838 ガルマニア帝国の興亡(80)
城主の間に入って来るなり、挨拶もせずにドーラに質問を浴びせたハリスを、ドーラの横に座っているマインドルフが窘めた。
「どうしたハリス? いつも冷静なおまえらしくないぞ。少し落ち着いて、順々に説明してもらわねば、聞かれたドーラも目を白黒しておるではないか」
実際には、ドーラは驚いてはいるものの、寧ろハリスの白い頭巾に隠された表情を探るように目を細めていたのだが、マインドルフの言葉に後押しされて聞き返した。
「そうじゃな。わたしも、おぬしの言っていることの半分もわからぬ。謎の襲撃者とは何のことじゃ?」
ハリスは、「これは、失礼した」と特有の抑揚のある声で謝ったが、ドーラの質問には答えず、今度はマインドルフに向かって尋ねた。
「この二三日、ドーラどのが、日中不在に、なることは、ござりません、でしたか?」
さすがにマインドルフも、元使用人であったハリスの態度に苛立ち、「ないに決まっておろう!」と怒鳴りつけた。
「ドーラは今や、おれの側近中の側近だぞ! おれに黙ってフラフラ出歩くことなどないわ!」
ハリスは悪びれず、「それで、安心、いたしました」と頭を下げ、マオール軍を足止めしている謎の襲撃者のことを説明した。
無論、その件に絡めてヌルチェンに脅されていることなど、噫にも出さない。
「マオール軍は、その話題で、持ち切りにて、万が一それが、ドーラどのであれば、皇帝の矛先が、マインドルフさまに、向きかねず、焦るあまり、ご無礼、仕った」
ドーラは猶も不審そうな顔をしていたが、マインドルフは「成程のう」と頷いた。
「剣豪将軍と謳われるだけあって、ザネンコフの家臣には手練れの者がいるのだな」
横のドーラが鼻で笑った。
「なんのなんの。ザネンコフ自身とて、然程の技量とは思えませなんだ。まして、あの親衛魔道師隊の裏をかくような強者など、家中にはおらぬでしょう」
「すると、新たに雇った傭兵かのう?」
「雇ったかどうかは知りませぬが、そのようなことができる者は、この中原には一人しかおりませぬぞえ」
「ほう、誰だ?」
「獣人将軍、ゾイア」
「何っ!」
マインドルフだけでなく、目の前に立っているハリスも、一段下がった席で固唾を飲んで成り行きを見守っていたジョレとポーマも、一様に衝撃を受けている。
それが落ち着くのを待ち、ドーラは狡そうな笑みを浮かべて話を続けた。
「ゾイアが何故ザネンコフの味方をしているのかはわからぬが、正体を隠している理由は明らかじゃ。バロードに迷惑を掛けぬためさ。で、あれば、逆にこちらから、大いに喧伝してやりましょうぞ。バロードは、ガルマニア帝国の内戦に干渉しておると」
マインドルフも脂ぎった顔で、ニヤリと笑った。
「それは面白い。ハリスも、いや、ジョレとポーマも、部下たちに命じてその噂を広めてやれ!」
「御意!」
三人が口を揃えて応えたが、ハリスの声には安堵と不安が入り混じっていた。
同じ頃、そのハリスを脅迫していたヌルチェンは、皇帝宮の謁見の間で平伏していた。
遅れて入って来た皇帝ゲーリッヒは、少し酔っているらしく、顔を赤くしている。
「何だよ、せっかくいい気分で飲んでたのによ。明日じゃ駄目なのか?」
ヌルチェンは顔を上げぬまま、泣くような声で「申し訳ございません!」と詫びた。
ゲーリッヒの顔色が、スッと青白くなった。
「おい。悪い知らせのようだが、これが親父だったら、おめえはもう死んでるぜ。いや、内容によっちゃ、おれだってわかんねえ。肚括って言えよ」
「はっ!」
顔を上げたヌルチェンの頬は、既に涙で濡れていた。
「陛下よりご下命のあったマオール軍の誘導も儘ならぬ中、ふと、不安に駆られて、蟄居中のツァラト将軍の様子を見に戻りましたところ、蛻の殻にて」
ヌルチェンがそこまで話した時には、ゲーリッヒは既に玉座から立ち上がっており、その手に護身用の剣を握っていた。
「首を出せ。今ちょっと酔ってるから、一度でスッパリ斬れず、何度かやり直すかもしれねえが、動くんじゃねえぞ」
ヌルチェンは、滂沱と涙を流しながら訴えた。
「固より覚悟の上でござりまするが、何卒、今一度、やり直しの機会をお与えくださいませ!」
「どうせおれが斬らないだろうと高を括ってるなら、それは甘いぜ!」
ヒュッと風を切る音がして、ゲーリッヒの剣がヌルチェンの頭上スレスレを薙いだ。
瞬間的に目を瞑っていたヌルチェンが目を開け、床に着くほど頭を下げた。
「ありがとうございます! この上は、身命を賭して、大勝利をご覧に入れまする!」
剣を鞘に納めると、ゲーリッヒは不機嫌そうに「勘違いするなよ」と念を押した。
「おれは、おめえを赦した訳じゃねえ。この貸しは、いずれキッチリ返してもらう。それはそれとして、早急に善後策を講じろ。いいな?」
「ははっ!」
「おお、すっかり酔いが醒めたぜ。さあ、飲み直して来よう」
頭を下げたままゲーリッヒを見送ったヌルチェンがゆっくり顔を上げると、涙の跡が残ったまま、薄く笑っていた。
「やれやれ。死んだチャドスも溢していたように、扱い難い男だな。本当の意味で味方と言えるのは、僅かな人数の野人しかおらぬというのに、自分の権力は盤石なものと思っている。わがマオール帝国の後ろ盾がなくば、とっくに玉座から追い落とされていただろうに。勘違いしているのは、どっちだと言いたかったよ。さてと」
懐から出した布で顔を拭うと、ヌルチェンは首を傾げた。
「善後策をどうするか? ふむ。その前に、謎の襲撃者が本当は誰なのか、それを突き止めるべきだろうな」
ヌルチェンは、その場から跳躍した。