840 ガルマニア帝国の興亡(82)
ザネンコフの砦を突如訪れたハリスは、自分の息子ハンゼを救って欲しいと、ゾイアに訴えたのである。
ゾイアは、驚いて聞き返した。
「ハンゼとは、ガイ族の女族長バドリヌの息子の、あのハンゼのことか?」
ハリスは一瞬、返事を躊躇っていたが、吐息と共に応えた。
「そうか。あの子のことを、知っている、のだな。死んだ、母親の、バドリヌのことも」
「うむ。あの親子とは色々縁があってな。が、父親のことは、終ぞ耳にしたことはなかった」
「で、あろうな。あの子は、生まれる前に、父は死んだと、聞かされて、いたらしい。が、どのような、経緯なのかは、今は措く。急がねば、取り返しが、つかぬことに、なるやもしれぬ」
ハリスは手短に、ハンゼがヌルチェンによって魔種を植えられたらしいことを説明した。
ゾイアも心配そうに耳を傾けた。
「ほう。すると、ハンゼはツァラト将軍の見張り役で残されたのだな。だとすれば、ゲルニアが接触したかもしれぬ。いずれにせよ、事情はわかった。その頼み、引き受けよう」
「え? 良いのか?」
ゾイアはニコリと笑った。
「勿論だ。ハンゼは幼いながら、われの朋友だ。必ず助ける」
感激して声も出ない様子のハリスに、横に立って話を聞いていたザネンコフも、「良かったな」と喜んだ。
そのザネンコフに向かって、ゾイアは軽く頭を下げた。
「そういう仕儀故、今日で襲撃は止めることにする。まあ、われの噂をドーラたちが広めているのなら、これ以降はバロードに迷惑がかかるし、充分に足止めの効果はあったしな。後は、それこそ、ツァラト将軍次第だ。その確認もかねて、様子を見に行ってみようと思う」
「おお、そうしてくれ。今回のおぬしの働きには、本当に感謝している。結果がどうなるかまだわからぬが、わしも全力を尽くして戦う。向こうでツァラトさまにあったなら、よろしく伝えてくれ。おお、それに、ハリスの息子の件、わしからも頼む。必ず助けてやってくれよ」
「うむ。では、行ってくる!」
ゾイアはその場から跳躍した。
上空で防護殻から出たゾイアは、人間形のまま空中浮遊し、地上を俯瞰した。
「ふむ。この辺りで直属軍が野営していると思ったが、もう出発したようだな。と、すると、説得は上手く行ったのだろうか? おっ、あの赤みがかった航跡はゲルニアだな。一旦降りて、再度上昇している。あれを追ってみよう」
魔道屋スルージから『虚空眼』を学んだゾイアは、空間に残っているゲルニアの航跡を辿りながら飛んだ。
「おお、直属軍一万が見えたぞ! 率いているのは、間違いなく赤髭将軍ツァラトだ。ほう。しかし、航跡は先に進んでいるな。と、すると、マオール軍の様子を見に行ったのか。あまり接近すると危険だな」
ゾイアはやや速度を上げた。
但し、用心のため羽根は出さず、人間の形を保ったまま静かに飛んで行く。
「お、マオール軍が見えた。なんと、まだ野営地から動いておらんぞ。われの襲撃の甲斐があったな。うむ。航跡は手前で降りているか。よしっ」
徐々に高度を下げて行くと、草叢に隠れるようにして、灰色の魔道師のマントを羽織った子供の姿が見えた。
フードを被っていたが、ゾイアの気配に気づき、見上げた拍子にフードが脱げて、ツルリとした頭が露わになった。
口の動きだけで、ゾイアさま、と呼び掛け、笑顔で手を振っている。
ゾイアも声を出さずに笑いながら、静かに着地した。
囁くように「上手く行ったようだな」と告げたが、ハッとしたようにゲルニアの後ろを見た。
ユラリと空気が揺れ、草色の布で全身を包んだ子供が姿を現した。
「獣になる、男でも、草叢なら、おれが、見えぬ、ようだな」
抑えた声で嬉しそうに告げたのは、無論ハンゼであった。
「おお、良かった、まだ大丈夫のようだな。会った早々にすまぬが、頭頂部をわれに見せてくれぬか?」
これには、横にいるゲルニアが驚いた。
「魔種でしたら、わたくしとゲルヌさまで力を併せて抜きましたが、何故そのことをご存じなのですか?」
「それは良かった。実は、ハンゼの父親に頼まれてな」
今度は、ハンゼが驚き、やや大きな声を出してしまった。
「嘘だ! あの男に、そんな情けが、あるものか!」
ゲルニアが慌てて、「静かに!」と言ったが、それに対する返事は、別のところから来た。
「今更静かにしたところで、全部聞こえましたよ。せっかくわたくしが施した魔種を、勝手に抜いてもらっては困りますねえ」
ゲルニアとハンゼを庇うように前に出たゾイアが、「ヌルチェンか?」と問うた。
少し離れた空中に、不吉な黒い鳥のような姿が浮かび上がった。
「そうですとも、獣人将軍。ハンゼたちのお蔭で、あなたを捜す手間が省けました」
「ほう。われを捜し出して、どうするつもりだ?」
ヌルチェンはゾッとするような笑みを浮かべた。
「決まっているでしょう。殺します」
そう言いながら、その手には既に刀子が握られていた。
しかし、ゾイアは世間話をするような気軽さで聞いた。
「理由を教えてくれ。今のところ、おぬしとわれの間には、何の遺恨もないと思うが?」
ヌルチェンは鼻で笑った。
「殺すのに理由など要りません。あなたは、腕に止まった虫を潰す時、一々理由を考えますか?」
ゾイアは首を傾げた。
「ふむ。理由どころか、そのようなことをした記憶がないな。われは虫には好かれぬようだ」
ヌルチェンの笑顔に、少し苛立ちが混じって来た。
「時間稼ぎをしても無駄ですよ。周囲はわたくしの部下たちに固めさせました。どこにも逃げ場はありません。覚悟しなさい!」
目にも留まらぬ速さで、ヌルチェンの手から刀子が放たれた。