794 ガルマニア帝国の興亡(36)
国境付近の廃村に、魔女のような白髪の老婆が出現したと聞いて、バロードの統領クジュケは顔色を変えた。
「まさか、とは思いますが。シャンロウ、場所を教えてください。わたくしが行って確かめます!」
「おらも行ってもええだか?」
仕事に飽きていたらしいシャンロウが嬉しそうに言うのを、クジュケはピシリと窘めた。
「駄目に決まっているでしょう! 溜まっている仕事を、少しでも片付けなさい!」
シャンロウは頬を膨らませた。
「ラミアンじゃなくて、おらが先に行けば良かっただ」
「何ですって!」
「何でもねえだよ。場所を書いた紙は、ラミアンの机の上にあるはずだあ」
「それを先に言いなさい!」
クジュケは席を立ち、ラミアンの机から走り書きした紙を取り上げて読むと、「やっぱり」と呟いた。
「なんか心当たりがあるだかね?」
シャンロウの質問は無視し、クジュケはその場から跳躍した。
スカンポ河に程近い、バロードの西北端の廃村の上空で防護殻から出たクジュケは、眼下を馬で走るラミアンを発見した。
「ったく。重要な案件なら、それなりの声の調子で言わなければ、こちらも聞き逃してしまいますよ」
今更言っても仕方のない愚痴を溢しながらクジュケは高度を下げ、ラミアンに呼び掛けた。
「この件はわたくしに任せ、おまえは戻って仕事をしなさい!」
ラミアンは声のした方を見上げ、「あ、コンスル閣下!」と驚いた。
「ですが、つまらない虚報かもしれませんよ」
ラミアンの視線の高さまで下りて来たクジュケは、自分の顔の前で手を振った。
「それなら重畳ですが、恐らく、本当です。そして、本当なら、非常に危険です」
「ならば、衛兵を手配しますか?」
クジュケは少し首を傾げた。
「いえ。その必要はないでしょう。できれば、あまり表沙汰にしたくありません。わたくしが戻るまで、この件については伏せておくように」
「でも、閣下の御身に何かあっては、わが国は立ち行きませんよ」
クジュケは改めてラミアンの育ちの良さそうな顔を見て、少し照れたように微笑んだ。
「ありがとう。余所者のわたくしにとって、生粋のバロード人からそう言われるのは光栄です。ですが、わたくしとて魔道師の端くれ。自分の身は自分で護れます。さあ、お戻りなさい!」
「はあ、畏まりました」
不承不承ラミアンが馬首を巡らすと、クジュケは地面スレスレまで下がって、水平に移動した。
「確か、この辺りだったと思うのですが。おお、あれだ!」
クジュケは廃屋の一つに近づくと、警戒しながらも声を掛けた。
「ちょっと、お邪魔しますよ!」
返事はない。
クジュケは小さな声で「ふむ。人の気配はしますね」と呟くと、浮身したままスーッと中に入った。
玄関を入ってすぐの部屋に人が座っていたため、クジュケはギクリとした。
「おっと、居ましたね」
木製の安楽椅子に座っているのは、長衣を纏った白髪の老婆であった。
目が虚ろで焦点が定まっておらず、入って来たクジュケを認識しているのかどうかわからない。
が、フラフラしていた視線が、クジュケの尖った耳の辺りで止まった。
「妖精族かえ?」
クジュケは苦笑して答えた。
「ええ。但し、八分の一ですがね」
「八分の一?」
「ああ、余計なことを申し上げました。お婆さん、少し話してもいいですか?」
「お婆さん?」
「そうか、自覚がないのですね。ん? 服が濡れて、まだ生乾きのようですね。それに、所々裂けている。どうされたのですか?」
老婆は遠くを見るようにして答えた。
わからぬ。
ああ、いや、服のことはわかるぞよ。
気がついたら河の中じゃった。
泳いでおると、何かが河底から上がって来て、やたらとチクチク挟もうとするので波動を打ってやった。
その拍子に身体が浮き上がったから、飛んでここに来たのじゃ。
この家には、何故か見覚えがあったのでのう。
が、自分の家である気はせぬ。
まあ、自分の家のことは、思い出せぬが。
いや、抑々自分が誰かも思い出せんのじゃ。
その後、近くを通りかかって親切に声を掛けてくれた者もいたが、敵か味方かもわからんので、波動を緩く打ったりして追い返したぞえ。
しかし、おまえの顔は、見たことがある気がする。
わたしの知り合いなら、教えて欲しいことがあるのじゃ。
わたしの息子は、今どこにおる?
クジュケは、どう答えるべきか迷っているようだったが、目を伏せて静かに真実を告げた。
「お亡くなりになられました」
虚ろだった老婆の、いや、ドーラの目がカッと見開かれた。
同じ頃、自由都市リベラでは、市政長官ロムとゾイアの前で、元ガルマニア帝国宰相のチャドスが話し始めていた。
このような際だから、社交辞令は省かせていただく。
わが国の状況は、凡そわかっておられよう。
一方的に皇位継承を宣言したゲーリッヒによって、ゲルカッツェ陛下もわれわれも国を追われたのだ。
陛下の行方は今もわからぬ。
幽閉されておるのか、或いは、お労しいことながら、既に身罷られておるやもしれぬ。
途方に暮れておるところに、天の配剤か、五万の兵を引き連れたコパ将軍が戻って来られたのだ。
コパさまは、知られておるようにゲルカッツェ陛下の従兄にあらせられる。
よって、われらはコパさまに即位をお願いし、帝国奪還の兵を起こすこととした。
固より、ゲルカッツェ陛下がご存命なら、正式に皇位をコパさまに禅譲いただく所存。
なれど、今はその余裕がない。
今しも、コパさまは即位の礼を挙行されておるはず。
ところが、これを良く思わぬ将軍がおり、ゲーリッヒ側に寝返ったのだ。
これを奇貨として、ゲーリッヒは大軍を催し、われらを攻め滅ぼそうとしておる。
ロム長官は、他国の内戦と思われるかもしれぬが、ゲーリッヒに中原制覇の野心があることは、今や周知の事実。
われらが潰されれば、次は間違いなく『自由都市同盟』の諸都市が狙われる。
就中、距離的に近いリベラは危うい。
是非ともわれらにご助力いただきたく、伏してお願い申し上げる。
ロムが応える前に、ゾイアが返事をした。
「今のリベラには、援軍を出すのは無理だろう。代わりに、われが加勢しよう」