814 ガルマニア帝国の興亡(56)
(作者註)
やや残酷な描写があります。
お嫌いでしたら、ここを飛ばしていただいても、話の流れが続くように配慮します。
マインドルフ・ゴンザレス両軍の激突を、文字どおり高みの見物をしている魔女ドーラは、どちらに味方する方が得か考えていたが、フッと笑い出した。
「わたしとしたことが。勝った方に付くのが得に決っておるわな。では、もう少し、見させてもらうぞえ」
地上では、当初優勢に攻めていた二万のマインドルフ軍が、一万五千のゴンザレス軍にジリジリと押し返され始めていた。
これは或る意味当然であり、人馬共に長距離を駆け続けて来た疲れが出て来ているのだ。
「退くな! 押せ!」
いくらマインドルフが叱咤しても、一度変わった流れを再び戻すのは容易ではなかった。
ここで愚図愚図していれば、ツァラトの本軍六万が追いついてしまう。
「そうなれば、ゴンザレスの砦を攻めるために一万を割いた意味がない。どうすれば……」
思わず天を仰いだマインドルフの目が、カッと見開かれた。
「おお、あれは! あの魔女めに間違いない!」
マインドルフは乱戦の中、必死で手招きした。
すると、騎乗しているマインドルフの頭よりも少し高い位置まで、ドーラが下りて来たのである。
「何の用じゃ?」
惚けた顔で聞くドーラに、マインドルフは怒ったような顔で告げた。
「おれを助けろ!」
「ほう? それが人にものを頼む態度かのう?」
「文句を言うな! こうなったのは、おまえのせいだぞ!」
「おやおや。わたしが何をしたと言うのじゃ」
「おれに言霊縛りを掛けただろう!」
ドーラは鼻で笑った。
「ブロシウスのように、かえ? 言うておくが、言霊縛りとは、本人にその気がなければ掛からぬもの。ブロシウスにせよ、おぬしにせよ、心の奥底に謀叛の火種があったればこそ、わたしの言葉で燃え盛っただけのこと。責任をわたしに擦り付けるのは、卑怯ぞえ」
焦りと苛立ちを露わにしながらも、マインドルフは、如何にも商人上がりらしい提案をした。
「ええい、議論をするような暇はない。ここで、おまえの姿を先に見つけたのがおれであったというのが、おれの運の強さを証明している。おれを助けた方が得だぞ!」
ドーラもニヤリと笑った。
「今までガルマニア帝国の人間と話した中で、一番納得できる申し出じゃのう。良かろう。実は、わたしもムシャクシャすることがあって、憂さ晴らしをしたいと思うておったのさ。お、そうか。兄がやりたいそうじゃ。暫し、待て」
「どっちでもいいが、早くしろ!」
それにはもう応えず、ドーラはスッと地上に下り、半眼となってゆっくり呼吸を整えた。
マインドルフは舌打ちし、「急げ!」と催促したが、ドーラは呼吸に集中している。
薄い灰色の長衣を通して見えていた、艶めかしい曲線を描く肉体の輪郭が、ゴツゴツした筋肉質な体型に変わっていく。
同時に、長い髪が抜け落ち、地肌が透けて見えるようになり、顎や頬が張って、顔が男性のものになった。
パッとコバルトブルーの目を開くと、マインドルフに微笑みかけた。
「うむ。これでよかろう。余に剣を貸せ」
マインドルフは、初めて見る伝説の聖王アルゴドラスの姿にやや気圧されながらも、普段使いとは別の長剣を渡した。
「ゲール陛下より下賜された品だ。バール綱らしい。大事に使え」
受け取ったアルゴドラスは、すぐに鞘から抜いて自分の背後を薙いだ。
同時に、密かに忍び寄っていたゴンザレス軍の兵士が、絶叫を上げて倒れた。
「良い剣だな。では、参る!」
アルゴドラスはそう言って笑い、自分が斬った兵士の馬を奪って駆け出した。
一方、反転攻勢をかけているゴンザレスの方も、疑問を感じていた。
「おかしいぜ。幾らなんでも敵の数が少な過ぎる。見たところ、二万そこそこだ。残りの一万は、どこに行きやがった?」
背後に伏兵を置いて挟み撃ちにするつもりかと調べさせていると、想定外の報告が飛び込んで来た。
「申し上げます! マインドルフ軍の別動隊一万が、われらの砦に向かって急行しております!」
「何だと!」
自分の砦であるから、ゴンザレスにもその戦略的価値はわかっている。
が、一瞬の驚きから醒めると、笑い出した。
「マインドルフの阿呆め! ここでおまえが死ねば、おれの砦を盗ったところで何にもならん。二万そこそこなら、ツァラトの本隊を待つまでもねえ。よし、今のうちに一気に潰してしまえ!」
実際、兵数の差以上にマインドルフ軍の疲れが目立つようになっており、ゴンザレス軍は猛攻を仕掛けた。
「いいぞ、勝てるぞ! マインドルフの首を取れ!」
大きな顔の真ん中にこじんまりと集まった目鼻を忙しく動かし、部下たちを激励しているゴンザレスの表情が、ふと固まった。
荒れ狂う大海を掻き分けるように、妙な姿の敵が一騎だけ、真っ直ぐこちらに向かって来ているのだ。
その一騎が駆けた後には、道のような空白ができているが、その道は血で染まっていた。
「な、何だ、あれは?」
その騎士は鎧も着ておらず、赤と灰色のまだら模様の布を身に纏っている。
「いや、あれは、返り血か……」
ゴンザレスにも、相手の異様さがハッキリわかった。
服が血で染まる程の激闘をしたとは思えぬような穏やかな笑顔なのである。
しかも、逃げるつもりがないのか、自ら馬を下り、歩いて来る。
ゴンザレスを護ろうと近づく兵士たちを撫でるように斬り伏せながら、その相手が声を掛けてきた。
「久しぶりだな、山賊!」
「お、おまえは、誰だ?」
「そうか。会うたのは妹の方であったな。余はドーラの兄だ」
「あ、あああ、すると、おまえは」
「アルゴドラスだ。面倒なら、ドーンでもよいぞ」
完全に揶揄われていることに気づき、ゴンザレスは怒りで顔を真っ赤にした。
「ふざけるな! たとえ、おまえが何様であろうと、おれには関係ねえ! 槍の錆にしてやる!」
騾馬に乗ったまま自慢の槍を構えると、ゴンザレスは、目にも留まらぬ速さで何度も突き出した。
が、アルゴドラスはそれを紙一重のところで次々に躱し、笑顔のまま黙ってずんずん近づいて来る。
いつの間にか槍の間合いを通り過ぎ、剣が届く距離になっている。
「こなくそっ!」
ゴンザレスが槍を横殴りに回すと、コンと乾いた音がして、穂先が飛んだ。
「うぬっ!」
咄嗟に槍の柄を捨て、剣を抜こうとしたゴンザレスの動きが止まった。
その特徴的な大きな頭が、ない。
首から血が飛沫き、その上から落ちて来る頭部を、アルゴドラスは自分の剣で突き刺して受け止めた。
周囲は騒然となり、「殺せ!」「生きて帰すな!」「首領の仇を討つ!」というような怒号が飛び交った。
その中で、アルゴドラスは静かに呼吸を整えていたが、そのゴツい体型がフワリと弛み、髪がザーッと伸びてきた。
「ゴンザレスの首級、確かにもろうたぞえ」
ドーラの顔でそう告げた次の瞬間には、その場から飛び去っていた。