819 ガルマニア帝国の興亡(61)
ツァラト将軍が三万の兵を連れて去った後、残る七万五千の包囲軍の士気は、予想以上に急速に低下した。
理由の一つは、旧コパ軍の投降兵である。
ギルマン攻略のため急遽搔き集められた五万のコパ軍は、蛮族軍二万を攻めあぐねて停戦し、反転してヒューイの城を囲み、豪華な内装品などを略奪して城を占拠した。
その頃から脱走が相次ぎ、ツァラト軍に投降した時には三万にまで減っていた。
ヒューイの城で宝飾品などを手に入れた者たちはとっくに脱走していたから、この三万人には最初から不満が多かった。
おいしい思いもできず、武装解除されて雑役に廻されていたからである。
その間に、ツァラトに後事を託されたザネンコフ将軍と、ジョレ・ポーマ両将軍の対立から監視の目が弛み、旧コパ軍からの脱走者が急激に増加した。
この時点で、既に二万人程度に減っており、歯止めがかかりそうもない。
もう一つの理由は、そのザネンコフの統制方法にあった。
自分に厳しいザネンコフは、同じ厳しさを他人にも求めた。
水や食糧が豊富な砦に籠っているマインドルフ軍は別格としても、領地が近いジョレ・ポーマ両軍に比べ、遠隔地から急行して来たザネンコフ軍は最初から窮乏状態であった。
そのため、厳しく食事の量を制限していたのだが、その基準を全軍に及ぼしたのである。
それだけでなく、細かな日常の規則に至るまで、ザネンコフ軍のものを適用させた。
軍の統制とはそういうものだというザネンコフの考えに、当然ジョレとポーマは反発したのである。
その日、悪夢に魘されて目醒めたジョレは、或る言葉が耳から離れず、首を傾げた。
「マインドルフよりザネンコフ、とは、何のことだ?」
起き上がったものの頭がスッキリせず、ぼんやりと座っていると、いきなり天幕が開けられ、ポーマが入って来た。
ギョロリとした目を血走らせたポーマは、「決めたぞ!」と告げた。
寝惚けたように「何をだ?」と聞くジョレに、ポーマは高い鼻がくっつきそうな程顔を寄せて囁いた。
「決まってるだろう。ザネンコフの野郎を殺る」
「え? あ、いや、待て!」
一気に目が醒めたらしく、ジョレはチリチリの長い金髪をかき上げ、ポーマを諭した。
「まあ、少し落ち着け。この状況で仲間割れしても、マインドルフを利するだけだぞ」
ポーマは目をギラつかせて笑った。
「それでいいのさ。ザネンコフさえ始末すりゃ、マインドルフはおれたちを赦してくれる。なあ、そうしようぜ」
「どうした、ポーマ? マインドルフから何か言って来たのか?」
「いや。ただ、夢のお告げがあった。マインドルフの首を取るよりザネンコフの方が容易い、ってな」
「夢?」
ジョレは、山羊を連想させる顎髭を軽く扱き、「そういえば、わたしも」と呟いた。
ポーマは勢い込んでジョレの肩を掴んだ。
「だろ? おれたち二人が同じような夢を見たってことは、これは運命なんだ! やってやろうぜ!」
「し、しかし、相手は剣豪将軍。それに、一万五千のザネンコフ軍はどうする?」
ポーマは少し考えたが、すぐにニヤリと笑った。
「如何に剣豪とはいえ、軍議の席では油断してる。一応、剣は置いてあるが、身に着けちゃいない。おれとおまえの二人でいきなり斬りかかれば、殺れるだろう。問題は軍だが、旧コパ軍に密かに武器を戻し、叛乱を起こさせたらどうだろう? 鎮圧に向かうザネンコフ軍を、おれたちの軍が後ろから挟み撃ちにするんだ!」
「そう上手く行くかな?」
「行くさ! 夢のお告げだからな!」
ジョレは「夢か」と言いながら考えていたが、フッと笑った。
「どうせ夢なら、今の悪夢のような状態よりはマシだな。だが、やる以上、失敗は許されない。充分に準備を整えてからだ」
「おお、無論だ!」
同じ頃、包囲されている砦の中では、マインドルフとドーラが朝から豪華な食事をしていた。
「雑穀粥ばかり食べているザネンコフ軍の兵士がこれを見たら、一気に戦意を喪失するであろうにのう。見せられないのが残念ぞえ」
美味そうに料理を口に運ぶドーラに、マインドルフも脂ぎった笑顔で応えた。
「おれは旅商人であった頃から、食事には贅を尽くした。それが、若さを保つ秘訣でもあるからな。それはそうと、仕掛けは順調に進んでいるのか?」
「おお、それは勿論のこと。遠くも近くも、ちゃんと種を播いておる。後は、自然に芽が出るのを待つだけじゃ。やがて花が咲き、実が生ったら、一緒に料理して食べようぞ。ほれ、このように」
ドーラは笑いながら、煮込んだ豆を掬って食べた。
一方、帝都ゲオグストに到着したツァラトは、皇帝ゲーリッヒの叱責を受けていた。
「あんだけの大軍でマインドルフを取り逃がすってのは、どういうことだよ!」
ツァラトは、巨躯を折り曲げるようにして首を垂れた。
「面目次第もござりませぬ。コパ軍を盾にして逃げるとは思いもよらず」
「言い訳なんか、聞きたくねえ! 当分の間、蟄居謹慎だ!」
ツァラトは驚いて顔を上げた。
「な、なれど、それでは陛下をお護りする者が」
ゲーリッヒは鼻で笑い、「心配いらねえよ」と告げ、横を向いて「いいぜ、入って来な!」と叫んだ。
と、獣の革を繋いだ珍妙な服装の者たちが、ゾロゾロと歩いて来た。
それを見て満足そうに目を細めたゲーリッヒは、改めてツァラトに向き直った。
「今後は、帝国軍の差配を野人たちに任せることにした。順次入れ替えていくが、当面はおまえの連れて来た三万の軍勢から始める。文句は言わせねえぜ」