835 ガルマニア帝国の興亡(77)
ツァラト将軍の屋敷にいたガイ族のハンゼから、痺れ薬を塗った刀子を刺されたゲルニアは、咄嗟にゲルヌ皇子と交信し、二人分の力で難を逃れ、ツァラトも含めて話し合うことになった。
二階の窓から話し掛けていたツァラトが一階に降りて来るのとほぼ同じぐらいに、中庭から玄関に回ったゲルニアとハンゼが入って来た。
但し、依然としてゲルニアの額の第三の目は赤く光っており、表面人格はゲルヌであった。
ツァラトも、「さあ、殿下、こちらへ」と応接間に案内した。
気後れしている様子のハンゼを促すようにして、ゲルニアは中に入った。
ツァラトが、せめて薬草茶でも用意すると言うのをゲルヌが断り、三人で椅子に座った。
座るなり、ゲルヌが説明した。
「実は、こうして距離を隔てて交信するのは、かなり体力を消耗するのだ。できるだけ手短に話したい」
ゲルヌは、ザネンコフを救うため、ゾイアと考えた策戦のあらましを話し始めた。
途中、ゾイアが魔道師を避けて、木剣でマオール軍を襲撃していると聞き、ハンゼが独特の抑揚で口を挟んだ。
「そうか、獣になる男、だったのか。ヌルチェンさんは、アルゴドラスだと、思い込んで、いた」
「おお、それで思い出した。どうして、ハンゼはヌルチェンと知り合ったのだ?」
返事を渋っているハンゼの代わりに、ツァラトが溜め息混じりで別のことを言った。
「森の街道でわしに声を掛けて来た時、心細そうにしていたあの少年が、何故あのような魔物になったのでありましょうなあ」
ゲルヌも頷いた。
「それは、わたしも驚いている。あの時は確か、タンファンの弟タンチェンと名乗っていたな。怪しまれぬよう演技していたという風には見えなかったから、強い暗示を掛けられていたのであろう。が、いずれにせよ、現在の姿が本性だ。憐れみは持たぬ方がよいぞ」
ハンゼは、やや不服そうに、「おれには、優しかった。でも」と言いながら、自分の頭部を撫でた。
再び草色の布で覆われていたが、その頭に、人間を操り、最終的に廃人にしてしまうという、怖ろしい魔種を植え込まれていたのである。
それを抜き取ったゲルヌが、感慨深そうに告げた。
「その技を得意としていたのが、姉と思われていたタンファンなのだが、実は今、別人のようになってわたしの護衛を務めているのだ。場合によっては、ヌルチェンとの交渉を頼めるかもしれぬが。おお、すまぬ、話が逸れたな」
ゲルヌは改めて、ツァラトに向き直った。
「わたしの願うことは唯一つだ。ガルマニア帝国内の争いに、マオール帝国が干渉することを防ぎたいということだ。決して、兄に対して叛旗を翻すつもりはない。だが、このままでは、ザネンコフ軍一万五千は、マオール軍と直属軍併せて三万に攻め込まれる。マオール軍が勝利すれば、大変なことになるのだ」
ツァラトは、苦い顔で頷いた。
「聞いております。ゲーリッヒ陛下は、マオールから最大二十万の援軍を受け入れるとか。とても正気の沙汰とは思えませぬ。ですが……」
項垂れるツァラトに、ゲルヌはやや焦りを見せながら告げた。
「頼む、ツァラト。マオール軍の後詰として西へ向かっている一万の直属軍を、おまえが率いてくれ。さすれば、ザネンコフ軍と一緒に、マオール軍を挟み撃ちにできる。既に兵士たちも承知してくれているのだ」
ツァラトは顔を上げないまま、首を振った。
「できませぬ。確かに、それでマオール軍には勝てましょう。ですが、ゲーリッヒ陛下はどうなりますか? 今や唯一の支えとなっているマオールの後ろ盾を失えば、帝国を維持できますまい」
思ったより話が長くなり、ゲルヌはやや苦しげな表情になってきたが、自分を鼓舞するように声を張った。
「帝国は、兄上のためにあるのではない! 自分の権力を保つために他国に依存するのなら、自分の国を売り渡したザギムやカルボン卿と同じだ! もし、兄上が今後も皇帝でありたいのなら、マオールに頼るべきではない! お願いだ、ツァラト!」
猶もツァラトは返事を躊躇っていたが、ゲルニアの額の第三の目がスーッと暗くなり、消えてしまった。
瞬間的に表面人格を交代したゲルニアが、驚きの声を上げた。
「あっ、殿下が気を失われました!」
ツァラトが顔を上げ、身を乗り出した。
「おお、すまぬ。わしが優柔不断なばかりに。大事ないか?」
ゲルニアは、空中を見るように目を細めた。
「はい。近くに人の気配があり、殿下がお倒れになる前に抱き留められたのを感じました。今は、安らかに眠られている感覚がありますので、単に体力が尽きただけのようです」
ホッとした顔になったツァラトは、大きく頷いた。
「そうか。良かった。うむ。わしも心が決まった。何はともあれ、マオール軍に母国を蹂躙させる訳にはいかぬ。先程の話、お引き受けしよう」
「おお、ありがとうございます! きっと、殿下もお喜びになられます!」
すると、横でジッと聞いていたハンゼが、思い切ったように発言した。
「だったら、おれも、行く。この目で、確かめて、みたい。ヌルチェンの、本当の、狙いを」
そのハンゼの父ハリスは、一足先に現地に着いていた。
今も、高い樹上に身を隠し、マオール軍の動きを眺めている。
「ふむ。マオールは、どこまでも続く、大平野で、地形は、極めて、単調だと、聞いた。このような、入り組んだ、隘路では、日頃の力が、発揮できぬ、ようだ」
と、ハリスの白い頭巾を被った頭がフッと動いたかと思うと、その後ろの樹の幹に、カツンと音を立てて刀子が突き刺さった。
ハリスは笑いを含んだ声で、見えない相手に話し掛けた。
「これは、お戯れを。危うく、怪我をする、ところ、でしたぞ、ヌルチェン、特別補佐官」
すると、少し離れた空中に、ユラリと不吉な黒い鳥のような姿が現れた。
冷たい微笑みを浮かべたヌルチェンであった。
「戯れはあなたの方でしょう、ハリス将軍。御自ら間諜の真似事ですか。大事な息子さんが、泣いていますよ」




