839 ガルマニア帝国の興亡(81)
翌朝、マオール軍の後詰として西へ向かっていた直属軍一万は、厳しくも懐かしい声で起こされることになった。
「いつまで寝ておるか! もうとっくに日は昇っておるぞ!」
寝惚けたような騒めきは、いつしか一つの名前に収斂して行った。
「ツァラトさま?」
「あの声は、ツァラト将軍ではないか?」
「間違いない、ツァラト閣下だ!」
「ツァラト将軍!」
「ツァラト将軍!」
「ツァラト将軍!」
離れていて直接声を聞かなかった者たちも、この連呼によって自分の天幕から飛び出して来た。
「本当に、ツァラト将軍なのか?」
「おおっ、あのお姿は!」
「ツァラト将軍!」
野営地全体が、同じ名前を叫んでいた。
その騒ぎが鎮まるのを待って、ツァラトは岩の上に乗り、戦場で鍛えた大音声で、兵士たちに語り掛けた。
わがはいだ、ツァラトだ!
皆に心配をかけたが、こうして無事に生きておる!
今日は、わがはいの本音の話を聞いてもらいたい!
よいか!
おお、ありがとう!
さて、先帝ゲール陛下がご逝去なされてより、わが国は迷走を重ねて来た。
残念ながら、ゲルカッツェさまには政治への関心がなく、全てを佞臣チャドスに委ねられていた。
チャドスは、己の一族を母国から呼び寄せ、次々と帝国の枢要な地位に就けた。
その結果、八方面将軍たちは離反して半ば独立勢力となり、残された帝国の主要部分はチャドスの所有物のような有様となった。
わがはいは密かにゲーリッヒさまと手を結び、チャドスらのマオール勢力から帝国を奪還することを目指したのだ。
が、わがはいは担ぐべき相手を間違っていた。
ご本人は固辞されたが、やはり、ゲルヌさまを奉戴すべきであった。
確かにチャドスらは追い出すことができたが、ゲーリッヒさまは新たなマオール勢力を頼られ、それはゲルカッツェさまの時代よりも大規模で、より深刻なものになろうとしている。
これを許せば、わが国は早晩マオールの属国となろう。
よって、わがはいは決意した!
最早猶予の時はない!
今、立ち上がらねば、先帝陛下の創られた帝国は、暗黒帝国マオールに食い潰されてしまう!
わがはいと共に、戦ってくれぬか!
野営地は、天地を揺るがすような歓声に包まれた。
「ツァラト将軍、万歳!」
「ガルマニア帝国のために!」
「マオールを追い出そう!」
満面の笑顔で歓声に応えているツァラトの後ろでは、ゲルニアがハンゼに話していた。
「さあ、これで、こちらは大丈夫でしょう。一緒に、敵の様子を見にいきましょう」
ハンゼは特有の抑揚で、聞き返した。
「敵とは、マオール軍、か?」
ゲルニアは微苦笑した。
「まあ、そうなりますね」
「わかった。だが、おれはまだ、どちらが敵か、決めてない。それでも、いいか?」
「勿論です。よく見極めてください」
そのマオール軍の野営地では、不機嫌そのもののタンドール将軍のところへ、ヌルチェンが訪れていた。
『先日お伺いした時から、あまり、というより、全然進んでおられぬようですね?』
皮肉混じりの質問に、タンドールは激昂した。
『当たり前だろう! 謎の襲撃者にやられた者が、もう二千名を超えたのだぞ! 一割だ! たった一人でもこれほどやられるようでは、一万五千もの敵とはとても戦えぬと、皆戦意喪失しておる! 親衛魔道師隊は、何をやっておるのだ!』
ヌルチェンは肩を竦めて見せた。
『みんな頑張ってくれていますよ。色々と情報を集めましたが、最初わたくしが考えていたアルゴドラス説は、どうも違うようです』
『そんなことはどうだっていい! アルゴドラスだろうがそうでなかろうが、とにかく何とかしろ!』
ヌルチェンは、凄みのある笑顔で囁いた。
『相手がアルゴドラスでなければ、話は簡単です。わたくしが殺しますよ』
一方、マオール軍を迎え撃つ側のザネンコフの砦には、意外な客が訪ねて来た。
「真か?」
知らせて来た家臣に、道場で鍛錬中だったザネンコフは、思わず聞き返してしまった。
「恐らく、ご本人さまかと」
困ったように答える家臣を叱らず、ザネンコフは苦笑して、「構わぬ。通せ」と命じた。
家臣に連れられて道場に入って来た客は、目の部分に小さな穴が開いた白い頭巾をスッポリ被っていた。
「久しぶり、だな、ザネンコフ」
「本当にハリスの声だな。皇帝とも、マインドルフとも、上手くやっているおぬしがここへ来るとは、正直思わなんだ」
ハリスは笑いを含んだ声で応えた。
「皮肉を、言われても、仕方ない。両天秤は、わがガーコ族の宿命。そうやって、千年の争乱を、生き残って、来たのだ」
ザネンコフは、悪気のない笑顔で、ズバリと訊いた。
「で、わしにも、天秤を掛けに来たのか?」
「おお、そうでは、ない。ここへ来たのは、個人的な、頼み事が、あるからだ」
「頼み事?」
「ああ。但し、おぬしに、ではない。ここに、獣人将軍が、いるのなら、かれにだ」
ザネンコフは警戒心を露わに口を噤んだが、道場の奥にいた平凡な顔の男が返事をした。
「頼み事の内容次第だな」
そう言いながらも、徐々に男の体格が筋骨隆々としたものになり、髪がダークブロンドに、瞳の色が珍しいアクアマリンに変化し、ニコリと笑った。
「われがゾイアだ、ハリス将軍」
ザネンコフが心配そうに振り返り、「よいのか?」と聞いたが、ゾイアは「逆に尋ねたいこともあるのでな」とハリスの方を見た。
それを受け、ハリスが先回りして答えた。
「聞きたい、こととは、何故ここに、ゾイアどのがいると、知ったのか、であろう。わたしも、謎の襲撃者の、話を聞いて、もしやとは、思ったが、もう一人の、容疑者である、ドーラが、それを断言した、のでな」
「ほう。で、あれば、ドーラは、その噂を広めよとでも、言っただろうな」
「正に。そうなれば、バロードに、迷惑を、掛けぬため、帰国される、やもしれず、その前に、是非会って、頼みたかった、のだ。ゾイアどの、どうか、わが息子、ハンゼを、救って、くださらぬか?」