844 ガルマニア帝国の興亡(86)
見も知らぬ異国へ来て、謎の襲撃者の幻影に怯えて敗走し、意気消沈していたマオール軍であったが、タンドール将軍から占領地を自分の領土にできるという話を聞き、俄かに活気づいたのであった。
兵士たちは嬉々として夜営の準備をし、簡単に糧食を摂った後も、暫くは騒めいていた。
それでも大半が寝静まった頃、自分の天幕でランプを灯して酒を飲んでいたタンドール将軍のところへ、声を掛ける者があった。
『閣下、少しお話しできますか?』
先に飲みかけていた杯を空にしてから、タンドールは不機嫌そうに応えた。
『もう口出しするなと言うたであろう。それでもどうしても話したいというのなら、明日にせよ。もう寝るつもりだからな』
『いえ、そんなに時間はとらせませぬので』
そう言いながら、強引に天幕に入って来たのはヌルチェンである。
『おい! 聞こえなかったのか? 明日にしろと言ったろう! たとえ皇子であろうが、今の立場は、親衛魔道師隊の副隊長に過ぎぬ。遠征軍総司令官たるわしの命令が聞けぬのか!』
が、ヌルチェンは構わず、皮肉な笑みを浮かべて話を続けた。
『ならば、謹んで、総司令官どのに申し上げまする。如何に士気を高めるためとはいえ、先程のような嘘を吐かれるのは困りますね。軍法会議ものですよ。わたくしも、父上からお叱りを受けることになります』
何故かタンドールは、しげしげとヌルチェンの顔を見ていたが、ニヤリと意地悪そうに笑った。
『ほう? これは面白い。おまえは、わしが嘘を吐いていると思っておるのか? はっ! このような重大事項を、単に士気を上げるために言うほど、わしが阿呆だとでも言うのか!』
ヌルチェンの切れ長の目が、ハッと見開かれた。
『えっ、それでは……』
『本当に決まっておろう! わしは、直々にヌルギス陛下からお言葉を賜ったのだぞ!』
ヌルチェンの顔に、かつてタンチェンと呼ばれていた頃のような、心細そうな幼い表情が現れた。
『で、ですが、それでは、ガルマニア帝国はどうなりますか?』
『はあ? 知るか! 大マオール帝国を統べる陛下にとっては、ガルマニアだろうがバロードだろうが、中原など草深い田舎に過ぎん。陛下にとって興味があるのは、憎きアルゴドラスへの復讐と、そのアルゴドラスの名を冠した聖剣だけよ』
『聖剣?』
『知らんのなら、自分で調べろ!』
『あ、いや、勿論知ってはおりますが、父上は何も……』
タンドールは完全に見下したような目つきになり、ヌルチェンに告げた。
『もうわかったであろう、己の立場がどういうものか。第九皇子など、陛下にとっては大木に生えた小さな新芽のようなものなのだ。太い枝の成長に邪魔なら、間引かれる運命のな。さあ、わかったのなら、行け。わしはもう寝る』
ヌルチェンの顔から、表情が消えた。
『……わかりました。わたくしだけでなく、親衛魔道師隊全員を引き上げさせまするが、よろしいですか?』
『ああ、好きにしろ』
ヌルチェンが呟くような小さな声で『では、ご武運を』と告げた時には、タンドールはもうゴロリと横になり、鼾をかき始めていた。
翌朝、夜明けと共にマオール軍二万は進発した。
歩兵は昨日の敗走が嘘のような元気な足取りで、騎馬兵は乗っている馬の脚音すら高らかであった。
目指す方向は、そのまま南である。
これは当然であり、北には戻る気がなく、東には戻ることが許されず、西は水も食糧もなさそうな緩衝地帯だからだ。
しかも、南に進む程平野が多くなり、緑も濃くなって行く。
やがて、穀物の畑や倉庫、放牧された家畜なども多く見られるようになると、先にそちらを狙おうとする兵士たちを統率するのが困難なくらいになって来た。
今しも、隊列を乱す者たちを、中央を進むタンドールが大声で叱責している。
『阿呆! 目先の餌に飛びつくな! ここの領主を倒しさえすれば、皆おまえたちのものになるのだ!』
その声にも張りがあり、叱られた兵士たちも笑っている。
その土地の領主とは、ポーマ将軍であった。
ポーマもまた夜明けと共に出陣し、マオール軍の進行方向にある広い草原に、一万五千の全軍を展開して待ち構えていた。
が、援軍を出すと約束したジョレの軍も、マインドルフが送ったはずの一万の軍も、どちらもまだ来ていない。
「遅っせえな! もう敵が来ちまうぞ!」
ポーマは目をギョロつかせて苛立ってはいるが、マオール軍を怖れている風ではなかった。
「まあ、木剣にやられて尻尾を巻くようじゃ、どうせ大したことない。暗黒帝国軍だなんていっても、虚仮脅しだったってことだな」
ポーマが強気な理由は、一つには自軍の騎兵の多さにもよる。
中原で最も肥沃な東北部でも、ここは一番の穀倉地帯であり、また、開けた場所であるため、昔から馬の名産地として知られていた。
「おれの軍にいるような駿馬なんざ見たことないだろうから、まず脚の速さで驚かせてやる。散々引っ張り回してヘロヘロになったところを、わが軍自慢の長柄槍で串刺しにしてやるぜ。ふむ。案外、ジョレやマインドルフの援軍が来る頃には、勝負が付いてるかもしれんな」
だが、実は平野での集団戦こそ、マオール軍の最も得意とするところであった。
ザネンコフの砦を攻める際には、狭い山路に分散し、各個にゾイアの襲撃を受けてしまったが、それで虚仮脅しと見られては、かれらも不本意であったろう。
広い草原で緩やかに展開しているポーマ軍を目にして、タンドール将軍はニヤリと北叟笑んだ。
『全軍一丸となって、中央を突破する! 突撃だ!』
黒い塊のようなマオール軍が、猛然と前進し始めた。