796 ガルマニア帝国の興亡(38)
ヌルチェンの『魔の球』によって強制転送された魔女ドーラは、バロード西北端の廃屋に居た。
記憶を失った状態でスカンポ河の水中に出現し、自力でこの場所まで辿り着いたらしい。
報告を受けて飛んで来たクジュケと話しているところへ、後から来たウルスラ王女が、その哀れな姿に同情して自ら名乗ったところ、ドーラの記憶が戻ってしまった。
「おっと、久しぶりではないか、ウルスラ。そう邪険にするでない。どんなにおまえに会いたかったことか。さあさあ、早速じゃが、わたしの聖剣をどこに隠したのか、教えてもらおうか!」
掴まれている腕を振り解こうと藻掻きながら、ウルスラは激しく首を振った。
その頬には、再会の感激の涙がまだ乾いてさえいない。
「お断りします! 魔女となったお祖母さまには渡せません! 殺されても、嫌よ!」
が、同じく涙の跡が残っていても、いつもの美熟女の姿に戻ったドーラの目は、完全に悪意に満ちたものに変わっていた。
「ほう? 死んでも嫌かえ? ならば、これはどうじゃ?」
ドーラのウルスラを掴んでいない方の腕が、スッと動いた。
その先には、二人を引き離そうと機会を窺っているクジュケがいる。
ドーラの手がパッと開き、グッと握り締められた。
同時に、離れているクジュケが苦しそうに首の辺りを押えた。
「うぐっ!」
ドーラはニンマリと笑いながら、ウルスラに顔を寄せた。
「おまえにできない技も幾つかできるのじゃが、特にこの隔力は得意でねえ。おお、以前、見せたことがあったの。それはさて措き、おまえが死んでも嫌じゃと言うのなら、代わりにこの男を殺すまでのことぞえ。それでも駄目なら、おまえがうんと言うまで人を殺し続ける。さて、何人目でうんと言ってくれるかのう?」
「ああっ、止めて! クジュケを助けて!」
すると、顔を真っ赤にして苦しんでいるクジュケが、声を絞り出すように叫んだ。
「……言っては、いけ、ま、せん! ……わた、くし、は、死んで、も、……構い、ません、から!」
ドーラは舌打ちした。
「うるさいねえ。どうせ人質は幾らでもいるのじゃから、取り敢えず死んでもらおうか」
ドーラが握っている手に力を籠めると、クジュケの顔が苦悶に歪んだ。
それを見かねたウルスラは、「お願いだから、止めて」と、今にも泣きそうになっている。
ドーラは、ウルスラに聞こえないように呟いた。
「さあ、聖剣を呼ぶのじゃ」
遂に耐えきれず、ウルスラは泣くように叫んだ。
「助けて! お願いよ、レイチェル!」
「な、何じゃと!」
驚愕のあまり、ドーラがウルスラを掴んでいる手を離した刹那。
ボンと空気が弾けるような音がし、部屋の空中に赤ん坊の姿が出現した。
防護殻なしに、一気に跳躍して来たレイチェルであった。
その顔は完全に怒っており、掌をドーラに向けている。
「お、おまえは!」
ドーラは反撃しようと、クジュケを拘束している方の手も戻したが、レイチェルの方が早かった。
すぐ近くに落雷したような轟音と共に、ドーラの身体は廃屋の壁を突き抜け、屋外まで吹き飛ばされた。
ウルスラは「まあ、大変!」とそれを追いかけようとしたが、その前にレイチェルに「ありがとう!」と礼を述べ、更に、クジュケが咳き込んでいるものの大丈夫であることも確認した。
ウルスラが外に出てみると、ドーラは再び老婆の姿に戻っており、何とか起き上がったものの呆然としている。
あまりの変化に、ウルスラは泣き笑いのような顔になった。
「でも、ご無事で良かったわ」
そこへ、ヨロヨロとクジュケが歩いて来て、「危のうございます!」と声を掛けた。
振り返ったウルスラは、フッと息を吐いた。
「そうね。でも、放って置けないし。あ、レイチェルは?」
「あの後、ニコニコ笑いながら消えました。ご本人は、ちょっとした悪戯のつもりだったのかもしれませんね」
クジュケはブルッと震えた。
二人のやり取りを聞いていたドーラが、「レイチェル?」と首を傾げた。
クジュケは、もう一度震えた。
「このままでは危険ですね。わたくしが連れて行きましょう」
「え、どこへ?」
ウルスラの質問に、ドーラが答えた。
「……息子のところへ」
また泣きそうになっているウルスラに、クジュケはキッパリと告げた。
「ご同情は禁物です。ドーラさまは、本来いらっしゃるべきところへ、わたくしがお返しします」
「居るべきところ?」
「ええ。コパ将軍のところです」
その頃、自由都市リベラとの交渉に失敗した元宰相チャドスは、コパのいる本営に戻っていた。
「このような仕儀となり、面目次第もござりませぬ」
一応頭を下げているのだが、その声音には少しも誠意が籠っていない。
が、形だけとはいえ、即位の礼を行った興奮冷めやらぬコパは、鷹揚に頷いた。
「構わぬ。ロムという男は、所詮バロード人だ。ガルマニア帝国皇帝から声を掛けられる有難さがわかっておらぬ。いや、朕自身もその自覚がなかった。改めて国内に向け、勅命として呼び掛けるつもりだ。臣民たちが挙って集まって来るぞ。そうであろう?」
チャドスは苦笑いしただけで、返事はしなかった。
そこへ、「今、宜しいでしょうか?」と遠慮がちな声がした。
チャドスはホッとしたように、笑った。
「おお、チャロアの配下ですな。ゴンザレスか、ザネンコフか、どちらかから、援軍についていい返事が来たのかもしれませんな」
「良きに計らえ」
チャドスは吹き出しそうになり、慌てて外に向かって、「いいぞ、入れ!」と応えた。
しかし、齎されたのは、援軍要請の返事ではなかったのである。
入って来た東方魔道師は、戸惑ったような顔で二人に報告した。
「お忙しいところ、申し訳ございません。そろそろ夕餉の時間となり、兵士たちがその準備をしておりましたところ、不審な老婆を発見したとのことで、わたくしどもで保護いたしました」
コパとチャドスは、交々に聞き返した。
「不審な老婆?」
「保護した?」
「はい。最初は追い返そうと思ったのですが、名前を聞くと、自分はドーラだと仰るので」