817 ガルマニア帝国の興亡(59)
マインドルフ軍三万が立て籠もった砦を囲むツァラト軍は、総勢十万五千に膨れ上がっていた。
内訳は、元のヒューイ軍が三万、直属軍に供出した兵を戻されたジョレ・ポーマ両軍が各一万、直属軍に残ったリンドル・ハリスの兵が各五千、コパ軍の投降兵が三万、そして最後に合流したザネンコフ軍が一万五千である。
砦は小高い丘の上にあるため、周辺にも平野が少なく、狭隘な谷間にまでビッシリと天幕が張られた。
比較的平坦な場所に本営が置かれ、連日策戦会議が行われているが、包囲後三日経ってもこれといった打開策がなく、皆の苛立ちが募っていた。
そのような中、総大将である赤髭将軍ツァラトに帰還命令が下ったのである。
今日もまた、主だった面々が本営の天幕に集まり、各自床几に座って円陣を組んだ。
「皆にはすまないが、元のヒューイ軍三万だけを率いて至急戻れとのご下命なのだ」
沈痛な面持ちで告げるツァラトに、気が短いポーマがギョロリとした目を剥いて問い質した。
「われらはどうすればよいのですか!」
それには、厳しい表情で腕組みしているザネンコフが答えた。
「決まっておろう。残ったわしらでマインドルフめの首を取るのだ」
すると、ジョレがボソボソした声で、「そりゃ無理だな」と呟くように評した。
その覇気のない態度に、ザネンコフが怒鳴りつけようとした時、一段下がって同席していたリンドル・ハリス軍の代表者が、「すみません、ツァラト閣下!」と声を上げた。
「わたくしたちは、ご一緒に連れて帰っては貰えぬのですか?」
ツァラトは苦渋の表情で答えた。
「すまぬ。陛下からの使者に念を押したが、元のヒューイ軍三万のみを連れ帰り、他の者は残すように、とのご指示なのだ」
あからさまには言わないものの、質問した代表者の表情は、不公平だと訴えているようだ。
領地が近く、将軍本人も参戦して来たジョレ・ポーマの供出した兵は、ツァラトの独断で本来の主人に戻されたからである。
同じような思いは、武装解除されたまま後方支援に廻されているコパ軍の兵士たちもしているだろうが、さすがにかれらの代表者は軍議には参加していない。
重苦しい空気の中、ジョレがスッと立ち上がった。
チリチリの長い金髪をサッとかき上げ、山羊を連想させる顎髭を軽く扱き、日常の会話のような平静な声で宣言した。
「それでは、わたしも自分の領地に帰らせていただきます」
今度こそ黙っていられず、ザネンコフが大声を出した。
「きさま、それでも将軍か! 敵前逃亡する気か!」
ジョレは薄いブルーの瞳を気弱げに伏せながらも、自分の父親のような歳のザネンコフに反論した。
「この軍は混成軍。総大将としてツァラト閣下がいてくださればこそ、辛うじて纏まっているのです。そのツァラトさまがいなくなり、中核の三万の軍も連れて行かれるなら、とても勝ち目はありませぬ」
「黙れ! 三万抜けても猶七万五千、敵の倍以上だ! 充分に勝機はある!」
「ならば、勝手にどうぞ。わたしは帰ります」
「何だと!」
ジョレに殴りかかろうとするザネンコフを、ツァラトが立ち上がって肩を掴み、「よさんか!」と叱りつけた。
そうして立ち上がると、ツァラトはこの場の誰よりも大きく、威厳があった。
「二人とも座ってくれ」
ザネンコフとジョレが渋々座ると、ツァラトも腰を下ろした。
「まあ、聞け。ジョレの気持ちもわからんではないが、今ここでマインドルフを取り逃がせばどうなると思う? あの執念深い男が、自分を裏切ったジョレやポーマを赦すと思うか?」
この言葉に、ジョレに続いて自分も帰りたそうな素振りであったポーマが、大きな目を一層ギョロリと見開いた。
かれの領地が、ここから一番近いのである。
「ま、正に、ツァラト閣下の言われるとおりだ。マインドルフの首を取れねば、夜もオチオチ眠れぬぞ!」
同僚のポーマの心変わりを目の当たりにして、ジョレはボソボソと「仕方あるまい。残ろう」と告げた。
頃は善しと見て、ツァラトは、まだ怒りが治まらない様子のザネンコフに命じた。
「後のことはおまえに任せる。但し、決して無理はするな。如何に砦が堅牢でも、所詮は孤軍。きっちり包囲すれば、いずれ音を上げる。我慢比べだ。辛い役目となろうが、頼んだぞ」
私淑するツァラトに頭を下げられ、さすがにザネンコフも立ち上がり、片膝を地面に着いた。
「ははーっ! このザネンコフ、身命を賭してこのお役目務めさせていただきまする!」
その様子を横目で見ながら、ジョレとポーマは不満そうに目配せし合っていた。
一方、そのジョレ・ポーマと共に四人組と称されるほど仲のいいリンドルとハリスは、帝都ゲオグスト郊外にあるリンドルの別荘で密かに会っていた。
魔道師対策なのか、二人がいるのは石造りの建物の地下室であった。
リンドルは薄い茶色の髪を短く刈り込み、それと不釣り合いに大きな口髭を蓄えた、筋肉質な男である。
その筋肉が自慢なのか、上半身には袖の無い薄い下着しか身に着けていない。
しかし、向かい合わせに座っているハリスは、もっと異様な恰好をしていた。
目の部分にだけ穴が開いている白い頭巾のようなものを、顎までスッポリ被っているのである。
尤も、リンドルにとっては見馴れたものらしく、普通に会話をしている。
「やっぱり、野人はおれたちを疑ってやがるな」
野人とは、かつて野人太子と呼ばれた皇帝ゲーリッヒのことであろう。
ハリスは、妙な抑揚の言葉で応えた。
「当然、だろう、な。今、皇帝宮には、僅かな、衛兵しか、おらん」
リンドルは悔しそうに舌打ちした。
「くそうっ! 直属軍に兵を出してなきゃ、今頃は」
ハリスが「それ以上、言うな」と遮った。
「ガーコ族の者に、見張らせて、いるが、安心は、できぬ。何しろ、あのマオールの、子供は、怖ろしい、相手だ」
「わかってるさ。まあ、いずれ、おれたちの出番は来る。それまでは、精々従順なフリをしようぜ」
二人は顔を見合わせて笑った。