857 南海の秘密(3)
ゾイアのために船を出すと請け負ったラカムは、船着き場に停泊中の大きな船に乗り込み、でっぷり太ったマオール人に報告した。
「お誂え向きに、家出しているらしい長命族の子供が一人。そして、以前にマオロンで太守のお抱えの擬闘士を潰したという、例のガイアックという男でございますよ、チャナール閣下!」
それに対する応えは、「阿呆!」であった。
「わしがどっちかと聞いたのは、確かに一つは攫えそうなメトス族の件だが、もう一つは行方不明のチャロア団長のことだ。わしの手許を離れ、チャドス宰相に付きっ切りになっていたのは仕方ないとしても、そのチャドスが死んだ以上、本来の主人であるわしのところへ戻るべきではないか。それなのに、あやつは連絡一つ寄こさんのだ!」
先に死んだチャドスの影武者になっていたため、身代わりにチャロアの首が斬られたことは伝わっていないらしい。
因みに、元々暗黒都市マオロンの警備団長であったチャロアは、占領下のエイサも任され、最近ではチャドス配下の全東方魔道師を統括する立場になっていた。
典型的な同族支配であるが、とすれば、このチャナールも一族であろう。
一方、褒められるものとばかり期待していたらしいラカムは、不満そうに言い返した。
「だって、ガイアックって男を捜せって、以前に仰ってたじゃありませんか」
チャナールはピリピリと顳顬に血管を浮かせて、「馬鹿者!」と罵った。
「そのガイアックこそ、今や中原に知らぬ者がいない獣人将軍ゾイアなのだぞ!」
ラカムは驚愕のあまり、その場にへたり込んだ。
「えっ、ええっ。そんな、そんな風には、見えなかったですぜ」
「ふん。ゾイアは何にでも変身するそうだ。が、平凡な見かけをしていたのなら、何か探りに来たのだろう。はて、どうすべきかのう?」
考え込むチャナールの前で、ラカムは掌で壁を塗るような仕草をした。
「どうするって、決まってまさあ。逃げましょう。当分遊んで暮らせる金も手に入ったし、逃げなきゃ損だ。いや、閣下が止めても、おれは逃げますぜ!」
チャナールは嫌な目つきでラカムを睨んだ。
「駄目だ。これは千載一遇の好機かもしれん。チャドスが失脚して以来、ガルマニア帝国にいるわがチャ族は次々に地位を追われ、その煽りで、わしもマオロンを手放さざるを得なかった。起死回生の手段として、メトス族を捕まえてヌルギス陛下に献上しようと思ったが、そこへ更に獣人将軍を加えたら……」
チャナールは北叟笑みながら、改めてラカムを見た。
「褒賞は望みのままだぞ! おまえにも、今懐で温めている金以上の謝礼をやろう。だがら、知らぬ顔をして船を出せ。なんなら、わしが船を用意してやってもよいぞ。それで沖へ出たところで二人に薬を飲ませ、眠らせたままマオールへ拉致するのだ!」
ラカムは泣きそうな顔で、首を振った。
「おれには無理だよ。船には乗せるから、後はあんたらでやってくれよ」
チャナールは椅子から立ち上がり、重たそうな身体を揺すりながら、床にへたり込んだままのラカムに顔を近づけた。
「わしの配下は全員マオール人だ。おまえと交替すれば、絶対に怪しまれる。おまえがやるしかないんだ。沖合で薬を飲ませるだけの、簡単な仕事だぞ。嫌なら、今ここで殺す」
チャナールが入口に向かって合図すると、屈強なマオール人がゾロゾロと入って来た。
恐らくマオロンでグラップラをやっていた者たちだろう。
ラカムはガクガクと頷いた。
「や、やる、やるよ。その代わり、薬を飲ませて二人が眠ったら、そっちの船に移し替えてくれ。後は煮るなと焼くなと、あんたらの勝手だ」
チャナールは満足そうに笑った。
「いいだろう。おまえと組んでやっていた奴隷貿易と同じ手順だな。但し、途中でゾイアに気づかれるなよ。まあ、尤も、バレた時には、おまえは獣人将軍に殺されるだろうが、わしの名を、いや、マオールという言葉すら口にすることは許さん。よいな?」
覚悟が決まったのか、ラカムは昂然と顔を上げた。
「おれは海賊だぞ。仲間を売るぐらいなら、自分で海に飛び込むさ」
チャナールは鼻で笑った。
「いいぞ、元首領。では、船はこっちで用意する。明日の朝、同じ場所に、もう一回り小さな船を繋留しておく。ついでに、現地の船員を数人、日銭で雇って乗せておいてやる。おまえは、その二人だけ連れてくればいい」
「わかった。じゃあ、頼んだぜ」
が、出て行こうとするラカムの前を、チャナールの手下たちが塞いだ。
その背中に、チャナールが声を掛けた。
「おいおい、そのまま行くつもりか? 船と船員を準備すると言ってるんだぞ。代金を払わんか。懐に入ってるんだろう?」
ラカムは小さく舌打ちしたが、懐に手を入れて、ゾイアから貰った革の袋を取り出した。
振り向いて「いくらだ?」と聞くと、チャナールは惚けたような笑顔で答えた。
「勿論、全部だ」
ラカムは深く息を吸ったが、手下たちがグッと迫って来たため、諦めたようにその中の一人に、袋ごと手渡した。
翌朝、ラカムがゾイアとジェルマ少年を連れて来ると、それらしい船が留めてあった。
「おーい、おれだ、ラカムだ! 舷梯を下ろしてくれ!」
船の甲板から、「畏まりました、船長!」と返事があり、緊張気味のラカムの片頬が少し緩んだ。
「さあ、乗り込もうぜ!」
ゾイアも笑顔で礼を述べた。
「やはり大したものだな。こんなに早く船と船員を用意してもらえるとは有難い。ラカムどのに頼んでよかった。ところで、子供も一緒だが、構わぬか?」
「構わねえさ! 見たところ沿海諸国のガキ、あ、いや子供のようだしな。だったら、産湯代わりに海で泳いでた、ってもんだろう。なあ、坊主?」
やけに燥いだ声で話しかけるラカムを、ジェルマは完全に無視した。
目を細めて、鏡のように穏やかな海を見ていたが、ポツリとゾイアに告げた。
「おっさん、海が荒れそうだぜ」