851 ガルマニア帝国の興亡(93)
中原の西の果て、スカンポ河。
その河原に、不吉な黒い鳥のような姿が次々に現れた。
その数、凡そ二十。
皆、黒い鍔広の帽子を被り、脚まで隠れる丈長のマントを羽織っている。
但し、マントの内側が鮮やかな真紅であるから、親衛魔道師隊の方である。
その中心に立っている背の高い少年は、皇帝ヌルギスの第九皇子ヌルチェンであった。
横にいる少し年配の男が、気遣わしげにヌルチェンに尋ねた。
『殿下、やはり渡られるのですか?』
ヌルチェンは男の方は見ず、遥かに霞む対岸を眺めながら、微かに頷いた。
『ああ。密かに調べた限り、アルゴドラスの孫二人は、どちらも聖剣を持っている気配がない。いざという時以外は使わないよう、自らを戒めているのだろう。使えば、必ずアルゴドラスに狙われるからな。で、あれば、いざという時を、こちらで作るまでのことだ』
最初に話しかけた男と反対側にいた、やや若い男が悲鳴のように叫んだ。
『危険過ぎます!』
ヌルチェンは、やはり前を向いたまま、形の良い細い眉を片方だけ上げた。
『危険は承知の上だ。変装して王都バロンの市民に聞いた話では、ウルス王子が聖剣によって、例の存在を中和したという。ならば、瘴気の発生も止まったはず』
年配の男が首を振った。
『それまでに溜まった瘴気は消えておりませぬ。北方と辺境は、全域汚染されておりますぞ』
『わかっておる。が、瘴気は澱んで沈むから、直接地面の上を歩かぬようにすればよい。一先ず、辺境伯のクルム城を拠点とし、ある人物を捜すのだ』
若い方の男が、裏返った声で聞いた。
『ええっ、生きている人間がいるのですか?』
ヌルチェンは、口角だけをキュッと上げて笑った。
『いや、生きてはおるまい。しかし、腐死者でもないらしい。おまえたちの隊長タンファンの父、タンリンはな』
一方、中原の東の果てガルム大森林に隣接する帝都ゲオグストにも、同じ黒い姿が現れていた。
しかし、マントの内側は黒く、人数も数十名はいる。
それが皇帝宮の上空を、獲物が死ぬのを待っている鴉のように、飛び回っているのだ。
元首リンドルは激昂し、国防長官のハリスを呼びつけた。
相変わらず腕の筋肉が見える服装だが、正式に元首に就任してから、態度は一層居丈高になっている。
「おい、あのうるさいコルウスどもを何とかしろ!」
ハリスは白い頭巾を被った頭を傾げながら、特有の抑揚で応えた。
「配下のガーコ族に、厳重に警戒させて、おります。が、かれらに攻撃の、意図はない、ようです。かなりの、高度を保ち、それ以上は、下りて、来ません。嫌がらせか、威嚇か、或いは、護衛かと」
「はあ? 護衛? 誰の護衛だ!」
ハリスが答えるより先に、秘書官が入って来た。
リンドルの機嫌が悪いと見て、顔を上げずに早口で用件だけを告げた。
「アーズラム帝国皇帝マインドルフ一世陛下の名代として、参謀ドーラさまがお見えです」
リンドルは自慢の口髭を震わせて、「帰らせろ!」と怒鳴りつけたが、横からハリスが「いや、お通し、せよ」と命じた。
文句を言いたそうなリンドルに、ハリスは、「これも外交、でございますれば、どうか」と頭を下げた。
リンドルもさすがにそれ以上は騒がず、待つ程もなく、ドーラが案内されて来た。
ドーラは飾りの多い派手な長衣を身に纏い、長いプラチナブロンドの髪を複雑に結い上げていた。
顔も、いつもより何歳か若くしているようだ。
「これはこれは、リンドル閣下には、ご機嫌麗しゅう。おお、ハリスどの、お久しぶりじゃのう」
リンドルは、ジロリと嫌な目つきでハリスを睨んだ。
二人が、事前に打ち合わせしていたのではないかと、疑っているようだ。
それを察したのか、ハリスは軽く首を振ってから、ドーラに告げた。
「われわれは、ガルマニア帝国の、正式な後継政府として、諸外国からも、承認されている。よって、本来なら、そちらは内乱軍。が、そのような、建前論で、誤魔化すつもりは、ない。非公式ながら、アーズラム帝国の、意向を、聞こう」
外交についてはハリスに任せているらしく、リンドルは不機嫌そうな顔のまま、黙って聞いている。
ドーラは妖艶な微笑みを浮かべて、リンドルの方に向かって告げた。
「では、マインドルフ一世陛下よりのご伝言でございまする。『リンドルよ、今ならまだ遅くない。従来のように、おれに臣従せよ』と」
「何だと!」
顔色を変えて玉座を飛び降りようとするリンドルを、ハリスが静かに「お待ち、くだされ」と止めた。
更にドーラに向き直って、やや強い口調で窘めた。
「建前論は、要らぬ、と申した、はず。本音の話を、聞かせよ」
ドーラは惚けた顔で、「喰えぬ男よのう」と笑った。
「ならば、言うぞえ。そちらが後継政府というのなら、ゲーリッヒから預かったものを、お返ししたいのじゃ」
「預かった、もの?」
ドーラはニヤリと笑って説明した。
マオールからの援軍二万名じゃ。
と言うても、タンドール将軍とタンクァット准将は、誰かに殺されたらしいがのう。
まあ、それはともかく。
今のところ、廃城などを改修し、十数箇所に分けて収容はしておる。
元々一割の二千名が工兵であったから、作業を手伝わせたのじゃ。
問題は、無為徒食の二万名を抱えているだけでは、領主のジョレが困窮してしまうということぞえ。
しかも、言葉も通じず、いつ叛乱を起こすかもわからんから、軍隊としての使い途もないでのう。
ジョレはすっかり参ってしまって、ゲッソリ窶れておるよ。
ならば、いっそお返ししよう、ということになったのじゃ。
おぬしらも、一緒に四将軍と称された仲間であろう?
引き受けてくりゃれ。
「ふざけるな!」
勿論、そう叫んだのはリンドルの方である。
遂に我慢しきれなくなり、席を立ってドーラに詰め寄った。
「そんな馬鹿な話があるか! 邪魔なら、全員殺してしまえ!」
それ以上言わせないよう、ハリスがリンドルとドーラの間に割って入った。
「十万の兵力を、擁する、アーズラム帝国でさえ、持て余す、二万の捕虜の、受け入れなど、できぬ。返したいのなら、マオールに、返すのが、筋だろう」
ドーラは、笑って言い返した。
「無事に引き取ってくれる訳がないぞえ。本人たちも、処刑か監獄行きとわかっておるから、帰りはせぬさ。生命懸けで叛乱を起こしかねない。そこで、相談があるのじゃ。マインドルフ陛下の旧領を、直属軍を引き留めるために下げ渡したらしいではないか。あの広さを一万とは、もったいない。マオール軍にも分けておくれでないかえ?」
ハリスが何か言う前に、リンドルが叫んだ。
「断る! そんなに土地が欲しいなら、力ずくで取ってみろ!」
ドーラは嬉しそうに笑った。
「ああ、その言葉を待っておった! 実はもう、マオール軍にはそうするように伝えてあるのじゃ。今頃はもう、戦闘が始まっているかもしれぬなあ」