852 ガルマニア帝国の興亡(94)
全盛期のガルマニア帝国は、ギルマンのように飛び地となっていた幾つかの自治領を除いても、カルス王時代の新バロード王国より四倍以上広い領土を保有していた。
現在、その東半分を領有しているのが元首リンドルだが、その内訳は複雑であった。
ガルム大森林に寄り添うように造られた帝都ゲオグストを中心とした北側半分が元の皇帝直轄領で、皇帝ゲルカッツェの時代に実効支配が及んでいた領域である。
そのすぐ南側に旧リンドル領、その南に旧マインドルフ領、更に南に旧ハリス領と並んでいるが、マインドルフの支配地域は他の二人のものを併せたよりも広い。
ゲルカッツェを追い出して皇帝になったゲーリッヒは、謀叛を企てたとしてマインドルフの追討令を出し、その領地を召し上げて直轄領に組み入れた。
ところが、それから程もなくゲーリッヒも失脚してしまい、リンドルがこの地域の新たな支配者となったが、旧主であるマインドルフを慕う者も多く、安定しているとは言い難い状況であった。
リンドルが直属軍を引き留めるためにこの地域を提供したのも、そういう含みがあってのことであろう。
そして、今。
マインドルフの使者としてやって来たドーラは、捕虜にしていたマオール軍二万に対し、そこを攻めて奪ってもいいと言ったというのである。
怒りと驚きで声も出ないリンドルの代わりに、ハリスが静かに聞いた。
「それは、宣戦布告、ということか?」
ドーラは平然と答えた。
「そうとられても、仕方あるまいのう。まあ、別のこともあって捕虜たちの聞き込みをしておったら、土地が欲しいという者が多くてな。国民性かもしれんが。で、マインドルフ陛下にご相談したら、ならば、自分の旧領をやろうと仰ったのじゃ。尤も、マオール軍にそう言うたのは昨夜じゃから、今頃はもう、戦端が開かれているかもしれんぞえ」
ハリスは、白い頭巾を被った頭を小さく頷かせた。
「そうか。すると、皇帝宮の上空に、目立つよう、東方魔道師たちを、飛ばせているのは、陽動であった、のだな。わたしも、迂闊だった」
冷静に分析しているハリスを突き飛ばすようにして、リンドルが叫んだ。
「者ども、この魔女をひっ捕らえて、八つ裂きにしろ!」
が、リンドルの家臣たちが駆け寄る前に、ドーラの身体がスーッと天井近くまで上昇し、声を上げて嘲笑った。
「マインドルフ陛下が言われたとおり、立派なのは筋肉だけのようじゃのう、リンドル閣下。さてさて、わたしはこれで失礼しようかの。他にも色々気懸かりなこともあるでな」
ドーラは表情を改め、西の方を透かすように見ていたが、諦めたように軽く首を振ると、灰色のコウモリに変身して飛び去った。
その間も大声で怒鳴り続けているリンドルに、ハリスが今までにないような激しい口調で告げた。
「鎮まれ、リンドル! 今は、非常時だぞ!」
一瞬呆気にとられた顔になったリンドルは、怒りで顔色を変えた。
「き、きさま、立場を忘れたか! おれはプリンケプスだぞ!」
ハリスも負けずに言い返した。
「わたしは、国防長官、である前に、おまえの、朋友だ! 生き残り、たいなら、対処法を、共に考えて、くれ!」
が、リンドルは顔を歪めて、ハリスの提案を撥ねつけた。
「うるせえっ! 国防はきさまの責任だろうがっ! 自分で何とかしろ! これは命令だ!」
ハリスはすぐに返事をせず、目を瞑って考えているようだったが、やがて静かに頭を下げた。
「畏まった。この件については、わたしに全権を、委ねられた、ものとして、処理しよう。但し、成功不成功に、関わらず、その後、国防長官の職を、辞する。さらばだ」
リンドルは、まだ怒りが治まらない様子であったが、顔を背けて半ば独り言のように告げた。
「勝手なことを言うな。まだ辞めさせねえよ。だが、失敗は許さぬ。必ず成功させろ!」
ハリスはもう一度頭を下げると、何も言わず部屋を出て行った。
その頃、国内の用事を粗方済ませたゾイアは、沿海諸国に到着していた。
が、何故かすぐにカリオテには向かわず、地元民に変装してそれ以外の国や自由都市を見て回っていた。
「どこへ行ってもスーラ大公の評判は悪くないな。それに、ファイム海軍大臣もだ。尤も、最近また海賊の被害が出始めているというから、その点は多少気の緩みがあるのだろう。ん? あれは?」
路傍に五六歳ぐらいの少年が座っているのだが、その前に金属の深皿が置いてあり、数枚の小銭が見えている。
物乞いか大道芸人かであろうが、近くに大人の姿は見えず、幼い少年一人のようであった。
少年は具合でも悪いのか、俯いて地面を見ている。
ゾイアが近づくと、少年が顔を上げた。
「おっさん、お客かい?」
「客、とは、何の客だ?」
少年は小さく舌打ちした。
「冷やかしかよ。まあ、いいや。小銭があるなら、お客として認めてやろう。幾らか持ってるか?」
「小銭は、ないな」
「ちぇっ! じゃあ、あっちへ行きな。おいら腹ペコなんだ。喋ると余計に腹が減る。さあ、行けよ!」
「ああ、いや、小銭はないが、金貨なら持っている。それでも良いか?」
少年はピョンと立ち上がり、優雅な仕草でお辞儀した。
「いらっしゃいませ! で、何を占って欲しい?」
「おお、そうか。占いを生業にしているのだな。ううむ。そうだな。実は、以前、おまえによく似た子供と知り合ったのだが、その子がその後どうしているか、ああ、長生きしたのは知っているが、幸せな人生を送れたかどうか、そういうことでも占えるか?」
「うーん、わかり難い依頼だな。まあ、金貨をくれるなら何でもいいや。で、おいらに似てるっていう子供の名前は?」
「ジェルマだ」
少年が驚いたように後退った。
「どうしておいらの名前を知ってるんだ、おっさん?」