833 ガルマニア帝国の興亡(75)
翌朝、いつものように山積みされた書類に目を通していたクジュケの執務室に、場違いに元気な声が響いた。
「今、帰っただよ!」
クジュケは、頭痛を鎮めようとするかのように、サラサラの銀髪に手を突っ込み、顔を顰めて応えた。
「少し声の大きさを考えなさい、シャンロウ。わたくしは妖精族の血を引いているので、耳は良いのです。ここは、野原の真ん中ですか?」
返事を待たずに扉を開けていたシャンロウは、首を振った。
「うんにゃ、違うだよ。ここは、王都バロンの双王宮だあ」
「わかっていますよ! そうではなく、ああ、もういいです。早く、報告しなさい」
「んだば、言うだよ。ギルマンには、ゾイアさんはもういねえだ」
「ほう。真っ直ぐ帰国されると思っていましたが、それでは、どこかに寄られているのですね。おお、わかりました。ライナさんのいるサイカでしょう?」
「違うだ」
「え、まさか、バロードを通り越して、ニノフ殿下のいらっしゃる暁の女神へ行かれたのですか?」
「それも違うだ」
「じゃあ、どこに?」
「ガルマニア帝国の版図だよ」
「な、何ですって!」
クジュケは血相を変え、椅子から立ち上がった。
「今将に内戦の真っ只中にあるガルマニア帝国に行って、巻き込まれたらどうするのですか!」
「巻き込まれるんじゃなくて、進んで飛び込んだみてえだあよ」
平然と答えるシャンロウを、更に怒鳴りつけようと口を開きかけ、クジュケは深呼吸して、「落ち着け、落ち着け」と自分に言い聞かせてから、やっと思い出したことを尋ねた。
「ゲルヌ皇子は、何と仰っていたのですか?」
「あ、忘れてただ。手紙を預かってただよ」
「どうしてそれを早く、ああ、もう、とにかく渡しなさい!」
シャンロウが懐から出した手紙を、ひったくるように受け取って、クジュケは立ったまま読み始めた。
バロード連合王国統領クジュケどのへ。
シャンロウに伝言を頼もうかと思ったのだが、意を尽くせぬと考え、手紙を認めることにした。
さて、ゾイア将軍のことだが、ギルマンの争奪戦が終結し、戦後の処理も目途がついたところで、帰国してもらう予定であった。
ところが、本人が帰国前に会いたい人物がいると聞き、わたしが甘えて用事を頼んでしまった。
ああ、すまないが、一々将軍と付けるのも煩わしいので、以下、最近そうしているように、単にゾイアと呼ばせてもらう。
ゾイアが会いたいというのは、わたしの剣の師匠でもあるザネンコフという男だ。
直情径行な男で、今ガルマニア帝国内で覇権を争っている、兄ゲーリッヒと野心家マインドルフのどちらに付くことも潔しとせず、孤立している。
わたしは、かれの救出をゾイアにお願いしたのだ。
勿論、バロードに迷惑が掛からぬよう、入念に策戦を話し合った。
その話し合いの最中に、クジュケどのからゾイアの帰国が遅いことを心配して何らかの連絡があった場合、伝えて欲しいと言われたことがある。
ゾイア自身、ガルマニア帝国内の問題に首を突っ込むことには躊躇いがあるという。
但し、どうしても看過できないことがあり、個人として参戦することを決めたそうだ。
それは、わたしも同じ意見なのだが、ガルマニアに限らず中原内の争いにマオール帝国が干渉することを許すべきではない、ということだ。
今回のザネンコフの件も、攻めて来るのがガルマニア軍だけであるなら、わたしもゾイアには頼まなかったと思う。
兄の真意は測りかねるが、暗黒帝国と称されるマオールが、善意だけで援軍を出すはずがない。
よって、ゾイアとわたしで考えたのは、何はともあれマオール軍を追い返すこと、そこに絞った策戦だ。
そのことが、いずれはバロードの利益にもなると思う。
クジュケどの、どうかゾイアを信じてやって欲しい。
読み終わったクジュケは、深く溜め息を吐いた。
「わかっていますよ、わたくしにも。ゾイアどののなさることに、間違いはないと。でも、でも」
クジュケは、シャンロウが飛び上がりそうな大声で叫んだ。
「だったら、先に言えよ!」
シャンロウが耳を押さえて文句を言った。
「クジュケさん、ここは野原の真ん中じゃねえだよ」
そのゲルヌの策戦の肝となる、ツァラト将軍救出のため、隠形したゲルニアは、帝都ゲオグスト郊外にあるツァラトの屋敷に近づいた。
「成程。ゾイアさまのお蔭で、警備が手薄になっているな。ここまでは、予想どおりだ」
かつてチャロア団長が率いていた東方魔道師たちに比べ、選良集団である親衛魔道師隊は、抑々の人数が少ない。
それが遠征するマオール軍に同行している上、ゾイアの攪乱戦法によって、余計に魔道師の負担が増えている。
しかも、これはゾイアもゲルニアも知らぬことだが、謎の襲撃者をアルゴドラスと勘違いしたヌルチェンが、ゲオグストに置いていた予備の人員まで前線に移動させたのである。
ゲルニアは屋敷の塀の前まで来て、左右を確認した。
「手薄すぎて気味が悪いくらいだけど、罠ってことはないだろう。とにかく時間がない。急がなきゃ」
隠形のまま浮身して塀を乗り越えた、その刹那。
「!」
ゲルニアは、腿の辺りに激しい痛みと痺れを感じた。
見ると、刀子が突き刺さっている。
痺れ薬が塗ってあるらしく、すぐに身体の自由が利かなくなり、隠形が解けて庭に落下した。
背中の痛みも一瞬で、痺れて何も感じなくなっているところへ、人が近づいて来た。
それは、全身を草色の布で包んだ子供であった。




