789 ガルマニア帝国の興亡(31)
湖畔の別荘で新皇帝ゲーリッヒへの憤懣を溢していたマインドルフ将軍の前に、突如魔女ドーラが現れた。
「おお、おぬしの言うとおりよのう。国を創る苦労も知らぬ若い者が、生意気なことを言えば腹が立つものぞえ。どうじゃ、いっそ、おぬし自身が皇帝になってみぬか?」
相手が何者か、凡その察しがついたらしいマインドルフは、怯えた顔から警戒の表情に変わった。
「な、何を馬鹿なことを。おれにはそのような野心などない」
「ほう? わたしには野心満々に見えるがのう?」
ニヤニヤと笑って顔を覗き込むドーラに、マインドルは動揺を隠すように怒り出した。
「そんなことより、抑々無礼であろう! 先ずは名乗れ!」
「如何にもそうじゃな。おぬしも一度は耳にしたことはあろう、わたしの名はドーラ。どういう立場の人間かは、一口ではとても説明できぬ。色々事情があって、今はコパ将軍の傍におる。誤解のないように言うておくが、別にコパの手下になったという訳ではないぞえ」
マインドルフは鼻で笑った。
「で、あろうな。魔女と呼ばれるおまえが他人を利用することはあっても、他人に尽くすような殊勝な気持ちはあるまい」
ドーラは惚けたように肩を竦めた。
「それは誤解じゃな。交渉ごとは、一方だけが得をするようでは成り立たぬ。わたしは常に共存共栄を考えて行動しておるつもりぞえ」
マインドルフは鼻に皺を寄せた。
「ふん。騙されるものか! おまえの話など聞く気はない。さあ、帰ってくれ!」
ドーラは両方の眉を上げた。
「ふむ。帰ってもよいが、途中寄り道をするかもしれんぞ。ゲオグストの皇帝宮は今どうなっておるのか見てみたいしのう。おお、ついでにゲーリッヒに挨拶してみるか」
「脅しか!」
「はて? わたしがゲーリッヒに会うと困るのかの?」
マインドルフは、悔しそうに唇を噛んだ。
「もういい。言いたいことがあるなら、さっさと言え」
ドーラは北叟笑んだ。
「おお、そうかえ。ならば、話させてもらおう」
わたしは今、コパを皇帝に即位させようと動いておるが、コパがその器でないことは百も承知しておる。
しかし、器を云々するなら、逃げ出したゲルカッツェは論外としても、ゲーリッヒとて同じことよ。
まあ、わたしの見るところ、ゲールの息子のうち一番皇帝に相応しいのは、三男坊のゲルヌであろうが、あの坊やには一つ、大事な資質が欠けておる。
それは、野心じゃ。
安定した時代ならともかく、今のガルマニア帝国は、実力で自分のものにしたいという野心がなければ相続できぬ。
そして、現在、そうなっておる。
が、野心がある者が皇帝になれるなら、別にゲーリッヒでなくともよいはず。
そう考えてコパを担ぐことにしたが、もっと野心があり、もっと能力がある者がおれば、いつでもそちらに乗り換えてよい。
だから、最初におまえに言ったことは、冗談ではないのじゃ。
もし、おまえが本気で皇帝になる意思があるのなら、そう言うてくりゃれ。
全力でおまえの即位を後押ししよう。
おお、疑っておるな?
誓って嘘ではないぞ。
わたしの望みは唯一つ、バロードの奪還じゃ。
そのためには、どうしてもガルマニア帝国の後ろ盾が要る。
おまえが皇帝となり、わたしに必要な兵を貸してくれれば、願ったり叶ったりぞえ。
これぞ、わたしの考える共存共栄じゃ。
さあ、うんと言うてくれぬか?
マインドルフは言葉に詰まり、何度も深呼吸してから、答えた。
「こ、断る」
「今のところは、じゃな?」
「いや、そうで」
マインドルフに皆まで言わせず、ドーラは言葉を押し被せた。
「よいよい。今ここで決心せよとは言わぬ。だが、これだけは覚えておいてくりゃれ。わたしはおぬしの味方じゃ。いざという時には、当てにしてもらって構わぬ。皇帝には、なりたい者が皆なればよい。但し問題は、最後まで皇帝として生き残れるのは、果たして誰か、ということぞ」
マインドルフは疲れた顔で、ポツリと言った。
「今の話、聞かなかったことにする。だから、おまえも余計なことは言わず、もう帰ってくれ」
ドーラは満足そうに笑った。
「そうかえ。まあ、今日のところは真っ直ぐ帰るとしよう。一時の茶番ではあるが、コパを即位させねばならんからのう。そろそろヒューイも降参して、城を明け渡しておる頃ぞえ」
マインドルフは驚いた顔でドーラを見た。
「知らんのか?」
「何をじゃ?」
「コパの率いる五万の軍がゆっくりと進むうちに、ヒューイが単身城を抜け出し、龍馬に乗ってゲオグストに入ったそうだ。今頃は皇帝宮で、ゲーリッヒに援軍の要請をしているはずだ」
「何じゃと!」
その少し前、コパ軍五万は、ヒューイの城が見える位置まで接近し、最終の策戦会議をするという触れがあって、全軍が停止させられていた。
尤も、会議をするのはコパ本人と元宰相のチャドス、それにチャロア団長を加えた三人だけである。
「ドーラは一気に攻めよと言うたが、朕は攻めずに囲むべきだと思う」
貫録を着けるために伸ばしている顎髭を扱きながら、コパは、もう一方の手で地図に描かれた城を指した。
阿るようにチャドスが頷く。
「確かに。コパさまのご即位の場を、血で汚す訳には参りませんからな。五万の兵で、ぐるりと囲みましょう」
それに合いの手を入れるように、チャロアが口を添える。
「ヒューイ将軍の城は、丘とも言えぬ高台の上にございますから、登り口を全て遮断し、水や食糧を運び込めぬようにいたしましょうか?」
コパはちょっと顔を顰めた。
「兵糧攻めは面倒じゃ。時間もかかる」
チャドスは苦笑しつつ首を振った。
「いえいえ、そこまでは致しませぬ。要は、圧をかければよいのです。向こうは一万五千。しかも弱兵です。五万で囲み、鬨の声を上げたり、喇叭を吹いたりして脅すのです」
コパは首を傾げた。
「逆に、自棄を起こして、死に物狂いで攻めて来ぬか?」
「おお、それでしたら!」
チャロアが燥いだような声を出した。
「歌舞音曲で囃し立てましょう!」
チャドスが窘める前に、コパが即決した。
「そうせよ!」