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僕らの季節

作者: 稲城眞梨

1.

ある11月の肌寒い朝、僕は古いワンルームのアパートから駅に向かって歩いていた。

『何か、本当に情熱を傾けられる、底抜けにときめくような出来事はないものだろうか?』

僕は白井しらい なぎさ。これから職場へと向かう、23歳のしがないサラリーマンだ。

地元の中学、高校、大学を卒業し、平凡な物流会社に就職して、今に至る。

僕はこれまで、ひととおりの恵まれた人生を歩んできたが、これといって他人に誇れるようなものはなく、特技もなく、大変な苦労をして何か大きなことを成し遂げた経験もない。中肉中背、刈り上げ頭、好物は焼肉という、絵に描いたような『ザ・凡人』そのものだ。

そんな僕が、いま些かの情熱とときめきを求めているのは、職場に向かうこの現実からの逃避願望と、先日見た1クールものの深夜アニメの影響からだ。

どうしても南極大陸へ行きたいと渇望する高校生の主人公が、あらゆる壁と困難に立ち向かい、ときに仲間の助けも借りながら、ついに夏季観測隊への帯同を許され、憧れの南極大陸に降り立つという、夢とロマンにあふれる物語。


『南極かあ、行けんのかな、実際』。

ググれば即答のスマホによると、日本の一般人が南極へ観光に行くこと自体は可能だが、最低でも150万円ほどの予算と、20日ほどの時間が必要とのことだ。

『やっぱり凡人にはハードルが高すぎるな。宝くじを当てられるような強運もねーし。』

少し低い反対側のホームから、ほとんど人の乗っていない下り列車が発車する。二日酔いだろうか、ロングシートに仰向けに寝たまま果てしない旅を続ける、情けない若者の姿が見えた。

『そうだ!』


2.

次の休日、僕は同い年の友達、英二えいじを喫茶店に呼び出した。

英二は僕と同じ中学校を卒業後高専に進み、大学の3年次に編入、卒業後は将来有望なIT関連企業に見事就職したという逸材。見かけは小太りで垢抜けない感じだが、仲間想いで情があり、そしてなにより機械に強く最新のテクノロジーとエレクトロニクスに精通した、頼れる友である。

「急に呼び出してどうしたんだよ。元気にしてたか?」

「ああ、僕は元気でやってる。英二は?」

「俺も別に普通だよ、で、話って何?」

来た!


「実は、南極探査船を作ろうかと思ってる」

予想通り一瞬きょとんとした表情を見せた英二に、僕は考えてきたプランを説明した。

「南極ってもう遥かに遠くて遠くて壮大で、行ってみたいなー、とか、見てみたいなーとか思う奴がたくさんいるはずだけど、実際にはなかなか行けない土地じゃん? 時間的にもお金的にも。

そこで考えたんだけど、なにか小さな浮舟のようなものを作って、カメラとGPSとネット端末を乗せて海に放流する。うまくいけば、やがて浮舟は南極に漂着! ペンギンや氷山やオーロラのライブ画像を送ってくれるっつう…」

渾身のアイデアをここまで説明したとき、英二が最初のツッコミを入れてきた。

「地球規模のお見合い大作戦ってわけか(笑」

「ちげーよ真面目な観測計画だよ、てか英二も彼女いねーだろ」。

「まあいねーけど。でもマジの話、南極ピンポイントなんて行けんのかよ?」

ハナからは否定しない、というより、むしろ好感触。さすが英二だ。

僕はノートパソコンを取り出し、世界の海流図を表示しながら説明を続ける。

「仮に日本の太平洋側から流した場合、浮舟は黒潮に乗って南極とは逆方向の北に向かい、やがて北太平洋海流に乗って東へ流される。その後はカリフォルニア海流に乗って南下、アメリカ大陸西海岸に漂着する可能性もあるけどそうならなかった場合、北赤道海流に乗ってアジア方面に戻ってくる可能性が高い。

そんなわけで、現実的な放流地点はどうしても海外になると思う。海流図を見た感じ、いちばん理想的なのは南アフリカから流してアグラス海流に載せるルートだけど、正直これはヤバい。なんといっても、まず南アフリカは遠いし、治安もかなり悪くて、身代金目的に外国人を狙う『誘拐ビジネス』なんてのもあるらしいし。そこで…」


ディスプレイを見つめていた英二は、僕が言うより早く結論に到達していた。

「オーストラリア東岸、だな」

「ああ。東オーストラリア海流に乗って南氷洋へ到達、そこから、この名前の書いてない東向きの海流に乗りつつ南極上陸を狙い、もしダメだったらペルー海流で南米の方に向かう感じ」

「で、船づくりを手伝えって訳か」

「なあ頼む、雑用とか力仕事は全部やるし、焼肉奢るし俺のアパート好きに使っていいから、このとおり!」

僕は英二に頭を下げた。奥の座席に座っていた女子高生グループの視線が、一瞬こちらに刺さった。


「ぜひ手伝いたい、と言いたいところなんだけど、仕事がなぁ」

「そっかー。まあ、そうだよな」

これが大人というものか。まあ英二に話を聞いてもらえただけで、僕はすがすがしい気持ちになっていた。

よかった、と思った。


「なあ、もしよかったらなんだけど」

「?」

「俺の後輩に、そういうの興味持ちそうなやつがいるんだけど、連絡とってみようか?」

「マジか、ぜひ頼む!」


本当は、気を遣ってくれた英二にこれ以上迷惑をかけないよう、ここで断るべきだったのかもしれない。

英二と別れてから、ふとそんなことを思った。


3.

次の休日、例の喫茶店に彼は現れた。

「ちわっす。英二さんの後輩の将洋まさひろといいます。お世話になります」

少しくせ毛の落ち着いた茶髪に、くっきりとした目鼻立ち。『イマドキ男子』というのか、なんともおしゃれな感じの好青年だった。

将洋は英二の高専時代の天文同好会の後輩で、すでに大学3年次編入を決めている19歳。


「まず、問題は資金っすよねー」

「どこかの漁港から一隻かっぱらって来るって訳にもいかんしね」

二人の言うとおり、まずは資金がネックだ。試算によると、船体はちゃんと作るとそれだけで10万コース。乗せる電子機器も普通のスマホみたいなものではダメで、防水、対候性があり、衛星インターネットに接続できる端末が必須。同じく防水仕様のカメラ、GPS、さらにそれらを何十日間も駆動させるバッテリー、ソーラーパネル、それにプロバイダ契約料金も必要だ。オーストラリアへの渡航費用もかかる。結論としては、ざっくり70~80万円は見ておくべきだろうということだ。


それともう一つ、英二が悩ましい問題を提起した。

「環境にも多少配慮しないと、周囲の理解を得にくいと思うんだ。『海に流してさようならー』じゃ、ある意味ごみを捨てるのと同じなわけだし」。

確かにこれは夢とか希望とか、耳障りの良い言葉で誤魔化して進むわけにはいかない、重要な問題だ。


資金をどう調達するか、環境にどう配慮するか。この2点を考えて来ることが、次回までの宿題になった。

話の切り上げ際、僕は英二に訊ねた。

「なあ英二、出来ればでいいんだけど、今後もたまに様子見に来てくれたり、するよな?」

「ああ、それぐらいなら」

よかった。

恥ずかしい話だが、僕はいい歳してけっこうなコミュ障なので、今後この初対面の青年とさしでやっていくことに対し、かなり不安をおぼえていた。

店を出ると、冷たい風に容赦なく襲われた。

もう12月だ。


4.

「なにか悩み事?」

会社の昼休み時間、宿題のことを何となく考えていた僕に、南美みなみさんが声をかけてきた。

南美さんは僕の職場の先輩で年齢不詳、独身。女優の深田恭子さんを彷彿させる端正な容貌の持ち主で、面倒見がよく気さくな性格。少し煙草を嗜むようで、たまに喫煙所で見かけることもある。


ひとりで悩んでいても埒が明かないし、南美さんなら意外と名案を出してくれるかもしれない。

僕は、思い切って相談してみることにした。

「んー、環境のことはよくわからないけど、その船と同じ量のごみを回収するのに必要な金額を環境保護団体に寄付するとか」。

(おー、それ、そういうやつだよ、さっすが南美さん!)僕は心の中で、思わずガッツポーズした。

「あと、資金のことはもうすぐどうにかなるんじゃない?」

「え、もうすぐ、ですか?」

「冬のボーナス、1.5ヶ月分だって部長言ってたわよ。それに給料足してー、」

「なるほど!、あ、でも僕も生活とか、食生活とか…」

「そうだ、もうすぐうちの親がみかんとかぼちゃを送ってくれるって言ってたから、届いたら持ってきてあげようか?」

何という天然、じゃなかった、いい人なんだろう!

そういえば、南美さんの実家は宮崎県だと、昔聞いたことがある。

「進展があったら教えてね!」

ほのかな香水の香りを残し、南美さんは自分のデスクに戻って行った。


5.

その夜、将洋からショートメッセージで連絡があった。

なにやら、資金計画の切り札があるので、もう一人メンバーを加えたいというのだ。

それと、環境対策として

・パフォーマンスと言われても、一度は自分たちで海岸のゴミ拾いをする。

・極力、船体の回収を試みる(最終的に人間の居住地域に漂着した場合、発見される可能性を高めるため船体は目立つ色にし、こちらの連絡先と、回収に協力してくれた場合には謝礼を支払う用意がある旨を記した手紙を搭載する)

・なるべく部品を脱落させず、原型を留めた状態で回収するため、部品点数を少しでも減らし、各部品はしっかりと固定する。


という案が示されていた。

僕は南美さんの寄付案を提案し、「それナイスっす!」と賞賛された。

新メンバーの加入はもちろんOKだが、僕以外にも計画に共感し、ボーナスをブッ込むという猛者が現れたのだろうか。

怖い人じゃなければいいがなぁ。


6.

「クラウド、ファンディング??」

「そう、クラウドファンディング」

その耳慣れない単語を発したのは、真っすぐな黒髪が肩くらいまであり、鋭い目つきに黒縁セルフレームの眼鏡をかけた、小柄な女子だった。

彼女の名前はれい、将洋の同級生だ。若干怖そう、ではなくクールな感じだが、将洋情報によると「いい人」ということなので、とりあえずは一安心。

話を戻すが、クラウドファンディングとは、『目的を明確に開示したうえで、主にインターネット経由で不特定多数の人々に、資金や物資の提供をお願いすること』らしい。

なんだかものすごく抵抗を感じるが、最近は割とポピュラーになってきており、怜自身も以前、この方法で資金集めに成功したことがあるという。

「それじゃあ、今度プレゼン動画を撮りますので、渚さんはちゃんと髭を剃って、ちゃんとくたびれてないネクタイを締めてきてください。当日までに、計画の概要がわかる簡単なスライドと原稿を…」

「なあ、それってもしかして、顔出し、なのか?」

「んー、冒頭ワンカットだけ顔出して、あとはスライド映して簡潔に説明する感じかな。やっぱり一瞬でも責任者の顔が見えないと、なかなか集まらないものなのよ。」

「なあ、それってやっぱ、僕じゃなきゃダメなんだろうか。ここは、本計画の栄えある経理兼広報の怜、さんが…」

「計画の首謀者は渚さんでしょ。それに、未成年者が前面に出ると、いろいろ面倒なこともあるのよ。」

「渚さん往生際悪いっすよ。もうやっちゃいましょうよ!」

すかさず将洋が横槍を入れてきた。もう、やるしかないのだろう。

「あのさ、一つ相談があるんだけど」

「何ですか?仮装とかですか?」

「いや、そうじゃなく、実は僕の会社の先輩で、この計画に興味を持ってる人がいて。もし誘えたら撮影当日呼びたいんだけど、ダメ、でしょうかね?」

「んー、いいと思う! この手の戦略は他人に興味持ってもらってなんぼのところがあるし、よかったらぜひ!」

「了解!  あと、これ」

僕は鞄から、銀行名の入った緑色の封筒を取り出した。

「1、2、3、…20。すげー、20諭吉もあるじゃないっすか!」

僕の突然の『大量出血』に、将洋が色めき立った。

「本気なんですね。それじゃあ、そのお金は渚さん名義で新しく都市銀行の口座を開設して、そこに入れといてください。」


〈怜とみんなのお約束〉

1. プロジェクトのために集めた資金は、個人のお金とは完全に分けて管理すること。

2. 当然ながらプロジェクトの資金は他の目的には流用しないこと。私物を買うとかはもっての他!

3. 節約に努めること。

4. 資金を使うときは「いつ、何のために、いくら使ったのか」を明確にし、必ず領収書をもらうこと。

5. 万が一収支が合わなくなった場合には、責任者の渚さんが責任をもって全額自腹で弁済します。


僕と英二と将洋は後日、こんな感じの誓約書にサインさせられることになった。

早いもので、もう暮れが押し迫っていた。


7.

そして、その日は来た。

幸運にも格安で借りることのできた小さな会議室には、僕、英二、将洋、怜、そして南美さんが集結した。

収録の前に、怜から重大発表があった。

「えー、この度一般の方々からの資金協力を受けるにあたり、本プロジェクトの状況は随時一般公開することが望ましいと考えました。そこで…」

怜がノートパソコンのEnterキーを押すと、待ち受けを表示していたスクリーンに、なにやらWebブラウザが表示された。

『南半球探査プロジェクト(仮』

ホームページに記載されていたのは、このタイトル1行のみだった。

「南極、じゃないの?」

南美さんが訊ねた。

「えっとー、ハナから南極って言っちゃうと、一部の環境保護団体から圧力をかけられたり、関係各方面からお叱りを受けたりするリスクが上がると思うので、とりあえず最初のうちは『行けたらラッキー』くらいに濁していきたいと思います!」

おい、そんなの聞いてねーぞ怜。

「それじゃあ、そんな感じで、プレゼンお願いしまーす!」

収録は終始和やかなムードで進み、僕は皆の忌憚のないダメ出しを受けながら、10テイクほどして怜広報のOKを得た。

「それでは、これより広報部にてプレゼン動画の編集を行い、来る1月1日午前0時にホームページへアップロードしたいと思います。みんな見てねー★」


8.

外では除夜の鐘が響いている。もうすぐ今年が終わるのだ。

僕はいま、テレビの「ゆく年くる年」を見ながらノートパソコンを開いている。三が日にも勤務が入ったため、残念ながら今年の年越しはこのボロアパートで一人きりだ。

午前0時。僕はさっそくwebブラウザをリロードしてみる。あった。

が、何か様子がおかしい。

確か、僕の顔出しは冒頭ワンカット、のはずだが、けっこうがっつり映っている。

さっそく僕は怜にショートメッセージを送った。

『明けましておめでとう。プレゼン動画の件なんだけど』

『明けましておめでとうございます。もう観てくれたんですね。ありがとうございます^-^』

『なんか、顔出し多くない?』

『んー、特に違和感ないし、大丈夫だと思いますよー』

『いや、なんつうか特定されたりとかいろいろと…』

『んー、詐欺とかやましいことするわけじゃないし、堂々としてればいいと思いますよ』

『いや、そういう問題じゃ…』

『それに、どのみち少なくとも出資者にはこちらの連絡先を開示する予定ですし』

『それはまあ…』

『資金が集まったら早々に削除しますので、まあそれまでの辛抱です。頑張りましょう!』

『お、おう。』

こうなってしまってはもう、嵐が過ぎ去るのを静かに待つしかない。

翌日から僕は、外出時には必ずマスクをつけて出かけるようになった。


9.

資金集めは思いのほか順調に進んだが、ひとつ困った問題が起きた。

この資金募集は1口1,000円から応募可能ということにしていたのだが、なんと一口で10万円もの大金を提供するという人が現れたのだ。

もちろん魅力的な資金提供ではあるが、言ってしまえばこのプロジェクトは遊びに毛が生えたようなもので、正直この先どこまで進められるかも分からない。例え心から賛同して応援してくださっているとしても、少なくとも現時点の僕たちの状況で、このような大金を安易に受け取るべきではないのではないか。

全会一致だった。

怜が出資者に連絡をとり、お金は僕が直接返しに行くことになった。


10.

東京近郊の閑静な住宅街に建つ、建売住宅と思しき一軒家。住所はここで間違いない。ちゃんとアポイントが取られているとはいえ、さすがに緊張する。確か出資者は、60代のご夫婦だとか。僕は恐る恐るインターホンを押した。

「どちら様でしょうか?」

出たのは奥さんのようだ。

「あの、先日ご連絡致しました、南氷洋に小舟を浮かべるプロジェクトの白井と申します。」

「あー、どうぞ上がってください。お父さーん、南氷洋の動画の人だってー」

「お邪魔します。」

僕は、そのお宅の居間へと通された。そこには炬燵が置かれ、とても貫禄のある男性が座っていた。

「こんにちは、今日はどうもすみません。」

「ああ動画の子だね、まあゆっくり座って」

「あの、先日は資金のご提供、本当にありがとうございました。メンバー一同、とても感謝しているのですが、実は…」

「お茶どうぞ。」

うまく言えないが、なんとも絶妙のタイミングで奥さんがお茶を出してくださった。

「あ、ありがとうございます。あの、過分なお心遣いまでいただいて、とても恐縮なのですが、実は私共、まだまだ未熟な計画段階といいますか、正直、皆様のご期待に応えられるかどうかわかりません。なので、大変な失礼は承知なのですが、やはり10万円もの大金は受け取れない、という結論になりまして。本当に申し訳ありません」

「遠いところ、わざわざありがとう。君たちはとても誠実で、素晴らしい子たちだね。君がリーダーかい?」

「はい、一応」。

「そうか。君なら大丈夫そうだが、いまのは些か頼りなく見えた。リーダーがあんなだと、上手く行くものも行かなくなってしまうよ。」

「お、お返しさせて頂けないでしょうか!」

「さっきよりは決まったね。だけど、やっぱり持って行きなさい。」

「実はこの人、昔医官として南氷洋に行けるチャンスがあったんですけどね、直前になって百日咳に罹ってしまって…」

「お、おい、それは…」

「蕁麻疹でしたっけ?」

「と、とにかくそれは持って行きなさい。結果はどうあれ、やってみてほしいと、私たちは心から願っているんだ。」

「頑張ってね!」

「は、はいっ!」


11.

「で、結局10万円もらって来ちゃったんだ」。

「本当、申し訳ない」。

「まあ、もしかしたらそんなこともあるかもとは思ってたけど」。

もっと激しく非難されるだろうと思っていたが、怜の反応は意外にも淡白なものだった。

それと、これは本当に驚くべきことなのだが、2月4日の立春を前にした今の時点で、僕と元医官さんの分を含め、なんと50万円近くもの資金が集まっていた。

「これで、資金面のめどが立つわ。」

(実はかなり後になってから知ったのだが、出資者には英二、将洋、怜、南美さんも含まれていて、みんなバイト代や不用品を売って得たお金などを供出してくれていた。)

いよいよ、僕たちの夢が動き出す。


12.

2月ももう終わり。決算期に入り、僕と南美さんは仕事に忙殺される毎日となった。

そういえば先日、将洋から連絡があった。下宿先の近くにトランクルームを借り、英二と相談しながら、いよいよ舟の制作に着手したというのだ。

ある暖かな小春日和の休日、英二と将洋は制作のため、昼間トランクルームに詰めるようだった。

僕は久々にヒマだったので、差し入れを持ってサプライズで様子を見に行くことにした。

思いのほか気温の上がった昼前、途中のコンビニで中華まんとお菓子と飲み物を買い、スマホの地図アプリを頼りに、徒歩でその場所を目指した。


迷うことなく辿り着いたその場所にはオレンジ色の貨物コンテナがずらりと並び、遠目には南極観測基地のようにも見えた。

その中に1つ、シャッターを7割ほど開け、中で人が作業をしているものが見えた。間違いない。

サプライズなので、僕はコンテナの死角からこっそりと近づき、開いたシャッターの前に素早く飛び出して、言った。

「警察だっ!」

英二は手にしていたバインダーから視線を外し、怪訝な表情でこちらを見た。

一方、膝をついて作業していた将洋は本当にビビったようで、手にしていた巻き尺を落っことしていた。

「なんだ渚さんかー、もうマジビビったじゃないっすかー」

「お前さー、そういうのやめろって、本当危ねーし。」

「すまんすまん、陣中見舞いに肉まんとか買ってきたんだけど、キリのいいところで一緒に食わねぇ?」

「渚さんありがとうございます!いただきます!」

トランクルームの中には段ボール箱やペール缶、空のビールケースや工具箱など、いろいろなものが置かれていた。

「Amazonで買ったものって、こういうところでも届けてくれるんだ?」

「いえ、それはコンビニ受け取りにして、ここに来る途中で受け取ってるんすよ」

「この前、南美さんも同じこと訊いてた。」

「え、南美さんもここに来たのか?」

「ああ、そこのペンギン置いてった」

英二の視線の先には、大きくてやけにリアルなペンギンのぬいぐるみが鎮座していた。

「等身大のコウテイペンギンらしいっす。」

英二と将洋はしばし作業の手を休め、舟の設計や作業の進捗などについて、いろいろと話してくれた。


「差し入れありがとうな!」

「オーストラリアが楽しみっすね!」

「おう、頑張ろうぜ!」

なんだかとてもポジティブな気持ちになれた一日だった。


13.

4月。新しい季節はゆっくりと、しかし確実に過ぎていった。先日まで満開だった桜の花も散り、いまはもう葉桜になりつつある。

『南半球探査プロジェクト(仮』のホームページも、タイトルこそそのままだが、コンテンツはだいぶ増えてきていた。

例のトランクルームの写真、舟の制作状況、今後の計画、誰もが投稿できるコメント欄、それに、いまだ僕の素顔が晒され続けている資金募集サイトへのリンクバナー。

そして、僕たちはこのコメント欄を使い、来訪者と話しながら舟の名前を決めた。


『筏さん』(いかださん)。それが、この船の名前となった。

他に候補として、『はるか』『かなた』『なんきょく』『浦島』『ドクターシーラボ』『Southern Cross』などの名称も挙がったが、親しみやすく親近感もあるとの理由で、最終的にこの名前に決まったのだ。

それにしても僕も含め、みんなネーミングセンスがイマイチだよなあ orz


14.

それからしばらくの間、筏さんの制作状況が僕の最大関心事となった。

怜と南美さんの期待感も高まってきたようで、先日、プロジェクトの成功を祈願するため、都内の有名な神社に参拝してきたらしい。

『筏さんが南極に到達しますように。』

美しい文字で書かれた絵馬の写真が、ホームページに追加された。

そして6月初旬、ついに将洋から待望の連絡があった。

筏さんが完成したのだ。


15.

次の休日、トランクルームを訪ねると、そこにはフレームの下側を4つのビールケースに支えられた、大きさ一畳程の双胴の舟があった。フレームの上には黒々としたソーラーパネルが並び、アンテナを兼ねる高さ80cmほどのポールの先端には、球形の樹脂製カバーに覆われたメインカメラが据えられていた。構造はシンプルにして頑強、さらに航空機での輸送も考慮して、ある程度分解できるようになっていた。

その外観はまさに『惑星探査船』だ。

海上での動作テストは、幸運に恵まれれば梅雨が明けるであろう6月最後の週末、集まれるメンバーで海へ行き、1泊2日で行うことになった。


16.

6月最後の土曜日の朝、トランクルームの前には僕、英二、将洋、怜、南美さんの姿と、2台の車があった。

大人5人と荷物、それに筏さんの移動には、車1台では心もとないだろうということで、英二が友達から借りてきたワンボックスカーと、レンタカー店で借りた軽トラックの2台に分乗することにしたのだ。

ワンボックスカーに英二、怜、南美さん、軽トラの方に僕、将洋、筏さんが乗り込んだ。目指すは、はるか彼方の太平洋。

走り出してすぐ、車窓に気持ちの良い朝日が差し込んできた。気付けば、北半球はもう夏至を過ぎていた。


「梅雨が明けてくれて、ホントよかったっすね。」

「そうだな。筏さんも無事に完成して、本当に良かった。なあ、俺たち、一体どこまで行ったら成功ってことになるんだろうか。この先順調にいけば今日のテストが成功して、オーストラリアに通関して、筏さんを南太平洋にリリースして、こっちで追跡を開始して…」

「珍しく弱気発言っすね。でも実は、自分もそれ思ってました。コケても許されるボーダーラインっていうか。」

「そうだよな。個人的には、なんとかオーストラリアまで持っていけたらって…」

「でもあんまり考え込んでもしょうがないっすよ。一番は事故がなく、誰も怪我することなく終われたら、それが何よりの成功かもっす。」

「確かにそうだな。」

車窓に海が見えてきた。朝日を反射してきらきらと輝いている。

僕たちは安全運転で目的地へ向かった。


17.

きれいな砂浜のある、小ぢんまりとした漁村。こんなところにまでコンビニエンスストアがあるのだから、日本は便利な国だ。

僕たちはこの小さなコンビニに立ち寄り、最初の目的地に向かった。

瀬渡し船(陸伝いには行けない釣り場に、釣り人を運んでくれる渡し船)の船屋だ。

怜が予め連絡を取り、無理をお願いして筏さんを沖まで出してもらえることになっていた。

到着したとき、船は最後の釣り客を乗せて沖の突堤に向かったところだった。

僕たちは、筏さんに電子機器を組みつけながら、船の帰りを待つことにした。


「へー、すっごーい! これがカメラ? 音も拾えるの!?」

南美さんがはしゃいでいる。

「集音性はちょっと難ありかもしれないんすけど、一応マイクも積んでます。あと、GPSと温度計、電池残量なんかのデータも取れるようになってるっす」

「船、もうすぐ戻るって」

怜がスマホを片手に言うとすぐに、沖の方から小さな船影が近づいてきた。そして、定員8名のその船は、あっという間に桟橋へ横づけされた。本当に器用なものである。

「研究の学生さん? おはよう!」

人あたりのよさそうな船頭さんが声をかけてくれた。

「おはようございます。よろしくお願いします!」

僕たちは船に筏さんを積み込み、僕と英二が同乗した。将洋たちは陸上から筏さんの電子機器を起動し、動作チェックをする役だ。

「それじゃあ出すよ」

「お願いします」

桟橋に手を振ると、みんなの姿はみるみる小さくなり、見えなくなった。


「ここらでどうかね?」

「大丈夫です。ありがとうございます。」

停船したそこは、十分すぎるほどの沖合だった。

僕と英二は、命綱をつけた筏さんを海面にそっと下ろし、将洋にショートメッセージを送った。

すると、筏さんのカメラのレンズがくるりと回転し、こちらを向いた。

テストは大成功だった。


18.

砂浜を、よちよちとペンギンが歩いてくる。

(正確には、コウテイペンギンのぬいぐるみを持った南美さんだ。)

『筏さんが南極に漂着した場合を想定してのテスト』として、筏さんを砂浜に置き、今度は僕と英二が今夜泊まる民宿の部屋からモニターしているのだ。

「ぴよぴよ、ぴよぴよ、ペンギンでーす!」

後ろで怜も手を振っている。

画質は驚くほど鮮明だったが、将洋が言っていたとおり音質は残念ながらそれなりだった。

「音声がもうちょっときれいに出てくれたら、ドキュメンタリー番組みたいで嬉しいんだけどな。」

「贅沢言い出したらきりがないって。南美さんの美声はいつでも聞けるんだし、ここはまあ妥協しようぜ。」

「なっ!、あ、ああ、そうだな。」


その夜、僕たちはテストの打ち上げと称して、民宿の広間でちょっとした飲み会を開いた。

(将洋と怜もちょうど20歳になり、皆めでたくビールで乾杯することができた。)

「よっしゃー、もしこのプロジェクト絡みで誰かに怒られることがあったら、僕が代表者として全責任を取るっ!」

「そのときはよろしく頼むっす!」

「任せろ――っ! 怒られてやるぜーっ!」

僕はつい飲み過ぎてしまった。


酒宴の後、今夜は晴れて風もないので、みんなで少し浜辺に出てみようということになった。

僕たちは民宿から、昼間も通った細い獣道のような近道を通って浜に降りた。

昼間と同じ波の音がする。しかし、夜の海は恐ろしいほど暗かった。

遠くに灯台の明かりが見えたが、スマホと懐中電灯を消すと、それ以外に人工の光はなくなった。

「線香花火かなんか買ってくればよかったっすね。」

「うわぁー、星がきれい! あ、あれさそり座じゃない?」

そのとき、一閃。

さそりの尻尾をかすめるように大きな流星が流れ、緑色がかった一筋の残像を残し、そしてすっと消えていった。

「流れ星! 見た!? 見たよね?」

南美さんが、まるで子供のように嬉しそうな歓声を上げた。もちろん、全員はっきりと見ていた。

「今のは本当に大きかったっすねー」

「でも、予告なしにあの速さじゃ、願い事するのは無理そうね。」

僕たちはしばし心地よい波の音を聞きながら夏の夜空を眺め、少し酔いを醒ましてから民宿に戻ることにした。

「南美さん、あの」

「なに?」

「あの、今日は吸わないんですか? 何ていうか、みんな全然気にしませんし…」

僕の知る限り、南美さんには飲み会のとき、必ず一服する習性があった。

「禁煙始めたんだ。願掛けも兼ねて、ね。」

南美さんのためにも、ベストを尽くさなくては。

僕は、決意を新たにしたのだった。


19.

実は僕たちには、もうあまり時間がなかった。

筏さんが南極近辺に到達する時期は夏(日本では冬)頃が理想だが、オーストラリアから南極まで、実に7000kmもの距離があることを考えると、南半球がまだ冬の今のうちに放流するのが最善と思われたのだ。

そこで、僕たちは7月末の渡航を目指し、飛行機、宿泊先、レンタカー、プレジャーボートなどの予約を着々と進めていった。

僕はパスポートを持っていなかったので新規に取得したのだが、今後の人生でも役に立つかもしれないと思い、5年ではなく、赤い表紙が眩しい10年のタイプにした。思い切ってスーツケースも新調し、気分はもうすっかり国際人だった。


出発が迫った休日、僕たちは筏さんの分解、梱包、そしてトランクルームの片づけをした。

「今度筏さんを運び出したら、ここの役目はおしまいか。」

「なんか、ちょっと寂しいっすね」

英二と将洋が感慨に浸っている。筏さんを梱包し、私物のほとんどを引き上げたトランクルームは、思いのほか広く見えた。


20.

空港に来ると、いつも自分がちっぽけな存在に思える。

よく晴れて気持ちの良い朝だった。

今回、僕と英二が筏さんとともにオーストラリア東部沿岸の大都市、シドニーへ渡り、近郊のボートハーバーから船で沖へ出て、筏さんを放流する手はずだった。

筏さんと荷物を受託手荷物カウンターへ預け、いよいよ保安検査に向かう。

空港には南美さん、将洋、怜、それに彼らの友達の高専生と、数名の出資者も見送りに来ていた。あの元医官ご夫婦の姿もある。

『一波入魂! 頑張れ筏さん』

保安検査場入口の近くで、将洋と怜が突然サプライズの横断幕を広げ、出発前最後の記念撮影となった。

「行ってきます」


皆に見送られるのが、なんだかとても気恥ずかしく思え、僕はそっけなく保安検査場に入ってしまった。

ゲートを通り抜けた後になって、せっかく来てくれた皆にもっと厚く感謝の言葉を述べるべきだった、と思った。

「いよいよ出発だな。いままでいろいろとさ、ありがとう。」

「それ、帰ったらちゃんとみんなにも言えよ。」

「そうだった。」

搭乗口に着くと、そこには銀色とオレンジ色を纏ったLCCの飛行機が待っていた。

これから僕たちはこれに乗り、9時間30分の時間をかけて、7800kmもの距離を移動するのだ。

やっぱり、自分がちっぽけな存在に思えた。


21.

飛行機を降りると、ひんやりとした空気を一瞬感じ、乗降用の通路を通ってターミナルビルに入った。

これから入国審査だ。

「大丈夫かな?」

「品目もちゃんと申請してるし、大丈夫だろう。」

「『フラジャイル』だっけ? そりゃ、ある程度丁寧に扱ってくれてるはずだから大丈夫だろうけど、税関の方がさ」

「ああ、そっちか」

列はどんどん進み、そして僕の番になった。審査官にパスポートを見せると、彼は「少しこちらへ」と英語で僕をカウンターの横に弾いた。

「なんか、止められた…」

「んじゃ、先に到着ロビーで待ってるわ」

「ああ」

まさかの別室送りだ。僕は平静を装ったが、確実にヤバい状況だと直感した。

すべてが終わる時が来たのかもしれない。


22.

「May I open it?」

「イ、イエス…」

普通の観光客はまず入ることのないであろう税関の検査室のようなところで、僕はガタイのいい検査官と机越しに向き合った。

筏さんのフロートとフレームが入った箱が開封される。検査官はガサガサと中身を確認し始めた。今だ。

「This is a non-powered miniature craft for environmental observation, with a length of 191.0 cm, a width of 115.5 cm, a protrusion height of 125.0 cm…」

僕は、出発前に『もし税関で止められたら、とりあえずこの紙の内容を読み上げて』と怜に渡されていた英文の書かれた紙をたどたどしく読み始めた。

すると、検査官は「紙を見せろ」とジェスチャーしてきたので、素直に渡した。

検査官はそれにさっと目を通し、後ろにいた別の検査官に声をかけ、何やら短く話した。

「Wait a while」

そう言うと、2人の検査官は筏さんの入った箱を持って、衝立の後ろに移動した。

5分程待っただろうか。

「ヤバい、マジでヤバい。もしかして通報されてんのかな? 恐えーよもう。帰りたい。とにかく帰りたい。」

我ながら、極度のチキンである。

筏さんの箱を持って、検査官が戻ってきた。僕はもう心臓が爆発しそうだった。

「Have a nice trip with Ikada-san.」

僕はその言葉を聞いた途端脚の力が抜け、その場にへたり込んでしまった。

「A, are you all light?」

「イ、イエス…」


荷物一式を積んだカートを押して出口を抜けると、心配そうな英二の姿が見えた。

英二は僕の姿を認めると、いつもの笑顔を見せた。

「遅せーぞ(笑」

「いや、もうマジでヤバかったんだから」

事の顛末を話すと、英二はゲラゲラと笑いだした。

僕たちはレンタカーをピックアップし、ホテルへ向かうことにした。


23.

翌朝、僕たちは寒さにすくみながらレンタカーの小型トラックに筏さんを積み込み、郊外のボートハーバーに向かった。

車窓には有名なオペラハウスや、あの漁村にあったのと同じチェーンのコンビニエンスストアも見えた。

デジャブだ。初めて見る景色なのに、どこか懐かしいような気がする。

到着すると、そこには2人のオーストラリア人男性が待っていた。

話が通っているのだから当然だが、筏さんの積み込みと出港はすんなりと進んだ。遠くに見えていたオペラハウスはさらにぐんぐん遠ざかり、あっという間に見えなくなった。


ついに、冬の南太平洋に筏さんを降ろす。今度は命綱なしだ。

筏さんは海流に乗り、ゆっくりと沖の方に流れていった。

「May I come back?」

まだ遠くに筏さんの姿が見えていたが、もう戻らなければならない。

僕たちは港に戻り、レンタカーを返却してから簡単な市内観光に繰り出した。


『放流時の画像、こっちでもバッチリ見れたっす。筏さんは現在シドニーの南東海上、追跡は正常にできてるっす』

将洋からショートメッセージが来た。

僕たちはもう1泊し、みんなへのお土産を買って帰国した。


24.

8月下旬の夕暮れ時、外ではヒグラシが鳴いている。

『S39°52'16" E159°54'29"』

「これが筏さんの現在位置っす。シドニーが南緯33度52分06秒、東経151度12分31秒だからえーっと、直線距離で1116.4Kmっすね。」

ノートパソコンの画面を示しながら、将洋が説明してくれた。


ここは将洋の下宿先の共用ロビーだ。入居者と来客は自由に使っていいことになっている。

僕たちはここを『筏さんオペレーションセンター』(略してIOC)と称し、追跡の拠点とした。

筏さんを放流して1か月、僕は度々このIOCを訪れた。

ここには帰国の翌日、僕が初めて筏さんの追跡情報を見たときから変わらぬ感動がいつもある。

筏さんが航行する南太平洋には海と空と水平線しかなく、いつも概ね静かだ。

昼間は明るく、夜は暗い。しかし、月齢の大きな夜には月明かりを捉えるなど、日々変化もある。

「地球には、こんな場所もあるんだな。」

「誰も、自分の知ることしか知らずに生きてるんだなって、何かそんな実感湧いてきますよね。」

「分かるそれ。なんか哲学しちゃうよな。」

今日も、僕の世界は少し広がるのだった。


25.

早いもので11月中旬。

なんだか、歳をとるごとに時間の流れが早くなっていくような気がする。

さて、筏さんはその後も順調に航海を続け、なんと南緯60度12分24秒、西経158度20分18秒の位置に達していた。

南緯60度を超えたその場所は紛れもなく南氷洋! ついに筏さんは南極の入り口に到達したのだ。

いつの間にか、プロジェクトのホームページのタイトルは『目指せ南極! 南半球探査プロジェクト』に変わり、来訪者も少しだけ増えていた。

本当にいけるんじゃないか。何となくそんな雰囲気になりかけていた。


26.

南極大陸の北端の緯度は南緯63度なので、筏さんにはもう少し南寄りの航行が望まれたが、その後筏さんは南緯60度前後を東向きに移動し続け、

そして12月のある日、南緯60度13分、西経139度0分の地点で、消息を絶った。

僕は、ここまでの筏さんの健闘に対する喜びと、残念な近況に対する落胆の交錯した複雑な気持ちを抱え、年末を迎えるのだった。


27.

年明け、僕、英二、将洋、怜がIOCに集まった。

プロジェクトの今後について話し合うためだ。

筏さんが消息を絶ってから、将洋は何度か筏さんの起動を試みていたが、成功しなかった。

「実は12月に入ってから、発電量とバッテリーの残量が下がってきてて、気になってたんすよ。高緯度に入ってタフな環境にも晒されていただろうし…」

「時化で転覆したのかも」

「衛星インターネットのプロバイダーは『汎地球的』と謳っているけど、実際には電波を拾いにくい海域が存在しているのかもしれない」

結局のところ原因は不明だが、引き続き今後1か月ほど筏さんとの交信を試み、もし回復しないようであればプロジェクトは終了することとした。


ホームページの掲示板には

「夢をありがとう」

「筏さんは南海の果てで安らかな眠りについたのかもしれませんね。プロジェクトの皆さんもゆっくり休んでください」

「もしかすると、人知れずひっそりと南極の海岸に漂着してるかもしれませんよ」

といった感じの書き込みがいくつか寄せられた。


なんというか、一気に『終わった』という雰囲気になっていった。


28.

2月に入った。ある日のIOCでの出来事だ。

「やっぱりダメか。せめて結末だけでも知りたいよなぁ。」

「まあ、そうっすよねー」

「あれっ、これって…」

『S48°44'14" W115°05'23"』

座標だ。筏さんの現在位置を示している!

あまりにも不思議で、あまりにも突然の出来事だったので、それを見た瞬間、僕は現実感を失った。

大げさに聞こえるかもしれないが、『狐につままれるよう』とはこのことだ、と本当に思った。

「間違いないっす。ログデータも残ってるみたいっす。」


「え、筏さん繋がったの? マジ!? すげぇな!」

ちょうど通りがかった顔見知りの下宿生が驚いている。変な感じだが、それを見て僕も実感が湧いてきた。

嬉しいことにこの2か月弱、筏さんは東北東の方角に向かって航行を続けていたのだ。

そして、残念なことに筏さんの航路は少しずつ北上しており、すでにペルー海流に拾われつつあることが分かった。

恐らく、今後南極大陸を捉えることはないだろう。


29.

僕たちはプロジェクトに一区切りをつける意味で、出資してくれた方やホームページを見てくださった方々に向けて、報告会を開いた。

集まった10名ほどを前にこれまでの経緯、今後の予定、資金の詳細な使途などを説明した。

今後、僕たちは可能な限り筏さんの追跡を継続し、その結果をホームページに公開していく予定だ。


ところで、資金の募集を初めてすぐに10万円の大金を拠出してくださった元医官ご夫婦への感謝の気持ちを込めて、僕たちはプロジェクトの過程で撮り貯めた写真とメッセージを添えた手作りのアルバムを用意していた。

幸い、報告会に元医官の奥さんが来てくださったので、直接手渡すことができ、とても喜んでもらえた。


30.

その後、筏さんは北上を続け、6月末に南緯23度39分、西経70度24分の地点に停止した。

チリ北部の海岸に漂着したものとみて間違いなさそうだった。

できれば回収に向かいたいところだが、資金的に困難なのと、長大で入り組んだ海岸線をくまなく探すのは現実的に不可能だった。


「でもやっぱり諦めきれないわね。」

堪能な語学力とコミュニケーション力を駆使して、現地メディアに片っ端からメールを送りはじめたのは、なんと南美さんだった。

そして数日後、驚くべきことに返信があった。


31.

返信してきたのは『ギルバート』と名乗る地元新聞社の記者で、内容は以下のようなものだった。

・筏さんのことを小さな記事にして地方面に掲載し、情報提供を呼び掛けたい。

・社の有志で、出来る範囲で海岸の捜索も行うつもりである。

・もしよければ、記事の執筆にあたりメールで簡単な取材をしたいので返信が欲しい。


乗らない手はない。

さっそく南美さんがギルバートに返信すると、プロジェクトや筏さんに関する質問が並んだ取材メールが来た。

それを南美さんがざっくり翻訳し、プロジェクトの概要については主に怜が、筏さんの技術的、機械的な質問には主に英二と将洋が回答し、それをまた南美さんが翻訳して返信した。

僕はあまり力になれなかったが、みんなの雄姿をしっかりと見守った。


32.

ひと月ほどが経ち、筏さんを放流してからちょうど1年となった。非常に残念なのだが、先日、ついに筏さんとの通信が途絶した。

ほぼ時を同じくして、ギルバートから国際郵便が届いた。

中には新聞に掲載された記事と、取材協力のお礼や未だ筏さんの発見には至っていない旨などが記された直筆の手紙、それにはがき大のイラストが同封されていた。

氷山の横を航行する筏さんの姿を描いたものだった。

取材時に送った筏さんの写真をもとに、絵心のある社員が書いてくれたものだという。


僕たちはさっそくギルバートにお礼を送り、ホームページに経過を掲載した。


33.

その後、僕たちは5人の都合の合う日に居酒屋に集い、ささやかな打ち上げ会を行った。

「筏さんが見つからないのは残念だけど、みんな無事にここまで来られてよかったな。」

「そうっすね。でも、筏さんはまだ分かんないっすよ。みんなが忘れた頃にひょっこり見つかったりして」

「だといいよな。ところで実は、ちょっとした報告なんだけど…」

英二が不意に切り出した。

「実はさ、俺、南美さんと付き合い始めたんだ。」

「えーーっ!」

僕と将洋と怜は、思わず驚きの声を上げた。

「英二さん、南美さんおめでとうございます! いやー、ホントにめでたいっす!」

「スパークリングワインのボトル入れて、もう一回みんなで乾杯しましょうよ!」


僕は頭の中が真っ白になったが、とりあえず迎合して「おめでとー」とか言っていたと思う。

しかし、おそらく顔は思いっきり引き攣っていたはずだ。


そんなこんなで、僕が目の前の現実を十分に消化できないでいるうちに、会はお開きとなった。

「それじゃあ、僕はちょっと寄るところがあるので、ここで。」

「そっか、じゃあ、またね。」

「あ、はい、また。」

僕はなるべく自然な表情を作り、微笑む南美さんに応えた。

「ごちそうさまでしたー(笑」

「お幸せにー」

すでに逆方向に向かって歩きだしていた僕の後ろで、二人を見送る将洋と怜の声がした。


今さら言うまでもないことだが、僕は南美さんに好意を寄せていた。

さすがに今夜は真っすぐ帰りたくない。


「おーい、渚さん待ってくださいよー」

「ど、どうしたんだよ将洋。怜も。」

「あれ、っすよね。 南美さんのこと。 しゃーないっす。」

「…、ああ、まあな。やっぱ将洋には分かっちまったか。」

「バレバレだったわよ。」

「っすね。」

そのとき、僕の頬を一筋の涙が伝った。

「今夜はもう飲んじゃいましょう、俺とことん付き合うっす!」

「私も終電まで付き合うわ。」

二人の優しさが身に染みた。


34.

翌朝、僕は目覚めると壮絶な頭痛と吐き気、そしてむかつきに襲われた。さらに、目も腫れていた。

この日が日曜日で本当によかった。

恥ずかしい話だが、僕は、昨夜2軒目の居酒屋に行ってからのことをよく覚えていない。

後日聞いたところによると、僕はボトルで頼んだ麦焼酎をロックで煽りながら、恋や愛や人生、地球環境などについて熱く語ったという。

怜と将洋は、僕の優しさと純粋さが伝わって来るいい話だったと言っていたが、なにぶん自分で覚えていないので、本当のところは分からない。

そして、終電を待たずに僕が酔いつぶれてしまい、かなり危なそうだったので、将洋が僕のアパートの最寄り駅の改札前まで送ってくれた、ということだった。

我ながら、なんとも情けない話である。



最終章


探し物があり、チェストの引き出しを引っ張り出して中を漁っていると、懐かしいものが出てきた。

チリの新聞記者が送ってくれた筏さんのイラストだ。

あれから、もう3年も経つ。

筏さんは、結局発見されることはなかった。


英二と南美さんは見事にゴールインし、先日、南美さんは産休に入った。

以前は少し寂しい気持ちもあったが、いまは純粋に二人のことを祝福しているし、南美さんのおめでたも、まるで自分のことのように、とても嬉しく思える。


将洋は大学を卒業し、大手の商社に就職した。

いまは食肉の輸入を手がける部署に在籍しており、海外出張でオーストラリアに行くこともあるという。

将洋もあのシドニーの街並みを見ただろうか。


そして、僕は当時住んでいたワンルームのボロアパートを引き払い、いまは2間あるボロアパートに住んでいる。

「ごはんできたけど、食べる?」

実は、僕は最近同棲生活を始めたのだ。

「ねぇー、ごはーん。」

ごはんを告げる声の主は、あの怜だ。

僕と怜は、プロジェクトが終わった後も何となく連絡を取り合い、時々会う仲になった。

そのうちお互い妙に気が合うことに気づき、自然と付き合うようになり、そして今に至る。

ちなみに怜はいま、ネット金融関係の会社で働いている。

よく知らない人にとっては、少し恐そうなイメージもある業界だが、怜によるとそのようなことは全然なく、とてもやりがいのある仕事なのだそうだ。


僕らはこの先、それぞれの物語を紡ぎながら、新しい季節を進んでいく。

ときに、過ぎ去った季節を懐かしく思い出すこともあるだろう。

ありがとう、みんな。



終わり。

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