824 ガルマニア帝国の興亡(66)
目の部分にだけ小さな穴が開いている白い頭巾を、顎までスッポリ被っているハリスは、独特な抑揚の声で、魔女ドーラに告げた。
「結果が良ければ、本格的に援軍を、受け入れる、だろう。規模は、最大二十万」
ドーラは、思わず大声を出した。
「馬鹿な! そんな大規模な援軍を貰ったら、ガルマニア帝国を丸ごと差し出さねばならなくなるぞえ!」
が、ハリスは変わらず平静な声で応えた。
「普通の国なら、そうだろう。しかし、マオール帝国は、ちと事情が、違う。国家の権力は、ヌルギス皇帝一人にあり、それ以外には、ないのだ。既に、マオールという、中原そのものに匹敵する、大帝国を所有している、ヌルギスにとって、遠いガルマニアなど、大して魅力的な、物件ではない」
「ならば、何が欲しいと……」
言い掛けたドーラは、ギクリと身を強張らせた。
「そうだ。ヌルギスにとって、何よりも優先すべき、ことは、自分の母が、生命懸けで護った、魔族を、絶やさぬこと。そして、マギア族を、そこまで追い詰めた、アルゴドラス聖王に、復讐すること」
ドーラは、いつでも跳躍で逃げられるように身構えて、ハリスに問うた。
「で、二十万の援軍の見返りに、わたしの身柄を差し出すつもりかえ?」
ハリスは、小さく笑った。
「そう警戒せずとも、よい。われらガーコ族が、束になったとて、魔女ドーラを、取り押さえることなど、できぬ。それに、今言ったことは、あくまで推測。ゲーリッヒが、敢えて、大規模な援軍を、受け入れ、勝利の後、ドーラ、即ちアルゴドラスを、捕らえ、援軍のお礼として、ヌルギスに渡す、つもりだろう、とな」
「そうは行くか!」
「わたしも、そう思う。それに、たとえそれが上手く、行ったところで、あっさりと、ガルマニアを手放すほど、ヌルギスは、甘くない。どうせ骨まで、しゃぶられる」
冷酷とさえ思える言い方に、怒りが少し冷めたらしいドーラは、静かにハリスに尋ねた。
「で、おぬしは、どうするつもりじゃ?」
ハリスは、軽く肩を竦めた。
「言ったろう? われらは、少数民族。大勢力同士の、潰し合いに、巻き込まれぬよう、上手に、世渡り、せねばならん。当面は、静観する」
ドーラは、鼻で笑った。
「静観しておれるかの? まあ、よいわ。わたしも精々気をつけて、ゲーリッヒに捕まらぬようにするぞえ。さらばじゃ!」
慌ただしくその場からドーラが消えた後、ハリスは葡萄酒をもう一口飲むと、溜め息を吐いた。
「復讐ということ、ならば、わたしとて、ドーラが憎い。が、それは私情。ガーコ族を、護らねば、ならんからな。赦せよ、バドリヌ」
そのガーコ族の恰好をしたゲルニアと共に、ゾイアは自由都市リベラを出発した。
ゾイア自身は、髪を濃い茶色に変え、体格も一回りほっそりさせている。
服装は厚手の旅行着で、旅商人を模したものである。
「さすがですね、ゾイアさま。本物の旅商人に見えますよ」
ゲルニアに褒められて、ゾイアは少し照れたように笑った。
「まあ、見た目だけでも似せぬとな。だが、細かな商習慣などはわからん。そこは頼むぞ」
「お任せください。実際、大きな隊商は別格として、一般の旅商人は護衛役を兼ねたガーコ族の徒弟を連れていることが多いんです。かのハリス将軍も、出世の糸口は、マインドルフ将軍の徒弟だったことらしいですよ」
「成程。しかし、詳しいものだな」
頭巾を被っているので見えないが、ゲルニアは苦笑したようだ。
「事前にガルマニア帝国に関する知識は勉強しましたが、大部分は、ゲルヌさまからの受け売りです。記憶を共有しているので」
「おお、そうだったな。感覚もか?」
「感覚の共有は、必要な時だけです。そうしないと、お互いに混乱しますから」
「便利なものだな」
思わず言ったゾイアの言葉に、ゲルニアは返事をしなかった。
ゲルヌの擬体として、そのように造られた存在であるからだ。
ゾイアも気づき、すぐに詫びた。
「おお、すまぬ」
ゲルニアは笑いを含んだ声で、「よいのです」と応えた。
「どのような経緯でこの世に生を受けたにせよ、人間であることの価値は変わりません。それを、わたくしはゾイアさまの生き方から学びました」
ゾイアは珍しく、少し目を潤ませた。
「そうか。そうであるなら、われも生きて来た甲斐があったというもの。よし、出発しよう!」
一方、反対を押し切って出発しようとしている者もいた。
「どうしても、行くのか?」
特有の抑揚でそう言ったのは、全身を黒い布で覆った老人であった。
その前には、草色の布で同じように身体を包んだ少年が立っている。
ガイ族の少年ハンゼであった。
「すまぬ、爺ちゃん。おれは、どうしても、父者に会って、訊いてみたい、のだ。何故、母者とおれを、棄てたのか。何故、母者が死んでも、連絡すら、寄越さないのか。何故、一度もおれの顔を、見に来ないのか。何故……」
その声は、次第に嗚咽となった。
祖父の老人は「わかった、行くがよい」と告げ、ハンゼを抱きしめた。
逆に、思いがけず到着する者もいた。
「どういう人物だ?」
そう尋ねたのは、ゲルヌ皇子であった。
既にギルマンに戻って来ており、ゲルニアがいなくなった分、忙しく働いていたところであった。
今日は、難民たちの仮設の住居を作るため、立地などを調べるためにずっと野外にいた。
それを捜し出して、知らせに来たシトラ族の若者は、たどたどしい中原の言葉で説明した。
「女。目が、鋭い。怖い顔。マオール人、かも。でも、ゲルヌさまの、家来になりたい、言ってる」
「うーん。刺客にしては、間が抜けているな。よかろう、通してくれ」
やがて、若者の案内でゲルヌのいるところまで歩いて来た女は、すぐに片膝を地面に着いて、臣下の礼をとった。
「殿下のご尊顔を拝し、恐悦至極に存じ上げます! 何卒、わたくしをご家臣の末席にお加えくださいませ!」
ゲルヌは笑い出してしまった。
「いったい、どういうことだ? わたしは皇位継承権も剥奪され、母国から追われる身。家臣どころか、家族すらおらぬ。誰かと勘違いしておるのではないか?」
女は、キッと顔を上げた。
「いいえ。間違いではございませぬ。わが師サンサルス猊下より、身命を賭して殿下をお護りするよう、申しつかっております!」
「おお、サンサルス猊下の。ん? そういえば、どこかで見たことがあるような……」
「いえ。お目に掛かるのは初めてでございます。サンサルス猊下の不肖の弟子、ファーンと申します。どうぞ、以後お見知りおきを!」