858 南海の秘密(4)
元海賊のラカムが用意したという船に乗り込もうとする直前、ジェルマ少年は海が荒れそうだとゾイアに警告した。
驚いたゾイアは、朝日に照らされた穏やかな海面を見て、首を傾げた。
「とてもそうは見えぬが」
ジェルマは軽く舌打ちして、自分がずっと無視していたラカムの方を向いた。
「なあ、あんたにはわかってるだろう? この感じだと、昼には雨が降り出して、夜には大荒れになる。今日は止めといた方がいいんじゃねえか?」
ラカムは明らかに動揺していたが、目を泳がせながらも反論した。
「せ、せっかく船を手に入れたし、船員も揃えたから、まあ、今日は、試し乗り、ってことでいいじゃねえか。日が傾く前に戻るつもりだし、それに行くとしたら東だろ? 天気が崩れるのは西の方からだから、どこら辺で引き返したらいいかの見極めは、長年海を見て来たおれにはわかるからさ」
因みに、二千年前、一夜にして海没したというダフィニア島は、南の大海のやや東寄りの海域にあったとされている。
そのため、海没後にバルバラ大陸に渡った人々が最初に作った国であるダフィネは沿海諸国の東端にあり、そこから西へ西へと次々に小さな国や自由都市ができて行ったのである。
当初、所謂失われた種族中心の人口構成であった沿海諸国だが、一般の人間が流入するにつれて出生率の大きな差によって構成比が逆転してしまい、最古のダフィネ以外では、現在では殆ど一般の人間の国になっている。
今、ゾイアたちがいる港町は、カリオテとダフィネの中間ぐらいに位置する自由都市で、ダフィニア島のあった場所を見に行くなら、海上を東に進むことになる。
尤も、とても日帰りで行ける距離ではなかった。
本来なら、ジェルマの言うとおり今日の出航は取り止め、嵐が過ぎるのを待つべきであろう。
しかし、ゾイアは、ニコリと笑って頷いた。
「ジェルマの心配もわかるが、ここはラカムどのの判断に従おう。但し、絶対に無理はしないでくれ」
ラカムはあからさまにホッとした顔で、胸を叩いた。
「おお、任しときな!」
気が変わらぬうちにと思ったのか、先に舷梯を駆け上げるラカムの後ろ姿を見上げながら、ゾイアは頬を膨らませて睨んでいるジェルマに、小さな声で囁いた。
「気をつけてくれ、多分、罠だ」
ギョッとした顔で、「じゃ、何故……」と言いかけたジェルマに、ゾイアは「後で」と告げ、片目を瞑って見せた。
船内の様子がわからないラカムに代わって、先に乗り込んでいた船員に案内され、ゾイアとジェルマは船室の一つに入った。
元は客用であったらしく、寝室と居間に分かれている。
ラカムも含め、出航の準備が慌ただしく始まる中、ゾイアとジェルマは手分けして船室の中を調べ、同時に結界を張った。
船室内の安全が確認できると、二人は居間の方に座った。
「ふむ。一応、これで大丈夫だろう」
ゾイアが言うと、待ちかねたようにジェルマが尋ねた。
「罠って、どういうことだよ?」
「われは海のことはよくわからんが、目は非常にいいのでな。この船の帆柱の天辺にある、小さな旗の文字が見えた。あれはマオール語だ」
「えっ、でも、船は沿海諸国のものだし、船員もそうだぜ」
「ああ。だから余計に変なのだ。それにラカムの態度が、明らかに昨日と違う。何かに怯えているようだ」
ジェルマは口を尖らせた。
「だったらなんで態々罠に飛び込むんだよ!」
ゾイアは苦笑した。
「実は、それがわれの本来の役目だからな。われが沿海諸国に来たのは、ガルマニア帝国を始め中原内の争乱に、これ以上マオール帝国が介入することを防ぐためだ。そこで、伝手のあるカリオテ大公国と同盟を結ぼうと考えた。ところが、われ自身、あまりにも沿海諸国のことを知らな過ぎるため、事前に見聞しておきたかったのだ。ダフィニア島のこともな」
「ふーん。すると、おっさんの正体がマオール側にバレた、ってことかい?」
「そこがまだわからぬのだ。だから、敢えて罠に掛かり、相手の意図を探るつもりだ。が、おまえはいつでも好きな時に逃げてくれ」
ジェルマが少し恥ずかしそうな顔をしたため、ゾイアはすぐに続けて言った。
「もし跳躍できぬなら、われが転送してやろう。念のため、おまえと最初に出会った路地には、座標を設定してある」
ジェルマは鼻を鳴らした。
「馬鹿にするな! そりゃ確かに、まだリープには自信がないけど、浮身はできるさ、一応、な」
「で、あればよい。ジェルマが、あ、いや、おまえのご先祖さまの方だが、長命族は理気力の成長もゆっくりだと言っていたのを思い出したのでな」
「へえ。そんなことまで教えたのか、おいらのご先祖さまは。よっぽど、おっさんを信用してたんだな。あ、そうか!」
「どうした?」
「親父が持ってる秘伝書に、初代サンジェルマヌス伯爵の『潜時術』に関する記述があって、それによってケルビムを救った、って書いてあったよ。そのケルビムって、おっさんのことだろ?」
「うむ、そうだ。やはり、われの知らぬところでも助けてくれていたのだな。ん? 誰か来るようだ。一旦話を終わろう」
二人が黙った少し後、遠慮がちに部屋の扉が叩かれ、ラカムの声がした。
「今、いいか?」
ジェルマに目配せすると、ゾイアは何気ない声で応えた。
「ああ、どうぞ入ってくれ」
「それが、ちょっと手が塞がってるんだ。すまねえが、中から開けてもらえるかい?」
ゾイアがサッと立って扉を開けると、手に茶器の載った盆を抱え、精一杯愛想笑いを浮かべたラカムが立っていた。
「特製の薬草茶を作って来たんだ。良かったら、二人で飲んでくれ」