体何をなさったのですか?」
「ん?秘孔ついただけだけど?」
龍成は当たり前のごとくそんな事を言う。
秘孔。
某アニメのケンシロウがよくついてくるツボ。
「ヒデブー」と言わせながら惨殺したり、盲目の少女の目を直したりすることができるのだ。
「ユーはショックですか!やめて下さい!
その技は200X何の人類の生き残りの救世主だけしか使っちゃダメなんです!あんまり使いすぎると、謎の力に消されてしまいますよ!………………でも素敵❤︎」
途中まで真剣に龍成を叱っていたが、後半は目をトロンと溶かして頬を染めている。
どうやら学園の女神は情緒不安定のようだ。
「?まぁ、そんなに使わないから、安心してくれ。…………で、でだ。中野…さん。
いろいろ聞きたいことがあるんだけど?」
「はい。……分かってます。何なりと質問して下さい。」
「じゃあ、まず、なんでここに連れてきたの?」
ここは屋上だ。話をするだけならわざわざこんな場所にする必要はない。
「それはですね。私の家は……その……お金持ち……でして、それで下校の時はいつもお迎えが来るんです。だから、下校しながらお話をすることはできないので。」
彼女はお金持ちという単語を気恥ずかしそうに言った。
だが、言われてみればそうだ。
確かに龍成は何度か彼女がリムジンで下校をしているのを見たことがある。
「確かに。言われてみればそうだな。」
「はい。突然こんな所に引っ張ってきてしまって申し訳御座いません。…」
「別にいいよ。もう終わった話だし。」
中野アリサの頬は少し赤らみ、ペコッと頭を下げる。
「それで?次が話の本題なんだけど……このこと。しっかり説明してもらおうか?」
龍成は例の婚姻届を中野アリサに見せながら笑顔を浮かべる。
だが、彼の目は笑っていない。
「あぁ。私が龍成様に向けた婚姻届ですね?
何か分からないことでもありましたか?
ここに名前を書いて、ここに印鑑です。
分かりましたか?」
中野アリサは龍成に近づき、婚姻届の書き方のレクチャーをする。
「なるほどなるほど。ここに俺の名前を書いて、ここに印鑑を押せば……って違うわー!」
突然の龍成の大声に中野アリサはギョッと驚く。
「俺が知りたいのは、なんで婚姻届を俺の机に忍ばせてきたのか、だよ!」
「?……結婚したいから?…じゃないですか?」
さぞ当たり前のごとく中野アリサはそう言った。
「いや、お前何考えてんの!頭おかしいんじゃねーの?」
「いえ。好きな人と婚姻関係を結びたいというのはごく自然…だと思うのですが…」
もじもじとさせて、顔を赤らめる。
夕日の光に照らされている分、余計に赤面しているように見えた。
「いや、まぁ。そりゃそうだけど……
色々順序ってもんがあるだろう?」
「順序?ですか?」
「そうだ。例えばな、ほら。まず、お付き合…」
「分かりました!」
龍成の声は中野アリサに遮られた。
「分かりましたよ。そういうことだったんですね。龍成様。」
何を分かったのかは分からないが、どうやら龍成が言おうとしていたことを理解してくれたらしい。
「龍成様はできちゃった婚派でしたのですね!」
「………………は?」
「結婚より前に子供を…作りたかったのですね!」
真っ赤っかになった女神。
恥ずかしさのあまり、プルプルと震えているように見える。
「いや、おま、何言って…」
「そうと決まれば!良いですよ!龍成様!
私が、本気だってこと!みみ見せてあげますよ!
こここ、今夜はオオオ、オールナイトです!」
その時。俺は思った。
(この子。………ダメだ。)
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