843 ガルマニア帝国の興亡(85)
マオール軍を敗走させた後、ザネンコフの砦に入ったツァラトは、そこで待っていたハリスに、皇帝ゲーリッヒについて聞かれたのであった。
ツァラトは、即答した。
「わがはいの考えはもう固まっている。マオールとの関係を断ち切らない限り、今後ゲーリッヒさまに協力はしない。が、同時に、直ちに反撃するつもりもない。わがはいの離反によって、目を醒ましてくださることを願っている。これが偽らざる本心だ」
ツァラトがゲーリッヒを陛下と呼ばないことにも、その気持ちが現れているようだ。
ハリスは、白い頭巾を被った頭で、何度も小さく頷いている。
「わたしも、同じ、考えです。同僚のリンドルは、いっそ陛下を、亡き者にしよう、と言いますが、その後の、混乱を思うと、踏み切れ、ませぬ。わたしや、リンドルでは、今の領地を、治めるのが、精一杯です」
だが、横で聞いていたザネンコフは、苦い顔で首を振った。
「わしはもう、ゲーリッヒさまを見限っておる。あのお方は、先帝ゲール陛下のような器ではない。帝国の未来を託せるのは、お一人しかおられぬ」
ツァラトは苦笑した。
「ゲルヌさまか。わがはいもそう思うが、ご本人が兄君に対して遠慮なさるのだ。まあ、どちらにせよ、帝都ゲオグストに戻ることはできぬ。わがはいは、当分ここに居候させてもらうつもりだが、よいかザネンコフ?」
ザネンコフは表情を改めた。
「おお、無論です。なんなら、ハリスもどうだ?」
ハリスは白い頭巾の頭をゆっくり振った。
「わたしの領地は、ゲオグストに、近い。同じガーコ族の、部下も、残っている。陛下に、怪しまれたり、逆にリンドルが、暴走したり、することを、防がねばならぬ。だから戻るが、できればこの子は、ここで預かって、欲しい」
所在なげに大人たちの会話を聞いていたハンゼが、ハッとしたように、草色の布に包まれた顔を上げた。
「おれも、父者と一緒に、行く!」
ハリスは屈んで、互いにそこだけ見えている目を合わせた。
「すまぬ、ハンゼ。が、おまえが戻れば、またヌルチェンに、狙われる。ここに居てくれ」
「嫌だ!」
と、部屋の扉の向こうから、声がした。
「ハンゼ、おまえの父の言うとおりにした方がよいぞ」
そう言って入って来たのは、灰色のマントを羽織ったゲルニアであった。
が、その額には、赤い第三の目がクッキリと現れていた。
それを見たツァラトが、「おお、ゲルヌさまですな!」と声を上げた。
ゲルニアの身体に接触しているゲルヌであった。
「そうだ。昨日は途中で気を失って心配をかけたな。もう大丈夫だ。おぬしたちの話も、大凡聞かせてもらった。今回の遠征失敗で、兄上が反省してくださることを望むのは、わたしも同じだ。が、裏目に出る可能性も大きい。だからハンゼ、ここに残れ。ザネンコフ、よいか?」
「勿論でございます、殿下」
俯いていたハンゼは顔を上げ、もう一度ハリスの目を見た。
「わかった、父者。だが、約束して、くれ。必ず、迎えに、来ると」
ハリスは、「約束する」と言いながら、ハンゼを抱きしめた。
その頃、南下してくるマオール軍を迎え撃つべく、マインドルフの砦を出たジョレとポーマは、龍馬を一頭ずつ借りて、一先ずそれぞれの領地に向かうことにした。
「わたしが行くまで、あまり無茶をするなよ」
穏やかに告げるジョレの言葉を聞いても、ポーマはギョロリと目を剥いて、感情的に反応した。
「こっちがそのつもりでも、向こうは必死だ! やられたらやり返す! 戦場で会おう!」
言い様、龍馬に鞭を当てて駆け出した。
見送るジョレは山羊のような顎鬚を撫でて吐息した。
「龍馬に鞭を当てれば、禍を招くと、諺にも云われておるのに。馬鹿なやつだ。これは、本気で助攻すると、こちらが火傷するな。ふむ。付かず離れず、でいいか。マインドルフも、一万ぐらい援軍を送ると言っていたしな。それにしてもケチ臭い男だ。ドーラが言うように痛烈に勝ちたいなら、二万ぐらい出すのかと思うたが。ま、こちらも、程々でよかろう」
一方、南下して来るマオール軍も、徐々に速度を緩めつつあった。
地理不案内な他国での逃走に、兵士たちの不安が募って来たからだ。
そこで漸く追いついたタンドール将軍の統制がかかり、全軍が停止した。
但し、もう日没が近づいて来ており、進むにしろ方向転換して戻るにしろ、今日はこの近くで夜営するしかない。
と、岩場の上に登ったタンドール将軍が、全軍に響き渡るような声で呼び掛けた。
逃げたことは、もう責めぬ!
わしの見込みも甘かった。
が、このままでは帰れぬ。
何らかの戦果を上げねばならん!
そこで、ここだけの話だが、実は、ヌルギス陛下より、内々に有難いお言葉を賜っておるので、皆に伝えておこう。
わが配下の二万の遠征軍については、ガルマニア帝国を含む中原の何処であろうと、切り取り勝手である、と。
即ち、占領地は自分たちのものにしてよい、ということだぞ。
皆、奮え!
意気消沈していたマオール軍が、一気に歓声に包まれた。
が、それを樹上に隠れて見つめている、不吉な黒い鳥のような姿があった。
『わたくしは、そのような話、父上から何も聞かされておりませんよ。と、すれば、兵士を鼓舞するための嘘でしょうね。これは由々しきことです』
形の良い細い眉を片方だけクッと上げたのは、ヌルチェンであった。




