853 ガルマニア帝国の興亡(95)
ガルマニア帝国の内戦にこれ以上マオール帝国が干渉することを防ぐべく、沿海諸国を訪れたゾイアは、盟主であるカリオテ大公国へ行く前に、周辺の小国や自由都市を調査していた。
そうした中、路傍に蹲る幼い少年が目に留まり、声を掛けた。
占いで小銭を稼いでいるという少年に、ゾイアは、その少年とよく似ているジェルマが幸せに暮らせたかを問うた。
すると少年は、何故自分の名前を知っているのかと驚いたのであった。
「ほう。おまえもジェルマという名前なのか。ああ、尤も、われの知っている子供の本当の名は、サンジェルマヌスというのだが」
少年は更に目を見開いて、まじまじとゾイアの顔を見た。
「そうだよ。それがおいらの本当の名さ。ご先祖さまに肖って親父が付けてくれたんだ。でも、そんな名前じゃ重たすぎるから、普段はジェルマで通してる」
ゾイアは苦笑した。
「成程、そういうことか。では、おまえも長命族なのだな?」
ジェルマ少年は口に指を当て、「シッ!」と言うと、左右を見回した。
「誰かに聞かれたら、どうすんだよ! 未だに、メトス族の生き血を飲めば長生きできるって信じてる阿保がいるんだぜ!」
「おお、すまぬ。そんな迷信はとっくに廃れていると思っていたよ」
ジェルマは軽く舌打ちした。
「おっさん、地元の人間じゃねえな。確かに、沿海諸国じゃ誰もが迷信だとわかってるさ。ダフィネのトラヌス伯爵なんかが一生懸命に宣伝したからな。でも、あいつらはわかってねえんだ」
「あいつら?」
ジェルマは、また左右に視線を走らせ、声を低めた。
「マオール人さ。何でも、皇帝が長生きできる方法を探せと命じてて、あちこちで無茶なことをやってるらしい。おいらだって、この三十年の間、何度も攫われそうになったよ」
「三十年? ああ、そうか。そういえば、われの知っているジェルマも、本当は百五十歳だと言っていたな」
ジェルマは疑わしそうに目を細めた。
「おいらと同じぐらいの見かけで百五十歳なんて、今時そんな純粋なメトス族なんていねえよ。おっさん、何者だ?」
ゾイアも周囲に人がいないことを確かめると、髪と瞳の色を、本来のダークブロンドとアクアマリンに戻した。
「われは、ゾイアだ」
ジェルマは、自分が声を潜めるように言ったことも忘れて叫んだ。
「ええっ、おっさんが獣人将軍なのか!」
今度はゾイアが片目を瞑って指を口に当て、髪と瞳の色を目立たない焦げ茶色に戻した。
「長い話になりそうだ。どうだ、飯でも食いながら、ゆっくり話さぬか?」
ジェルマの顔がパッと輝いた。
「いいとも!」
一方、旧マインドルフ領に向かっている二万のマオール軍に対処するよう、元首リンドルに命じられたハリスは、帝都ゲオグストから龍馬に乗った。
すぐには南下せず、一旦西へ進み、旧リンドル領の外を廻る進路を採った。
「リンドルが、血迷って、わたしを、討とうとする、かもしれぬ、からな」
騎乗したまま、悔しそうに呟いている。
友情は最早修復不能であろうが、ここでマオール軍を食い止めねば、共に滅びることになる。
「どうするか……」
悩みながら進むうち、前方に徒ならぬ土煙が見えて来た。
「おお、なんとか、間に合った、ようだ」
マオール軍らしき一団が東に向かって猛烈な勢いで進んでいるが、見たところ戦闘が行われている気配はない。
「伸るか、反るか、やってみるしか、ないな」
ハリスは龍馬を止めると、その場から浮身した。
マオール軍の進行方向のやや前方上空に到達すると、何らかの魔道具によって拡大したらしい音声で話し掛けた。
それは中原の言葉ではなく、極めて流暢なマオール語であった。
特有の抑揚も多少あったが、逆にマオール語にはそれが合っているようだ。
そのため、マオール軍は自然に速度を落とした。
マオールの兵士たちよ!
わたしはガルマニア帝国の国防長官ハリスだ!
暫し馬を止め、わたしの話を聞いて欲しい!
おお、ありがとう。
言葉を聞いてもらえばわかるだろうが、わたしはかつてマオールに住んでいたことがある。
二代皇帝ヌルガン陛下の御世だった。
まだ幼子であったわたしは、自分がマオールに居ることに何の疑念も持っていなかった。
自分が奴隷商人に攫われ、子のない夫婦に買われたと知ったのは、ずっと後のことだ。
ただ、日に当たると皮膚が爛れる持病があったから、ずっと屋敷の中で暮らしていた。
ところがある日、屋敷から出ざるを得ないことが起きた。
優しかった養い親が、二人とも殺されたからだ。
殺したのは、現在の皇帝ヌルギスだ。
そして、わたしの養い親こそ、左大臣リュウシコウであった。
ハリスの話を聞いていたマオール軍から、大きなどよめきが起こった。
それは反感や嫌悪ではないものの、単純な驚きとは異質なもののようであった。
それをどう判断したのか、ハリスは話を続けた。
そうだ。
知っている者は知っている。
左大臣リュウシコウこそ、最後までヌルギスの即位に反対した人物だ。
だが、当時のわたしは何も知らず、屋敷の召使いらが生命懸け逃がしてくれねば、一緒に殺されるところであった。
マオール国内を転々とした後、何とか東廻り航路の船に潜り込み、中原に戻って来たのだ。
自分の持病から同族を探すのは容易で、本当の両親ともすぐに再会を果たすことができた。
だがその後、ごく親い者以外にこの話をしたことはない。
さて、わたしがこのような身の上話をしたのは、諸君の同情を引くためではない。
わたしがこれから提案することを信じてもらいたいからだ。
諸君らの今の立場がどういうものか、恐らく中原の誰よりも、わたしはわかっているつもりだ。
ヌルギスの残虐非道さは、身に染みている。
母国に帰れぬ以上、諸君らが何としてもここで土地を手に入れようと焦る気持ちもわかる。
が、そのために多くの犠牲を払う必要はない。
マインドルフは、自分の旧領を力尽くで奪えと言ったのだろうが、わたしは進んで提供しようと思っている。
抑々ガルマニア帝国は多民族国家だ。
それは、中原に限定されたものではない。
実際、マオール出身のチャドスは宰相にまで昇り詰めたではないか。
尤も、無用な軋轢を起こさぬため、当分の間は旧マインドルフ領のうち、一定の区画を居留地とさせてもらいたい。
そして、充分に時が熟せば、自治領という形にする。
これが、わたしの提案だ。
如何であろうか?
一瞬静まり返ったマオール軍は、一斉に歓声を上げたが、それは一つの名前に収斂した。
『リュウシコウ!』
『リュウシコウ!』
『リュウシコウ!』
『ありがとう!』
大きな声で礼を返した後、ハリスは誰にも聞こえない小さな声で独り言ちた。
「問題は、リンドルが、納得するか、どうか、だが……」