797 ガルマニア帝国の興亡(39)
そろそろ夕餉を始めようかという頃合いに、コパ軍の中を徘徊していたという不審な老婆が、本営の天幕に連れて来られた。
自らドーラと名乗ったというその老婆は虚ろな目をしており、新皇帝を宣言したコパを見ても、因縁浅からぬ元宰相チャドスを見ても、まるで路傍の石ころを見たように反応がない。
コパが「いくら何でも、別人ではないか?」と首を捻ると、目を細めて考えていたチャドスが首を振った。
「異常に老け込んでおりますが、顔立ちはよく似ています。これが本人かどうかは、専門家に聞くしかありませぬ」
「専門家?」
「はい。この者を発見した東方魔道師に、チャロア団長を呼ぶように命じました」
待つほどもなく、天幕の外から声がした。
「チャロアでございます!」
「苦しゅうない、近こう寄れ!」
コパの言い方に戸惑いながら中に入って来たチャロアは、老婆の姿を見てギクリと立ち止まった。
「お、おまえは……」
チャドスが苛立った声で、「どうだ、本物のドーラか?」と尋ねると、チャロアはガクガクと頷いた。
「あ、はい。間違いございません。いつも若く見える魔道を使っておりましたが、これが本来の姿。ドーラ本人でございます」
「ほう、そうか。だが、われらを見てもわからぬようだが?」
「それは恐らく、何らかの衝撃で、記憶を失っておるのでしょう」
「だが、ドーラと名乗ったそうだぞ」
チャロアは少し首を傾げたが、「本人に聞いてみましょう」と断り、ドーラの前に立った。
「おまえの名前は?」
チャロアが目の前に来ても虚ろな目のまま、ボソボソと答えた。
「……ドーラ、と教えられた」
「教えられた? 誰にだ?」
「知らぬ。耳の尖った男」
「妖精族か?」
「そうかもしれぬ。その男が、わたしをここに連れて来たのじゃ」
「ふーむ。で、その時、何と言われた?」
「ここに、コパという将軍がおるそうじゃ。わたしにとって、息子のような存在らしい。面倒をみてくれるはずじゃから、頼れ、と」
これにはコパが怒りだした。
「ぶ、無礼な! 朕の母上は昨年身罷ったが、やんごとなき血筋の貴族であった! このような下賤な者に、息子呼ばわりされる覚えはない!」
因みに、ドーラこそアルゴドラス聖王その人でもあり、下賤な者などと言われたと知ったら、怒り狂うであろう。
その辺りの事情もわかっているチャドスが、苦笑しながら宥めた。
「まあまあ、落ち着き召され、陛下。所詮、戯言でありましょう。アールヴ族の魔道師といえば、思い当たるのはバロードのクジュケ。ドーラが何故バロードまで行ったのかはわかりませんが、この状態故、持て余して連れて来たのでしょう。それよりも」
チャドスはチャロアの方を見た。
「明日よりの戦をどうするか、の方が重大問題だ。今のままなら、こちらが不利。逆転の鍵は援軍にある。ゴンザレスとザネンコフに、もう一度使いを出せ。いや、一度ではなく、しつこく催促するのだ。それから、ドーラのことはおまえに任せるから、記憶が戻ってちゃんと使い物になるまで軟禁でもしておけ」
「御意!」
翌朝。
ガルマニア帝国の帝都ゲオグストから、六万の軍勢が進発した。
率いるのは、マインドルフ・ヒューイの両将軍である。
それぞれが三万ずつの軍を統括するが、全軍の主将はマインドルフであり、ヒューイは副将という位置づけであった。
これが、貴族出身であることを誇っているヒューイには面白くなかったのである。
「なんでわたしがマインドルフの下なのだ。抑々この軍は、わたしの城を取り返しに行くのが目的だぞ。当然、わたしが主だろうに」
同行する部下たちに愚痴を溢したが、返事はない。
ヒューイの率いる三万の軍勢は、名目上皇帝直属軍となっているが、実態はツァラト将軍に心酔して集まった将兵たちで、今回の出陣からツァラトが外されたことに強い不満を持っていた。
ヒューイも薄々それを感じているため、余計に機嫌が悪かった。
尤も、本来口の軽いヒューイは、部下と親しくなればこの軍の秘密の目的地を漏らしかねない。
表面上ヒューイの城を奪い返しに行くと見せかけながら、敵対するゴンザレス・ザネンコフ両将軍を倒すのが、皇帝ゲーリッヒから与えられた密命であった。
ゲーリッヒがツァラトを行かせないのも、生真面目過ぎるこの老将軍には、演技などできないと見てのことであろう。
一方、自分の私兵三万を率いるマインドルフ将軍には、別の悩みがあった。
「今なら、ゲオグストを簡単に落とせるのに……」
思わずそう呟いては、慌てて左右を見回した。
無論、今すぐは無理で、隣を並走するヒューイの三万の軍から攻撃されてしまうし、他の方面将軍四名もゲオグストに呼ばれているから手が出せない。
「だが、愈々進路変更した後なら……」
明日の朝、夜営地を出た後、ヒューイの軍と密かに分かれ、本当の目的地であるザネンコフ将軍の城を目指すことになる。
「そこから引き返したら、他の四将軍も自分の領地に戻っているだろうし、ゲオグストは丸裸になっている……ああ、いかんいかん! 何を考えているのだ、おれは」
否定しても否定しても、そんな妄想が次々に浮かんで来るのだ。
マインドルフは激しく首を振った。
「これはドーラの『言霊縛り』なのだ。惑わされるな、おれ!」
ブツブツと独り言をいっては、急に大声を出すマインドルフに対して、部下たちは気味悪そうに目を背けている。
が、物陰に身を隠しながら、それを冷ややかに見つめている者がいた。
ゲーリッヒに直属しているヌルチェンである。
「一応、お知らせしておこう」
声を出さずに唇だけそう動かすと、その場から跳躍した。