805 ガルマニア帝国の興亡(47)
敵の動きが予想外であったことに驚いたドーラが飛び去り、暫くたった頃、再び上空からヒューイ軍に近づく者がいた。
ガルマニア帝国の文官の制服を着た、皇帝特別補佐官のヌルチェンであった。
マオール帝国の皇子でもあるかれは、一般の東方魔道師のような鍔広帽子の縛りは受けないらしく、無帽のまま飛んでいる。
顔が見えるくらいまで降りて来ると、直接声を掛けた。
「ヒューイ将軍、お待ちくだされ! ゲーリッヒ陛下から、ご命令の変更がございました!」
ギョッとしたように上を見たヒューイは、まず、「無礼者!」と一喝した。
「卑しき魔道師の分際で、わたしの頭上から声を掛けるとは、何事ぞ! 貴族に対する礼儀を」
ヒューイはそれ以上文句を言うことはできなかった。
冷笑を浮かべたヌルチェンの投じた刀子が、喉に突き刺さっていたのである。
しかも、刀子に毒が塗られていたらしく、ヒューイはそのまま絶命し、馬から落ちた。
騒然とする軍勢に、ヌルチェンは魔道による大音声で朗々と宣言した。
騒ぐな、これは上意である!
ゲーリッヒ陛下は、君側の奸を除くべしとご決意なされたのだ!
このヒューイという男は、少しばかりの家柄の良さを鼻に掛け、陛下を軽んじておった!
先帝陛下なら一刀両断されるべきところ、温情を以ってお使いくださったことを恩にも着ず、只管自分の城を取り戻すことしか考えておらぬ!
よって、大義により鉄槌を下したのだ!
だが、真の奸臣はこのような雑魚には非ず!
畏れ多くも、陛下に逆心を抱き、謀叛を企てようとしている者がおる!
佞臣マインドルフだ!
先帝陛下に草莽より引き立てられた恩を忘れ、ゲーリッヒ陛下を亡き者にせんと、着々と準備を進めている!
今回の遠征を奇貨として、反転して帝都ゲオグストを襲い、悪逆非道のブロシウスの猿真似をしようと目論んでいるのだ!
陛下はこの危機を察知され、急遽兵を集め、それを名将ツァラト将軍に託された!
されど、兵はまだ二万、三万を擁するマインドルフには足りぬ!
そこで、今ここにおる三万の軍勢にも、ツァラト将軍の指揮下に入って欲しいのだ!
陛下のため、帝国の未来のため、そしてそれを託されたツァラト将軍のため、共に戦ってくれぬか!
ヌルチェンの言葉が終わるや否や、爆発するような歓声が上がった。
ここにいる三万の軍は、抑々ツァラトを慕って集まった兵士たちなのである。
歓声は次第に一つの言葉に収斂した。
「ツァラト将軍の下に!」
「ツァラト将軍と共に!」
「ツァラト将軍のために!」
ツァラトの名を連呼する声が鎮まるのを待って、ヌルチェンは指示を与えた。
「ここより昨夜宿営した平原へ戻れ! 時を同じくして、ツァラト将軍率いる二万が到着する手筈だ!」
どよめくような雄叫びと共に、全軍が反転した。
ここまで進軍して来たのとは別の軍勢のように生き生きとした足取りで戻って行くのを見ながら、ヌルチェンは満足そうに微笑んだ。
「おっと、まだやるべきことがあったな」
そう独り言ちると、その場から消えた。
一方、自分が去った後、そのようなことがあったとは知らず、ドーラは真北に向かって飛んでいた。
「コパたちは、敵が予想の時刻を過ぎても到着しないことに気を揉んでおろうが、先にこっちを確認せんとな」
ヒューイの軍がゴンザレスの砦を目指している以上、マインドルフの方はザネンコフのところへ向かっているだろうと考えたのである。
「先に援軍の可能性を潰す策戦か。戦略としてわからんでもないが、ゴンザレスの砦とは距離的に倍は違う。結果、肝心のコパ軍との本戦に間に合わぬのではないかのう。それに、気づかれてコパ軍の追撃を受ける虞も、まあ、それはないか」
ドーラは自嘲するように笑った。
臆病なコパが、自軍を割いてまで追撃を仕掛けるとは思えなかった。
「敵の心配までしてやっても、しょうがないぞえ。本人の様子だけ確認して戻ろう。あっ、おったぞ!」
ドーラは隠形して高度を下げた。
軍勢の先頭近くを進んでいたヒューイと違い、マインドルフは最後尾の辺りにいた。
ヒューイ軍に比べ、行軍速度も全体的に遅い。
「ほう。遠くに向かう軍の方がゆっくりじゃな。これは、ひょっとして」
ドーラは更に低く飛び、速度も落として、マインドルフのすぐ傍まで寄った。
すると、ブツブツと呟く声が聞こえて来た。
「……ここからすぐに戻れば、明日の朝にはゲオグストに着く。もう四将軍は自分の領地に帰っているだろう。そうなれば、元々おれに味方していた四人だから、邪魔をするはずがない。が、手際よくやらねば、日和見してしまうかもしれん。そうなったら、コパとの決戦に不利だ。やるなら、一気に……ああ、いかんいかん! おれは何を考えているのだ!」
姿を消しているドーラは、声を漏らさないように慌てて自分の手で口を塞ぐと、垂直に上昇した。
充分に上空まで上がると、声を出して笑い始めた。
「なんと、なんと! わたしが播いた種が、ちゃんと芽吹いておるではないか! まだ多少の迷いがあるようだが、いずれ謀叛の花が咲くぞえ。あ、いや、待て。これはひょっとして」
ドーラは遥か東の方へ目をやった。
「態とか? マインドルフに罠を仕掛け、魔が差すように、態と隙を見せているのか? 父ゲールの最期を知っているゲーリッヒが、こんな見え透いた油断をするはずもないでのう。が、いずれにせよ、面白うなって来たわい!」
ドーラは笑いながら、不安で圧し潰されそうになっているであろうコパの待つヒューイの城目指し、飛んで行った。




