864 南海の秘密(10)
翌朝、目醒めたジェルマ少年は、一瞬自分がどこにいるのかわからない様子で、慌てて周囲を見回したが、寝台の横に寄り添っているゴーストを見つけ、「わっ!」と声を上げてしまった。
「な、なんだよもう、びっくりするじゃねえか!」
ゴーストの透明な頭部の中で、歯車が動き、硝子玉が明滅した。
「おお、すまぬ。ずっと寝顔を見ていたら、わしの方も休眠状態になっておったようだ」
「え、それはつまり、居眠りしてた、ってことかい?」
「平たく言えば、そうだ」
「へえ、あんたも夜は寝るんだな」
ゴーストは笑いを含んだ声で応えた。
「夜だけではないさ。必要がなければ、百年ぐらい眠っているよ。エネルギーがもったいないからな」
「変なの。じゃあ、逆に起きてる必要があるのはどんな時だい?」
「今のような時さ。救難信号が来るまでは、定期気象観測で監視機構の一部しか稼働していなかった。そこで判断がつかないような異常が発見されたから、急遽起こされたのだ。お陰でおまえに逢えたのだから、あの人工実存に感謝せねばな」
「あっ、そうだ! ゾイアのおっさんがどうなったか、様子を見たかい?」
「いや。昨日から、ずっとここにおったからな。ふむ。何も警報は来んかったから、大丈夫とは思うが。おまえの朝食が済んだら行ってみようか?」
ジェルマは激しく首を振った。
「何言ってんだよ! おいらの朝飯なんか、後でいい。それに、おっさんだって腹が減ってるはずさ。どうせ喰うなら一緒がいい」
ゴーストは考え込むように、忙しく歯車を動かし、硝子玉を光らせていた。
「食事が必要とは思えぬが、食べる機能もある、ということだな。なんと羨ましい! あ、すまぬ、今言ったことは忘れてくれ。では、行ってみるとしよう」
一緒に建物を出たが、昨日二人が出て来た辺りには何もなく、遥か向こうの地平線まで道が延びていた。
「あれ? あの真四角の狭い部屋は、どこへ消えたんだ?」
首を傾げるジェルマに、ゴーストは「ここさ」と言いながら、短い腕を蛇腹のように伸ばし、何もない空間を鋏のような二本の指で、コンコンと叩いた。
すると、その背景にスーッと黒い線が入り、左右に分かれると、昨日乗って来た箱のような部屋が現れた。
「なんだ、こっち側の景色は、丸々偽物かよ」
「そういうことだ。さあ、昇降機に乗ってくれ」
二人が乗り込んで扉が閉まり、身構えていたジェルマは、「あれ?」と声を上げた。
「あ、そうか。下がるんじゃなくて、今度は上がるのか。うーん、やっぱり、ちょっと気持ち悪いぜ」
ジェルマは、リフトが止まった瞬間にも「わお」と声を出したが、慣れてきたのか、それ以上文句は言わなかった。
だが、扉が開いた途端、「え、まさか、これがおっさんなのか?」と泣きそうな声を出した
そこには、林檎くらいの光る球体が空中に浮かんでいたのである。
ジェルマの質問に答えるように、球体は光を明滅させた。
それに気づいて近づこうとしたジェルマの肩を、ゴーストの二本の指が押さえた。
「行くな。初期化状態で触れれば、おまえの情報が上書きされてしまうはずだ。少し待て」
ジェルマにも、ゴーストの言葉の意味はわからなくとも、そこに含まれる警告は充分通じたようで、黙って頷いた。
と、光る球体に、ツーッと縦に線が入って二つに割れ、今度はツーッと横に線が走って四つとなり、後は目まぐるしいほど細かく分裂して行った。
同時に全体が大きくなり、上下に伸びて次第に人型になってきた。
やがてそこに出現したのは、ダークブロンドの髪の筋骨逞しい男の裸体であった。
パチリと目が開き、アクアマリンの瞳がジェルマの姿を捉えると、ニコリと微笑んだ。
「すまなかった。心配をかけたな、ジェルマ」
それを聞いたゴーストが、ジェルマの肩を押さえていた指を外し、「もう大丈夫だ」と告げた。
「おっさん!」
ジェルマは、そう叫びながらゾイアに抱きついた。
「良かったなあ。腕も脚も元どおりだ。あ、でも、そうか、服は全部海に流れちゃったんだな。うーん、何とかしなきゃな」
ゾイアは苦笑した。
「三千年前のジェルマにも、同じ心配をされたよ。あの時は、近所の農家から服を都合してくれたが、さて、海の底では、どこから手に入れたらいいのか、わからんな」
と、ゾイアの言葉が聞こえたらしいゴーストが、近づいて来た。
「もしかして、三千年前のジェルマと言ったか?」
これには、現在のジェルマが頬を膨らませて、二人に告げた。
「なんだよなんだよ、二人ともご先祖さまのことばっかり! って、言いたいとこだけどさ。積もる話は、朝飯を喰いながらしよう。さあ、一緒にリフトとやらで、下に降りようぜ!」
下で市街地を目にしたゾイアは、「ほう。立体虚像か」と呟いた。
それを耳にしたジェルマが、軽く舌打ちした。
「おっさんも、おいらがわかんねえ言葉を知ってんだな」
が、言ったゾイアも首を捻っている。
「思わず出たのだ。われにもよくわからぬ」
先に進んでいるゴーストは気が急くのか、「説明は後でする。こっちだ」と手招きした。
三人が入ったのが昨日と同じ部屋だということは、テーブルと子供用の椅子が残っていることで、ジェルマにもわかった。
但し、もうベッドは消えている。
と、ゴーストが、白い壁に向かって叫んだ。
「許可番号8823! 体格のいい大人用の服を一着、大人用の椅子を一脚、それに子供用と大人用の朝食を一人前ずつ、要求する!」
すると壁に横にスーッと線が入って割れ、風合いの良さそう部屋着が出て来た。
同時にテーブルの横の床が膨らみ、大きめの椅子になった。
朝食は、卵料理とパンは共通で、ジェルマには果物を絞った汁が、ゾイアには湯気の立つ黒い飲み物が供された。
「薬草茶とは違うようだが、これは何だ?」
ゾイアの質問に、ゴーストは透明な頭部を左右に振った。
「わしに聞かれても困る。少なくとも、毒ではないはずだ」
ゾイアはカップを持ち上げて「ほう。良い香りだ」と言うと、一口飲んだ。
「ふむ。少し苦みがあるが、深い味だ。旨い」
既にガツガツと食べ始めていたジェルマが、「おっさん、ご先祖さまのこと話してやれよ」と促した。
「うむ。そうだな。われがギルマンに行った時のことだが……」
「……と、いうことで、われはジェルマに別れを告げたのだ」
料理を食べ終わり、黒い飲み物も二杯目を飲み干したところで、ゾイアの話も終わった。
聞いている間中、ずっと水色の硝子玉をチカチカさせていたゴーストは、「ありがとう」と吐息のように礼を述べた。
「苦労をさせたが、明るく生きてくれたようで、安心した。しかも、ちゃんと三千年の天寿を全うしたのだな。これでもう、思い残すこともない。おお、そうか。わしの方の話がまだであったな。三千年前、ちょうどあの子が家出をしていた時、わしと妻は殺されたのだよ」
(作者註)
三千年前のジェルマについては、 684 ギルマン争奪戦(20)+過去への旅(1) から 、 697 過去への旅(14)+ギルマン争奪戦(22) までをご参照ください。