820 ガルマニア帝国の興亡(62)
更に数日、砦の包囲戦は膠着状態が続いた。
散発的に小競り合いはあるものの、マインドルフ軍は大規模な反撃はせず、牡蠣のように固く殻を閉ざし、付け入る隙を与えない。
その間に旧コパ軍の投降兵は、一万程度にまで目減りしてしまった。
「もう待てぬ。今日、決行しよう」
軍議に向かう途中、ポーマは目をギョロつかせてジョレに告げた。
チリチリの長い金髪を揺らしながら歩いていたジョレは立ち止まり、天を仰いで吐息した。
「仕方あるまい。このままでは、コパ軍が融けて無くなってしまう。武器を渡す手筈は整えたが、今の人数では、叛乱どころか、一気に逃げるだろう。それならそれで、ザネンコフ軍を誘き出す囮にはなるが。まあ、それでやるか」
「やろう!」
鼻息を荒くするポーマを、ジョレが苦笑しながら抑えた。
「そんなに興奮するな。ザネンコフに怪しまれるぞ」
ジョレは口笛を鳴らして部下を呼び、「始めよ」とだけ告げた。
その後、簡単に二人で段取りを話し合ってから、ザネンコフの待つ本営の天幕に向かった。
「遅いぞ!」
二人が天幕に入ったのと同時に、ザネンコフの怒声が飛んで来た。
ザネンコフは黒い胴着を身に着け、手には木剣を持っていた。
見事な銀髪が汗に濡れて額や首筋に張り付いており、息も上がっているから、剣術の稽古をしていたのであろう。
ムッとした顔のポーマが言い返す前に、ジョレが如才なく詫びた。
「申し訳ござらん、総大将どの。兵が弛んでおらぬか、見廻っておりました」
ザネンコフは鼻で笑った。
「確かに弛んでおるな。少しはわしの軍を見習え」
ジョレは、「そういたします」と微笑みながら、顔色を変えて飛び出そうとするポーマの袖を引っ張った。
ザネンコフは木剣を近くの剣掛けに置くと、手ぬぐいで汗を拭きとり、床几に座った。
その前には折り畳み式の小さなテーブルが置かれ、地図のようなものが広げてある。
三人が厭きる程見た、砦付近の図面である。
砦へ登って行く道は細く、しかもジグザグに折れ曲がっている。
それを睨みながら、ザネンコフは強い口調で告げた。
「これ以上長引かせることはできん。今日、総攻撃をかけよう」
遂に我慢しきれず、ポーマが声を上げた。
「馬鹿なことを言うな! この状況で、総攻撃など、できるか!」
ザネンコフは、鋭い目でポーマを見返した。
「この状況だからこそだ。待っていても今より良くなることはない。士気が下がるばかりだ」
執り成すように、ジョレが穏やかな声で反論した。
「しかし、ツァラト将軍は、焦るなと言い残されたが」
ザネンコフは苦い顔で吐き捨てるように告げた。
「ツァラト閣下は、再び蟄居謹慎を命じられたそうだ。やはり、野人皇帝は狂っておる!」
ジョレとポーマは顔を見合わせた。
忠実なツァラトさえそのザマでは、自分たちに未来はない、と覚悟を決めたようだ。
と、二人の覚悟が伝わったかのように、伝令が駆け込んで来た。
「申し上げます! コパ軍の投降兵約一万が、一斉に逃亡を始めました! 何故か皆武器を持っており、身柄を拘束しようと追っているわが軍にも、多数の犠牲者が出ております!」
ザネンコフは顔を真っ赤にして立ち上がり、その伝令を叱りつけた。
「馬鹿者! コパ軍の残党など、放っておけばよいのだ! それ以上追うなと伝えよ! ううぬ、わしが行って止める! おまえも、早く行け!」
「はっ!」
伝令が出て行った直後、ザネンコフの身体がスッと横に動いた。
その残像すら見えそうな空中で、二本の長剣がぶつかり合い、耳障りな金属音を立てて火花を散らした。
「あっ!」
「ううっ!」
ジョレとポーマが何が起きたのか把握する前に、いつの間にか木剣を手にしていたザネンコフが、二人の剣を握った手を強かに打ち付けていた。
「ぐあっ!」
「げっ!」
あまりの痛みに剣を取り落とした二人に木剣を突き付けながら、ザネンコフは嘲笑った。
「この二三日、軍議に必ず剣を持参して来るし、隠しようのない殺気を漂わせておるから、いつ斬って来るかと待ち構えておった。が、なかなか決断できぬようだから、今日は態と木剣しか持っていないことを見せつけたのだ。おまえら如きの腕前でわしを斬ろうなどとは、笑止千万。足腰立たぬくらいに打ち据えてやりたいところだが」
そこで、ザネンコフはフッと嘆息した。
「わしも、やる気が失せた。これ以上、邪知暴虐な野人皇帝に尽くすつもりはない。おまえらがマインドルフと縒りを戻したいのなら、勝手にするがいい。わしはもう関わらぬ。今すぐ軍を退いて北へ帰る。さらばだ」
唖然とする二人の前で木剣を捨てると、ザネンコフは天幕を出て行った。
そして、そのまま二度と戻って来なかったのである。
包囲軍の異変は、すぐにマインドルフに知らされた。
「ほう。ついに内紛でザネンコフが去ったか。で、残ったジョレとポーマはどうした?」
伝令役の兵士は、片膝を着いたまま、顔だけ上げて答えた。
「はっ。一旦逃亡したコパ軍の投降兵の一部を呼び戻したようですが、それも五千名程度にて、とても当方と戦える状態ではなく、休戦を申し入れて来るのは時間の問題かと」
マインドルフは脂ぎった顔で北叟笑んだ。
「そう簡単には休戦に応じぬぞ。おれに逆らったことを、後悔させてやらねばな」
マインドルフの横に浮かんでいたドーラが、「これこれ」と笑いを含んだ声で窘めた。
「もう充分後悔はしておろう。それより、ここは寛大なところを見せて、一気に仲間に取り込んだ方がお得ぞえ」
マインドルフも笑いながら、「わかっておるさ。冗談だ」と応えると、兵士に向き直った。
「休戦の申し出を待つ必要はない。こちらから言ってやれ。今日を以て停戦し、改めて友誼を結びたい、とな」
「ははっ!」
兵士が去って行くのを目を細めて見送りながら、ドーラはマインドルフに囁いた。
「愈々ご即位なさいますかな、陛下?」
マインドルフも、満足そうに微笑んだ。
「ああ。いい潮かもしれん」
「して、国名は?」
「そうさな。おれが生まれた町の名に因んで、アーズラム帝国はどうだ?」
「おお、良い名じゃ!」
「だろう? よし、決めた。おれは、アーズラム帝国の初代皇帝マインドルフだ!」