861 南海の秘密(7)
猛毒の海月に刺された片腕を自切し、下半身を大型魚類の尾鰭に変えたゾイアは、嵐の海を猛烈な速度で突き進んだ。
最早ジェルマが何を話し掛けても返事はない。
「おっさん、まさか気絶してんじゃねえだろうな?」
が、たとえそうだとしても、泳ぐ速度に変わりはなく、朧げに見えていた島影はぐんぐん近づいて来ている。
暗くて見えにくいが、大きさは島というより、岩礁のようだ。
「砂浜があるといいが、望みは薄いかな」
更に近づくと、ジェルマは妙なことに気づいた。
「あれ? 変だな。上が随分と真っ平だぜ。ってか、左右が殆ど直角だ。こりゃ、いったい……」
薄暗がりに浮かぶ輪郭は、横長の壁のように見える。
と、漸く収まりつつあった風雨の切れ間なのか、一筋の月光が差し込んだ。
そこに見えて来たのは、正に壁であった。
海面から垂直に切り立っており、砂浜どころか、取り付く岩すらない。
しかも、月光に照らされて光る壁面は、燻んだ紅色の金属のような光沢がある。
「こ、これは、自然のものじゃねえぞ。ってか、このまんまじゃ、ぶつかっちまう! おっさん、わかってんのか!」
ジェルマが必死でゾイアに呼び掛けると、またあの変な声が聞こえた。
「……メーデー、メーデー、メーデー。緊急避難を要請する。現在メインシステムダウン中。こちらセーフモードプログラム。現地人の幼児一名を同行している。メーデー、メーデー、メーデー……」
「幼児じゃねえよ、って言ってる場合じゃ、うわっ、ビックリした!」
目前まで迫っていた金属の壁に、ポツリと黒い点が現れたかと思うと、見る間に拡大して大きな穴になったのだ。
穴の下の縁は、海面ギリギリまで下がっている。
が、穴の中は真っ暗で、何も見えない。
「お、おっさん、ここに入るのか?」
勿論返事はなく、ゾイアの尾鰭が大きく海面を叩くと、吸い込まれるように穴に入った。
「うわっ。え?」
当然、何らかの衝撃があるものと身構えたジェルマが拍子抜けするほど、ゾイアの身体はフワリと空中に停止していた。
ジェルマが振り向くと、丸い穴は急速に縮んで行き、フッと消えると、鼻を摘ままれてもわからないような、真の闇に包まれた。
それだけでなく、風の音も波の音も聞こえず、シーンと耳が痛くなるような静寂さである。
「どうなってんだよ!」
思わず叫んだジェルマの声が、「なってんだよ」「んだよ」「よ」と木霊のように反響する。
そのせいなのか、静かだった暗闇に、ゴゴゴゴッと鈍い音が響いて来た。
と、どこからか赤っぽい弱い光が照らし出し、中の様子が見えてきた。
思ったほど大きくはないが、小さな城ぐらいの何もない空間である。
壁が緩く内側に曲がっているようなので、ジェルマが上の方を見ると、円形であった。
下の方は暗すぎて良く見えないが、巨大な円筒形のものの、上の一部分だけが海面に出ていたらしい。
その間にも、ゴゴゴゴッという音は徐々に大きくなってきている。
「いい加減にしろ! 誰か説明を、ひえっ! 落ちる!」
ジェルマは落ちると言ったが、空中に浮かんでいるゾイアを含め、全体が下に向かっているらしく、円形の天井も一緒に降りて来ている。
……どれくらいの時間が経ったのか、驚き疲れてぐったりしていたジェルマが、再び叫び声を上げた。
「おいおいっ! 床が見えて来たぞ! 何処の何さまだか知らねえが、おいらとおっさんをペシャンコにするつもりかよ!」
ジェルマが言うとおり、天井と同じ円形の床がぐんぐん近づいていた。
「なあっ! 聞いてんのか! もう止めねえとヤバ、うえっ! 止めるなら言えよ。ああ、気持ち悪っ」
動き出した時と同様、巨大な円筒は一瞬にして停止していた。
床はもう、ジェルマの身長ぐらいしか離れていない。
ゴゴゴゴッという音もスーッと消えていった。
同時に、空中に浮かんでいたゾイアの身体がドスンと床に落ち、ジェルマも投げ出された。
「ったく、もう! 責任者、出て来やがれ!」
その声が届いたのか、横の壁にスーッと縦に黒い線が走り、左右に拡がって、人が通れるくらいの隙間が開いた。
「あ、ごめん。言い過ぎたなら、先に謝っとくよ」
誰かが出て来ることを予期して、ジェルマは早口で告げたが、出て来たのは、人間ではなかった。
「な、何だ、こりゃ? 人形か?」
一見、甲冑を着ているようにも見えたが、胴体は壁と同じ金属のようで、それに短い手足のようなものが付いている。
だが、それ以上に人間離れしているのは頭部で、全体が頭巾のような透明なものに覆われ、透けて見える内部に、様々な金属の歯車のようなものや、色とりどりに光る硝子玉のようなものが、雑然と詰め込まれている。
その口に当たるであろう部分には、小さな鉄格子のようなものが嵌め込まれており、そこから抑揚のない声が聞こえて来た。
「……救難信号を、受信した。おまえは、嵐が収まれば、海上に戻す。暫く、待っていろ」
「え? おいらはって、おっさんは、どうすんだ?」
「不具合が生じているようだから、一度初期化する」
ジェルマに詳しい知識はなかったが、相手の告げた『初期化』という言葉に、ゾッとするような冷酷な響きを感じた。
「じょ、冗談じゃねえぞ! そんなことさせるか!」
ジェルマは掌を突き出して波動を打った。
が、相手の金属の胴体は、ポコンと凹んだだけで、すぐに元に戻った。
「抵抗は無駄だ。少し大人しくしてもらおう」
短かかった金属の腕が突然スルスルと伸びると、その先に付いている鋏のような手から、バチバチと小さな稲妻がジェルマに飛んだ。
「うぎゃあっ!」