94 交渉
当然何らかの抵抗をすると見越して放った波動が、文字通り相手を吹き飛ばしてしまったことに、ブロシウス自身も驚いた。
カノンが反対側から押し戻してくれなかったら、そのまま海に落ちていただろう。
「こ、この、無礼者め!」
王子を抱き留めた従者のツイムというカリオテ人が、怒りのあまり立場も忘れて叫んでいるのを見て、ブロシウスは思わず謝っていた。
「おお、すまん」
「何故こんな酷い真似をしたのだ!」
猶も言い募ろうとするツイムを、王子が止めた。
「いいんだ、ツイムさん。ぼくなら大丈夫だから、下に降ろして」
「はっ」
甲板に降ろされたウルスは、笑っていた。
「寧ろ光栄なことだよ。かの軍師ブロシウスさまから、対等の扱いを受けたんだから」
これにはブロシウスも「ほう」と唸った。
「わしの顔をご存知であったか」
ウルスは「はい」と頷いた。
「まだ幼い頃、エイサに留学してケロニウスさまから魔道の手解きを受けました。決して優秀な生徒ではありませんでしたが。その時、ケロニウスさまの若い頃の肖像画を見せていただく機会があり、兄弟子であられたブロシウスさまの絵も拝見しました」
ブロシウスも感慨深げに、「そうか、ケロニウスの」と呟き、ふと、首を傾げて尋ねた。
「されど、魔道は身に付けられなかったのか?」
ウルスは恥ずかしそうに顔を赤らめた。
「ぼくは生まれつき理気力が弱いんです」
ブロシウスはウルスの霊光を見透かすように目を細め、「確かにのう」と頷いた。
「わしとしたことが、先程は見間違えたのか。力のある者のように見えたが」
独り言のようにいいながらも、ブロシウスは自分を睨みつけているツイムの視線に気づいた。
「いや、これは失礼した。立ち話もなんじゃ、わしの部屋へお招きしよう。カノン、お二人を案内せよ」
カノンは黙って頷くと、ウルスとツイムの前に立ち、「どうぞ、こちらへ」と促した。
三人が甲板から降りると、ブロシウスは、憮然としているマオール人の船長に、「騒がせたの」と一言詫びて自分も船室に向かった。
ウルスの前では、自分の微妙な立場を知られたくなかったらしい。
船室で薬草茶を飲みながら、エイサでの生活を愉しげに語るウルスを、ブロシウスは計りかねていた。
そのエイサを焼き討ちするようゲール皇帝に進言したのは、他ならぬブロシウスなのである。
ついに痺れを切らし、ブロシウスの方から尋ねた。
「ところで、王子は、わがガルマニア帝国に頼み事があられるとか」
ウルスは無邪気な顔で「はい」と頷くと、恐るべきことを言った。
「エイサの中に、バロード王家の領地がございます。そこを、ぼくにお返しください」
「な、なんと、言われた?」
ブロシウスだけでなく、警戒心剥き出しで横に座っていたツイムも唖然とした。
大人たちの反応は予測済みなのか、ウルスは平然と話を続けた。
「そもそもエイサは、古代バロード聖王国が魔道師たちに寄進した土地でした。そのため、聖王国が滅亡した際、その一部を王家の子孫に差し出したのです。お陰で、細々ながらバロード王家は存続することができました」
「それはそうじゃが、そこを返せとは、どういう意図かの?」
不審な顔のブロシウスに、ウルスはキッパリと答えた。
「勿論、新バロード王国を再興するためです」
前日の夜。
ファイムの家で出発の準備のため、与えられた部屋に一人となったウルスは、周りに聞こえないよう小さな声を出した。
「姉さんの考えって、何?」
顔が上下した。
「ガルマニア帝国側の交渉相手は、恐らく軍師ブロシウスよ」
「そうかな?」
「そうよ。万が一、本人が来れなくても、代理人を寄越すはずよ。まあ、本人である可能性が一番高いと思うけど」
「へえ、それは何故?」
「外交交渉の責任者だからよ。かれ以外の人間が担当するようなら、かれは不要ということになる。ガルマニア帝国で不要ということは、即、死を意味するわ」
「怖い国だね」
「そうよ。だから本人が来ると思うわ。その時、ちょっとしたお芝居をして欲しいの」
「ぼくが?」
「決まってるじゃない、わたしは表に出られないんだから」
「どうすればいいの?」
「ブロシウスは元々魔道師よ。初めから表舞台には出ないと思うわ。でも、交渉は直接の方がいいから、お芝居をして、表に引き擦り出すのよ。わたしが表面に出なくても、霊光は出せるから、それで罠に掛けるわ」
「ふうん。で、出てきたら、どうするの?」
「領地を返せ、と言うのよ」
「え、どこの?」
「しっ、声が大きいわ。エイサの中の、王家領よ」
「はあ? 畑と小さな屋敷しかないよ」
「それでいいの。そこで宣言すればいいだけだから」
「何を宣言するの?」
「あなたが、新バロード王国の王位継承することを、よ」